二. 

 厨は昔ながらの土間に、本格的な竈が置かれていたと思えば、今時の水道が引かれ、大型の冷蔵庫も完備してある立派なものであった。蓮子は以前ドラマで見た旅館の厨を思い浮かべ、その風景に近いことに気が付いた。そして、良い匂いの元はここであり、鰹節や醤油、味噌の良い香りがし、空腹が促される。

「あ、蓮子ちゃんにゃー」

白玉が皿を出しているときに蓮子に気が付く。

「おや、何だい。お客は待っていておくれよ」

 お徳は呆れたように蓮子を見る。

「あ…すみません。でも、神野様が絶品だとおっしゃるお料理の様子を見たくて…」

「…まあ、邪魔しないなら構わないよ。それに、女子だから厨に入っても良いしね」

「ありがとうございます!」

 お徳は料理の方に戻った。パチパチという音は竈から聞こえ、油で何かを上げる音も混じっている。お徳は今、揚げ物を始めているようであった。そしてその傍らでは、せっせと白玉と杏仁が皿や椀の準備をしている。幼い少女たちだけが忙しなく動いているのもなんだか心苦しくなってきた。

「・・・手伝おうか?」

 蓮子は二人に言った。

「うーん、お客さんに手伝って貰ったのがばれたら鏡花様に起こられちゃう」

 白玉は困ったような表情でそう返した。

「そうそう、見学するなら大人しくしていておくれ。どこに何があるのかも分からないだろうだろう?」

 お徳も蓮子にじっとしているように言う。

「あ、はい…そうですね。すみません」

「…あんた、あたしが神野様に無礼を働いても何で追い出されないのか、まだ不思議に思ってんだろう?」

「へ!?」

「その声は図星だねえ。まあ、そう思うのは不思議ではないだろうけど。いいさ、あたしの過去を語ってやろう」

 お徳は料理からは目を離さずにその後も話を続けた。

「今じゃ立派な山姥だが、こう見えて昔は人間の女だったのさ」

「えっ!?」

 思わぬ事実に、蓮子は声を上げる。先程から姿を消していたお紺も、ひょっこりと出て来た。

「あれ? あんた知らなかった?」

「知らないよ! っていうか、あんたは今更なんで出て来たの?」

「その管狐はあたしを警戒していたんだろう。山の獣は山姥を恐れる奴もいるからねえ。あの天之助も、警戒心剥き出しで威嚇して来たけど、あんな可愛らしい姿じゃ怖くないよ。もっとも…美味そうではあったけどねえ」

 そこで「ひっひっひ」と笑い声を上げるお徳に蓮子はびくりとし、お紺の毛は一瞬ぞわりと逆立った。

「話が逸れちまったね。 あやかしは二通りの者がいる。元から妖怪である者、人間から何らかの原因であやかしに変化したもの。あたしは今言った通り後者さ。〝道明寺〟の話を知っているだろう? 嫉妬に狂った女が蛇になったって言う。あれは作り話じゃなくて、ホントのことさ。あたしはね、十五で嫁に行ったんだ。器量が特別良いわけじゃないが、旦那とは気が合って、幸せな夫婦になれた。だけどね、あたしたちは重大な問題を抱えていた。何年経っても子供が出来なかったんだ。世継ぎが出来ないのはそのお家の存続に関わる。その時代は一方的に、子供が出来ないのは女だけのせいにされていた」

