二.
「えーっと、こっちの道だったはず…」
まみなが先導して一行はかがやき荘を目指す。しかし、訪れたのは一回きりな上に、3か月以上も時間が経っているので、皆の道の記憶はおぼろげなものに近かった。しかし、まみなはなぜか自信満々でポニーテールを揺らして前を歩くので、蓮子とお紺は黙って付いて行くことにした。
「それにしても、雪が降ったせいか前と印象が違うねえ」
お紺はあたりを見回してそう言った。もう日は沈んでいる時間だが、雪と、周辺にある古いガス灯のお陰で視界には困らない。
「む! こっちだよ! 絶対こっちだよ!」
まみなはそう叫ぶと、先程よりも更に自信に満ちた雰囲気を出した。
「何であんなに自信満々なんだろ…」
蓮子はぼそりと呟いた。
「野生の勘ってやつさ。あたいもそのアパートに近付いてる気がする」
「え、本当?」
「うん。この辺りの匂いは前に嗅いだことがあるよ」
お紺は小さな鼻をヒクヒクさせて言った。そう言われると、蓮子もこの景色は一度見たような気がして来た。
「…あっ! あったよ!」
まみなは嬉しそうに振り向き、指さした。その指先の延長線上には確かに、蔦の張ったコンクリートの壁に、今にも壊れそうな手摺りの付いた階段―魂が集うアパート・かがやき荘があった。相変わらずどこが輝いているのかは分からないほど、古い。そして外からはアパートの外観しか窺い知れないことも前回と同じであった。
「前と同じで、結界も張ってあるけど前よりも強いような…」
お紺は小さな眉間に皺を寄せて、蓮子とまみなに言った。
「…それって、もしかして私たちが勝手にここへ入ったからじゃないかな…」
結界の力が強まった理由を蓮子が推理すると、お紺とまみなは黙ってしまった。恐らくその推理は当たっているのだろう。
「ま、まあとにかく行ってみようよ! あたしは弾かれるかもしれないけれど、蓮子ちゃんたちは大丈夫かもしれないし」
「こういうときは半分人間で良かったねえ」
「ちょっと複雑だけどね…」
二人と一匹(蓮子の肩の上)は横に並び、アパートの敷地、つまりは結界の前に立つ。
「よし、じゃあ行くよ! せーの!」
まみなの掛け声で蓮子も一歩、アパートの敷地内に足を踏み入れる。一瞬だけ水に潜った直後のような抵抗と圧力を感じたが、それ以外の感覚は特になく、難なく結界内に入ることが出来た。蓮子はまみなの方を見ると、まみなも無事に結界内に入れたようである。
「あら! お客さん?」
蓮子たちがアパートの様子を見るよりも先に、声を掛けられた。蓮子たちが声のした方に注目すると、そこにはアパートの住民たちが集まっていた。てっきり皆部屋の中に入っているものだと思っていたので、蓮子たちは面食らう。一方で、突然の訪問者にアパートの住民たちもまた、驚いているようであった。
「…あっ! テメェらは!」
互いに固まっている中、住民たちの輪の中から、浅黒い肌に目付きの悪い男が出て来た。蓮子たちはこの男に会ったことがある。
「大家さんの…山本さん!」
蓮子は男の名を思い出し、口に出した。
「秋に会った妖怪の小娘共め、また来やがったのか…」
かがやき荘の大家・山本刹那は呆れ、ため息をついた。
「ご、ごめんなさい! えーと、皆さんはどうしてここに集まっていらっしゃるんですか…?」
蓮子は刹那の迫力に圧されて謝りつつも、状況を尋ねた。
「丁度良かった! これから二人とのお別れに加わってよ!」
刹那よりも先に発言したのは、艶のある美女―名前は染井麗華である。前に会ったときと変わらず赤いカクテルドレスという派手で露出の多い格好であるが、寒そうには見えない。よく見ると、アパート敷地内には雪が全くなかった。
「え…あの、お別れって…?」
「小娘! 余計なこと言うんじゃねえよ!」
