第伍話 お徳さん
一.
〝
しかし、風習というものは中々消えないものであり、昔へと時代を逆行しているあやかしの里では尚更、その掟が根付いている。そして、その里長の家も、例外ではなかった。
「ごめんくださーい」
蓮子とお紺はお互いに意図せず、声を揃えて来訪の挨拶をした。
奥から、複数の軽やかな足音が聞こえて来る。そしてひょっこりと現れたのは、赤と水色の下地に白い水玉模様という着物姿の少女たちである。双子の仔猫又、白玉と杏仁である。珍しいことに、鏡花は姿を見せなかった。
「あっ、いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
二人は並んで笑顔で連子たちを出迎えてくれた。ふと、良い香りがする。もう夕餉の支度しているのだろうか、と蓮子は思った。
「お邪魔します。そういえば、あなたたち久し振りねー」
蓮子は靴を脱いで上がる。
「えへへー。多分そのときは私たち寝ていたんですにゃ」
「そうそう。私たち猫は十六時間以上は寝ないとすっきりしないのですにゃー」
杏仁はそこで大口を開けて欠伸をする。すると、杏仁の輪郭がぼやけ、いつの間にか少女ではなく白い子猫の姿になった。あまりに突然のことに、「ひっ!」と蓮子は驚いて小さく声を上げてしまった。
「ああーごめんなさいにゃあー。気が抜けると変化が解けるんですにゃ」
子猫の杏仁はもごもごと口を動かして説明した。
「なんだいなんだい、妖怪のくせに情けが無いねえ」
お紺は呆れるが、蓮子は驚きこそしたものの、その愛らしい子猫の姿を見て思わずにやけてしまう。
「やっぱり子猫は可愛いなあーうりうりっ」
蓮子は思わず屈んで杏仁の青い水玉模様のリボンが着けられている喉をくすぐる。杏仁は目を細めてゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「あーっ、ずるい! 私も!」
それを見た白玉も、猫の姿に戻る。また一匹愛らしい動物が増え、蓮子は白玉の額を撫でてやる。目を細めた白玉を見て、蓮子はほっこりとする。
「あっ、蓮子ちゃん!」
二匹の子猫又と戯れていると、奥から天之助が現れた。天之助とも久し振りに会う。
「お邪魔してまーす。お久し振りですね」
「ホントだよ! 会いたかったよー蓮子ちゃん!」
「天之助、サボっているのかにゃ?」
杏仁がじっと天之助を見つめる。
「警護の間の休憩だよ! というか二人も何で元の姿に戻ってんのさ」
「
今度は白玉が答える。
「うーん、まだまだ修行不足だね! あっ、でも俺も元の姿になれば、蓮子ちゃんと触れ合える…?」
「うわあ…」
にやける天之助に対し、白玉と杏仁は同時に〝それはない〟と言いたげな声を出し、冷ややかな目(と言っても愛らしい黒目がちのもの)で見つめる。
「えー、やっぱ駄目かあ…」
「でも、天之助さんの元の姿も可愛いですよね!」
「え!? やっぱり?」
「すぐ調子に乗るにゃあー」
杏仁が呆れたように言う。すると、今度は外から足音が近付いてくる。玄関の戸を引いて現れたのは、風呂敷を手にした鏡花であった。
「…何をやっているのですか」
ジト目で天之助と白玉・杏仁を見つめる。
「ひゃああ! こ、これはですねえ…」
「蓮子ちゃんの為に変化を…」
白玉と杏仁の二匹は分かりやすいほどに動揺し、声が震えていた。
「嘘おっしゃい! 気が抜けて変化が解けたのでしょう? まったく…お客様もいらしているというのに…天之助! あなたは警護の仕事があるでしょう!?」
鏡花の雷が三人に落ち、小さくなる。
「は、はは…ちょっと休憩を…」
「休憩ならさっき取ったでしょう!」
「はいい!!」
「あ、あの鏡花さん…今更ですけどお邪魔してます…。その、どこかへ出かけられていたんですか?」