「えっ! 酷い…! 女の人のせいじゃないかもしれないのに!」

 蓮子が憤ると、お徳も頷いた。

「ああ、そうさ。全く酷い話だ。今では考えられないことだがね。もしかしたら子供が出来なかったのは旦那の方に原因があったかもしれない。でも、あの時代は何も言えなくてねえ。旦那側の姑にはいつも責められて、しまいには世継ぎを産めないあたしに三下り半を出されて、あたしたちは離縁した。だけど、一度嫁に出された娘が実家に帰るのは恥であり、あたしには帰る場所は無かった。あたしは絶望したよ…。そして自死することを決めて、山の中に入ったんだ。だけどねえ、人間てのは意外と自分では死ねないもんだ。空腹のまま山を歩き回っている内に、後ろ向きなことばかり考えて、次第にあたしと離縁したその旦那、その家族にあたしの家族、それから周りの人間すべてが憎くなって来ちまった。それしか考えられなくなった時、あたしの目の前にあったのは…兎の死骸さ。あたしの手は血と毛だらけになっていて、その兎を殺して食っちまったのはあたしだということに気が付いた。…もう、そのときには既に、化けもんになっちまってたんだよ。それからは何もかもがどうでも良くなってね…山中の獣に、山賊、通りがかった旅の人間…ところ構わず殺してたよ。そして、山姥…あたしの噂が周囲に知れ渡り、山姥討伐隊がやって来たんだ。あたしは必死にそいつらから逃げ回った。そこへ助けてくれたのが、神野様だったのさ。神野様は、あたしの命の大恩人。助けていただいたときに、あたしに『料理は得意か?』と訊いて来たときはおかしかったけどね! それからは神野様の為に料理を作ろうと決めたのさ。あたしはこれでも、旦那にも料理だけは褒められていたからね。…あたしが無礼を働いても神野様があたしを追放しないのは、同情もしてくれるからだろうねえ。まあ、あたしごときに腹を立てていたら、魔王も務まらんだろうさ。器が大きいんだよ、あのお方は。だからこそ、厨はあたしがしっかり管理して、美味しいお料理をお作りしたいのさ」

 お徳はまた笑った。蓮子はその笑い声に怯えることは無く、今は安心して聞くことが出来た。



 自分と話していたはずのお徳は、さっと料理を次々に仕上げていく。その手際の良さに蓮子は付いて行けず、これが本物の料理人か、とただひたすらに感心するしかなかった。そして、ますますお腹が減って来る。

 ぼーっと見ていると、鏡花が厨に入って来た。

「お蓮、そろそろ夕餉をする場所に行きましょう。この屋敷は広いので、案内に来ました」

「あ、分かりました」

 そこで鏡花はちらりと白玉・杏仁に目を遣る。

「しっかりお手伝いできているようですね。では、参りましょうか」

 鏡花の後に蓮子は続いた。

「…お徳さんと何かお話をしましたか?」

 鏡花は振り向き様に蓮子に尋ねる。

「ええと、はい。その…お徳さんも苦労された方なんですね…」

「そうです。今も昔も、女子は大変なのです。ですが神野様は、男女分け隔てなく扱って下さっています。私が終生神野様にお仕えしようと決めたのは、神野様のそのような部分もあるからなんですよ」

「…分かります。神野さんは、魔王っていう肩書なのに優しい方ですよね」

 蓮子がそう言うと、鏡花は柔らかく微笑んだ。

 またもや細く長い廊下を曲がったり真っ直ぐ行ったりしている内に、客間とはまた違う襖の前に辿り着いた。鏡花が戸を引いて、蓮子に先に入るように促したので、蓮子は一歩足を踏み入れる。

「ここで…いつもお食事をとるんですか!?」

 蓮子は吃顎する。和と洋が合わさった広間が、食事をする場所であった。床は畳であるが、天井にはシャンデリアが吊るされ、柱も壁も天井も金泊が一面に張られている。観葉植物や花も置かれており、豪華絢爛を体現している。窓からは庭の景色を楽しむことが出来た。