輪の中から少ししゃがれた、年季の入った太い男の声が聞こえて来た。またもや蓮子はびっくりしながらも、輪の中心に近寄る。後からまみなも続いた。
「まあまあ、いつかお会いしたお嬢さんたちじゃないですか」
今度は優しい老婆の声がした。
「あ! トメさんと…源さん!?」
輪の中心にいたのは、絞り染めの手拭いを頭に巻いた強面の老爺と、それとは対照的にいかにも人の好さそうな、柔らかい表情の小柄な老婆であった。老爺の名は
「お別れってさっき言ってたけど、もしかしてこの二人が…?」
まみなは誰にともなく尋ねた。
「そうなのよ。…この二人の滞在期限は今日まで。ホントは源さんはあと一か月先って聞いてたけど。フフ…トメさんと一緒にもう一度あの世に逝きたいみたいね」
「おい小娘! また余計なこと言いやがって!」
麗華の言葉に源蔵はややうろたえながら怒鳴った。蓮子とまみなの方はというと、彼らが一度は死を経た存在だということを改めて思い出す。
「それにしても、また可愛らしいお嬢さんたちに会えるだなんて思いもしませんでしたよ。最期にまたこんなに大勢の良い人たちに見送られるなんて、私は果報者です」
トメは周囲を一通り見ると、幸せそうな笑顔を浮かべた。
「それはトメさんと源蔵さんの日頃の行いが良かったからですよ」
黒く長い、絹のような髪に清楚な雰囲気の若い女―
「死んでから日頃の行いも何もねえや。…でもまあ、他人様よりも長くこの世にいられたんだから、やっぱり儂は運が良いんだろうなあ」
「ええ、源さんはこのアパートの庭木の手入れに、故障した場所の修理もしてくれたりして、とても助かってましたからねえ。やっぱり生前も今も、立派な人ですよ」
「へえー? 最期までお熱いねえ」
源蔵とトメのやり取りを麗華は茶化した。源蔵は「うるせえ」と言いつつ麗華を睨むが、どことなく威圧感は弱いように蓮子には見えた。
「あっ、でも、これからどこか故障したら誰が修理するんでしょう…?」
懐子は心配そうに言った。
「そんときゃ俺に言えばいいだろうが! 大家なんだからよ! それよりジイさんバアさん、そろそろ別れは済んだか?」
刹那が確かめるように訊くと、源蔵とトメはゆっくりと頷いた。蓮子はそこではっとして、二人に近付いた。
「あのっ! お別れする前にもう一度お会いできて良かったです! 初めてお会いしたとき、親切にしてくださってありがとうございました!」
蓮子はそこで深々と頭を下げた。
「あらあら、こちらこそお礼を言わなきゃいけないわ。お嬢さんたちとお話出来てとっても楽しかったわよ。ありがとうね」
トメは笑顔でそう返した。源蔵は何も言わなかったが、その顔に険しさはなかった。
「お別れって言うなら、お酒持って来れば良かったよ。ウチ、酒屋やってるからさ。…二人とも、あっちでも元気でね。もしかするとすぐ転生するかもしれないけど」
まみなも二人に別れの言葉を告げ、トメはまた礼を言った。
「…それじゃあ行くぞ。ジイさんバアさんはこっち側に乗ってくれや」
そう言って刹那が物陰から持って来たのは、サイドカー付きの大型バイクであった。それを見た蓮子とお紺、そしてまみなはぎょっとする。―アップハンドルに六つのマフラー、ボディは黒地に炎やスカルのエンブレムなど、毒々しいデザインが施されている。刹那には合っている気もするが、やはり痛々しさの方が先に胸をついてくる。
「大家さんが直々に送って行くなんて珍しいのよ。アタシもあのバイクを見るのは二度目だけど、初見の子はびっくりしちゃうわよねえ」
麗華は苦笑しながら刹那のバイクについて言及した。
「迎えに来る連中、最近忙しいとか言って来ねえんだよ」
刹那は少々不満そうに言うと、バイクのエンジンを掛けた。案の定、爆音が響き渡り蓮子とまみなだけでなく、他の住民たちも耳を塞いだ。
「なんでい! このふざけた二輪車は!!」
サイドカーにトメと一緒に先に座っていた源蔵は、自分自身も耳を塞ぎながら運転席の刹那に文句を言った。
「うるせえ! 途中で捨てていくぞ! これしか運んでくモンがねーんだからよ!」
爆音に負けじと刹那も声を張り上げた。とても厳かな魂の見送り前とは思えない状況である。
「源さん、送っていただけるんですから…ごめんなさいね、大家さん」
トメは何とか二人の仲を取り成し、口論という事態は避けられた。
「…じゃあ行くぞ。何か言い残しておくことはないか?」
刹那はそう二人に尋ねた。源蔵は腕を組んだまま黙ったままである。口を開いたのはトメだけであった。
「皆さん、大変お世話になりました。ここでの生活はとても楽しかったわ。皆さん、本当に良い人ばかりで…」
トメはそこで涙ぐんだが、すぐに笑顔に戻る。
「では、私たちは先に逝きますね。皆さん、良い日々をお過ごしください」
「ええ、トメさんも…」
懐子も涙ぐみながら言い、麗華も目を真っ赤にしながら何度も頷いた。
「それでは…源さんは良いのね?」
トメが訊くと、源蔵は黙ったまま頷いた。
「大家さん、お願いします」
トメのその一言を聞くと、刹那はゆっくりとバイクを動かし始めた。そのままアパートの敷地から出た瞬間、音もなくバイクごと姿が見えなくなった。トメは最後までアパートの住民たちに手を振り続け、住民と蓮子たちもまた、手を振り続けていた。
「二人いっぺんに出て行っちゃったか…寂しいねえ…」
「…そうですね…」
麗華と懐子はアパートの結界を見つめたまま、呟くように言った。
「…そんでもって、なっちゃんも明日出て行くんでしょ?」
「…はい」
それまで黙って二人の会話を聞いていた蓮子はぎょっとする。
「えっ!? 懐子さんも…ですか!?」
「…ええ…」
か細い声で答える懐子は、どこか悲しそうに見える。そしてそれは、現世との別れだけが理由ではないと、蓮子とお紺は察知した。
「あの…気になることでもあるんですか?」
「えっ」
蓮子が探るように尋ねると、懐子ははっとした表情を見せた。
「そりゃ図星、って顔だね。あたいも気になるよ。未練があるなら話してみな?」
麗華も心配そうに懐子を見る。懐子は申し訳なさそうな表情をしながらも、おずおずと口を開く。
「実は…まだ会えていない幼なじみがいるんです」
「幼なじみ?」
お紺が繰り返すと、懐子は頷いた。
「一通り会いたい人には会えたんですけど…あ、会えると言っても、相手の方に姿は見えないので私が見てるだけ、という感じなんですけどね。…それで、この間ふと思い出したんです。小学校から高校までずっと友達だった二人の女の子たちのことを…」
「二人…ですか?」
「はい。大学は別々になったんですけど、その娘たち二人は大学も同じらしくて…その二人、実の姉妹みたいに仲が良くって、私はよくその二人の間に混ぜて貰って遊んでいました。一人は凄く活発な娘で、もう一人はとても大人しい娘だったんですけど、二人はいつも一緒でしたね」
懐子は楽しそうにその二人の幼馴染について語った。微笑ましい気持ちになる一方で、蓮子とお紺はその〝二人の幼なじみ〟に心当たりがあるような気がしていた。
「大学まで一緒ってのは凄いねえ、普通はどこかでバラバラになるもんだけど」
「そうなの?」
「そうだよ。ああ、君は狸の妖怪だったっけ? 人間社会も複雑なのよ」
「へえー…学校って、昔の寺子屋とかナントカ塾みたいなものでしょ? あたし、そういうとこに行ったことないから分かんないけど、行ってみたいなー」
麗華とまみなが学校に関する雑談を始めている傍らで、蓮子とお紺は懐子の幼なじみが気になってしょうがなかった。
「あのー…ちなみにその二人の名前って、憶えていますか…?」
蓮子は懐子に尋ねた。
「ええ、勿論よ!