「おお、お蓮とお紺が来たか」

 既に一杯やっている神野が上座に鎮座していた。そして真っ直ぐに、旅館の宴会場で見るような食事を載せる台が置かれてあるが、その台も金に赤の二色で構成されている。

「さ、座れ座れ。直に食事が来るだろう」

 神野はほろ酔いで機嫌が良さそうに蓮子に言った。

「えーと、どこに座れば…」

「神野様のお近くですよ。ここです」

 鏡花に案内され、蓮子は神野の斜め左前に座った。屋敷の主が近くにいると、やはり緊張する。

「今日は和食中心と聞いて、いつも通りの様式にしたんだ。洋食の時は絨毯を敷いて、そこにテーブルと椅子を載せる」

「そうなんですか…」

 蓮子は部屋のあちこちを見回しては、一つ一つにショックを受けた。

「お徳のことは聞いたか?」

 猪口に酒を注ぎながら、神野は鏡花と同じことを訊いて来た。

「はい。神野さんがどうしてお徳さんを追い出さないのかも…」

「あれは可哀相な女子だ。それに料理上手とあっては、ますます追い出せなくなるだろう?」

 神野は豪快に笑う。蓮子も何とか笑って見せたが、引き攣った笑みになってしまった。そうしている内に、白玉と杏仁、鏡花が料理を運んできた。

「ご飯ですにゃ、ですよー」

「お持ちいたしましたー」

 白玉と杏仁は手際良く蓮子と神野の前にある台に夕餉を置く。そして、後から自分たちの分も置いた。天之助もやって来たが、お徳の姿は無い。

「あの、お徳さんは…?」

 気になった蓮子は隣に座る鏡花に尋ねる。

「お徳さんはあの厨で食べるんです。後片付けもありますし、お徳さん本人も厨が一番落ち着く、と言っていますので」

「そうですか…」

「よーし、全員揃ったな! 飯にするか!」

 神野の一言で、皆は一斉に手を合わせた。蓮子ももう待ちきれず、忙しなく箸を動かし始める。

料理の内容は、菜っ葉の煮びたし、紅葉の形の麩が入ったお吸い物、鮭の朴(ほお)葉(ば)味噌焼き、山菜の天ぷら、五目御飯、ホタテの貝柱のクリームコロッケという、意外にも庶民的なものである。蓮子の想像では舟盛の刺身や、蟹が丸ごと一匹、というとにかく豪勢なものを予想していた。しかし、一度箸をつけて食してみると、どれもこれもが美味い。

「これ…美味しいですね!」

 恐らく、今まで食べた夕飯の中で一番と言ってもいいくらいの美味である。箸が止まらない。お吸い物は出汁がしっかり効いており、五目御飯は米が一粒一粒立っており、具もしっかりとした食感がある。朴葉味噌も絶妙な味加減で、くど過ぎず薄過ぎない。天ぷらもさっくりとして、塩によく合う。唯一の洋食であるコロッケも、サクサクとし、ホタテの貝柱の食感とクリームのコクがしっかりとマッチしている。神野が追放しないのも頷けた。

「そうだろう? 良い料理人がいて俺は幸せだよ」

 鏡花にお酌をされている神野の言葉に蓮子は頷く。

「凄いですよね…。こんな美味しいお料理が食べられるなんて羨ましいです!」

「そうだろう?」

「そういえば神野様、ここは山の中にある里、ですよね? 魚介類や肉、塩なんかはどうされているんですか?」

 お紺が食材の謎に気が付き質問する。

「ああ、それなら俺や鏡花ちゃんが人間に化けて買い出しに行ってるんだよ。しかも、値切りやすいように美女の姿で! この里では味噌と醤油は作れるけど、砂糖や海のモン、牛肉と豚肉はこの里では手に入らないからなあ」

 代わりに天之助が答えた。ちなみに天之助の皿や椀にはもう殆ど食事は残っていない。

「時には市場に出かけることもあるんですよ。鮮度が良い方が、やはり料理は美味しいですからね。醤油や味噌は、この里の妖怪が作っているのですが、下界のものよりも数段美味しいです」

 今度は鏡花が答える。美味い調味料に腕の良い料理人がいれば、鬼に金棒であり、道理でこの美味さである、と蓮子もお紺も納得した。

 それからはお代わりも出来ると聞いた蓮子は、遠慮も忘れて何杯も頼んでしまう。そうして、あやかしの里での初めての馳走を堪能したのであった。

ちなみに、家族に連絡をし忘れ、遅く帰った蓮子に母から雷が落とされるのは、暫く後のことであった。

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