「…ええーっ!?」
「…そんな気はしてたけどさ…」
蓮子の叫び声に、懐子だけでなく麗華とまみなも驚き、その一方でお紺だけが落ち着き払っていた。
「え、えっ!? あの、もしかして…その二人と知り合い…なの…?」
懐子は目を大きく見開き、口を魚のようにパクパクとしたまま固まった。
「えっと…私の家のお隣さんです…二人でシェアハウスしてて…」
「そんな偶然、あるものなんだねえ…」
麗華は腕を組み、どこか感慨深そうに言った。――桜坂桃と紅屋花菜は以前、桜にまつわる騒動で知り合った。それ以来、何度か顔を合わせる機会はあったが、じっくりと話をしたことはない。
「それじゃあ、今から二人に会いに行ってみるかい?」
お紺は懐子に提案した。だが、懐子はそこでまた悲しそうな顔になる。
「その、お気持ちは嬉しいんですけれど…」
「規則があるから出来ねえ相談だよ」
懐子の声を遮り、爆音と共に姿を現した刹那が話に入って来た。皆は思わずぎょっとする。
「帰って来るの早くない!?」
お紺が真っ先にツッコんだ。
「〝
「幽現道? ああ、どうりで…」
「お紺、幽現道って何?」
刹那とお紺だけで話が進もうとしていたのを、蓮子は慌てて止めた。
「幽現道、っていうのは幽世と現世の狭間にある、妖怪や霊とかの通り道さ。この道を使えばあの世もこの世も、魔界まで行き放題だよ」
お紺が説明をしてくれたが、聞く限りではとんでもない場所であることは分かった。
「あの…規則っていうのは…?」
「ここの住民がこのアパートから外に出るときは、最低でも外出する三日前に俺に申請しないといけないんだよ。そうじゃなきゃ、好き勝手に出入りしちまうだろうが」
刹那はバイクを適当な場所に停めながら説明した。
「で、でも、どうしても会いたい人があの世に戻る前に見つかって会いたくなったら…って場合は」
「駄目だ。一人だけ特別扱いはしねえ」
蓮子の主張を刹那はきっぱりと切り捨てた。正論をストレートにぶつけられて、蓮子は反論できない。
「ごめんなさいね、蓮子ちゃん。気を遣わせてしまって…大丈夫、二人が元気なら私はそれで満足だから」
懐子が少し寂しそうな笑顔でそう言うと、蓮子は大きく頭を振った。
「そうだよねえ、規則って言われたらそれまでだもんね…まあ、蓮子ちゃんは気にしなくても大丈夫よ。それより、今夜はトメさんと源さんに引き続き、なっちゃんの送別会だよ! 見送りに来なかった薄情者たちも無理矢理引きずり出してパーッとやりましょ! あ、君たちも来る?」
麗華は沈みかけていた空気を明るくするように言った。蓮子はそんな気分になれず、首を小さく横に振った。
「あ! それならあたしの家からお酒持ってくるよ! 今日は大盤振る舞いさ!」
まみなはポンと手を叩いた。麗華はぱっと、華やかな満面の笑みを見せる。
「良いわねえ景気が良くて! それじゃあ、大家さんも飲みましょ!」
「は!? いや、俺は…」
「いいじゃないたまには! じゃあまみなちゃん、二階の部屋で待ってるから! 蓮子ちゃんも、気が向いたらおいで!」
「はい…ありがとうございます…」
麗華は懐子の手を引き、刹那を半ば引き摺って行くようにアパートの階段へと向かった。蓮子たちはそこで、かがやき荘を辞した。
「…あのアパートにそんな規則があるなんて知らなかったよ…せっかく会いたい人が見つかったのに…」
蓮子はそう呟いた後に、小さくため息をついた。
「でも、あの大家さんが駄目って言ってる以上、どうにも出来ないと思うよ…何せ妖怪より上位の存在だし…」
まみなもつられてため息をついた。
「…そうだ! あの二人をこの里に連れて来れば…」
「バカ! 人間はこの里に連れ込んじゃいけないきまりだろ!」
「あっ…そうだった…」
お紺に言われ、蓮子はこの里の掟を思い出した。自分や太権が普通に出入りできているので忘れがちだが、あくまで蓮子たちが例外なだけで、本来人間は一切入れない場所なのである。
「でも懐子さんのあの顔…やっぱり一目会っておきたいよね…。ねえお紺、神野様に一度だけあの二人が里に入れるかお願いしてみようよ!」
「はあ!?」
お紺だけでなくまみなまでもがおどろきのなかにあきれを混ぜたような声を出した。
「あんたねえ…いくら心が広すぎる神野様でも、そんなのは許さないって」
「あたしもそう思うなあ…」
「それは分かってるよ。でも、駄目元でお願いくらいはしても良いでしょ?」
「あんたって、時々無謀というか恐いもの知らずというか…どうせあたいが止めてもやるんだろ? もうあたいも腹を括るよ…」
「お紺、ありがとう!」
「ははあ…あたしはとても出来そうにないや」
それからまみなと大通りで別れた蓮子とお紺は、神妙な気持ちになりながら神野の屋敷へと向かった。
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