蓮子は慌てて三人から意識を遠ざけようと、鏡花に話題を振る。
「ええ、厨にいるお徳さんに、お
鏡花は大きくため息をついた。鏡花の苦労の片鱗が知れる話である。
「そういえば、お徳さんって名前は一度聞いたことが…」
「この屋敷のお料理を作っている妖怪です。彼女のお料理は絶品ですよ。そう言えば蓮子さんは、まだ御馳走になっていませんでしたよね?」
「はい。そっかー、良い匂いがここからでもしますし…どんな料理なんだろー?」
「良かったら召し上がって行かれますか? この里に来てから、こっちでお食事をしたことは無いですし」
「えっ、良いんですか!?」
「ええ、勿論。…さて、白玉・杏仁! 人の姿に戻って夕餉の支度を手伝いなさい! 天の助はもう一度屋敷の見回りを! 私はこのお麩をお徳さんに届けなければいけないので…」
「のわーっ!?」
鏡花の言葉を遮って、悲鳴が聞こえて来た。声は神野のものである。
「な、何!?」
「神野様!? …まさか!」
鏡花は急いで履物を脱いで上がると、蓮子や天之助たちの間をすり抜けて駆けていく。蓮子も何事かと、慌てて鏡花の後を追った。その後で天之助と人の姿になった白玉・杏仁までもが何故か追いかけて来たが、今は気にしてられない。
細く長い、艶のある廊下を幾度か曲がり、悲鳴の現場へ辿り着いた。そこには尻餅をついた神野と、割烹着姿に白髪頭の、包丁を手にした真蛇の面そのものに近い老婆が対峙している。
「ぎゃあああ!!」
あまりの絵面に蓮子とお紺は悲鳴を上げてしまった。今まさに、山姥が男を食おうとしている現場に遭遇しているのである。悲鳴を聞いた神野と老婆は、同時に蓮子たちの方を見た。
「お、おお、お蓮とお紺じゃないか! はは…」
「はは、じゃありませんよ! あーれーほーど! 厨に入るなと申しましたのに!」
老婆はしわがれた声で叫ぶ。その声を聞いた蓮子は背筋が凍り付いた。一方、鏡花はため息をつく。
「神野様、どうして厨に入ったんですか?」
「いやあ、腹が減って我慢できなくてな…。何かつまめるもんでもないかと、お徳さんの気配を確認して入ったんだが、背後を取られてな…で、ご覧の有り様よ」
神野は苦笑して鏡花に説明する。蓮子は話の中に出て来た老婆の名前にびっくりした
「えっ、お徳さんてこの人なんですか!?」
「はい。これがお徳さんです」
鏡花は淡々と答えた。
「えーと、その…神野さんが恐れる程の相手だったんですか…?」
「何だい小娘! あたしはここの厨の番人! そして厨は女子しか入ることは許されない! 神野様はその鉄の掟を破ったのさ!」
包丁の刃先を向けられ、蓮子はびくりとする。
「え、ええ…そんな掟があったんですね…」
「今では考えられませんが、昔はそれが暗黙のルールでした。もちろん、殿方の料理人もいましたけど、一般の家では女子だけしか入らないのが普通です。そして、この屋敷もそれに則っているんですよ」
「そうだよ! 全く今時の若いモンはそんなことも知らんのかね!」
お徳は不愉快そうに眉を顰めた。そうは言われても、蓮子とお徳では生きてきた時代が違うのだから仕方がない。そして、この屋敷ならずこの里、そして魔界の王である神野が、たった一人の老婆に敵わないのも不可解であった。
「何で俺がお徳さんに敵わないのか? って顔をしてるな。ああ、そうとも。その気になればお徳さんのような山姥なんて一捻り。だが、お徳さんの料理は最高なんだよ。だから、追い出す気になれない。そう言うことだ」
蓮子の心の内を見透かしたかのように神野は説明すると、少し崩れてしまった着物を直しながら立ち上がった。
「すまなかったなお徳さん。次からは気を付けるよ」
「ええ、そうして下さいな」
お徳の顔は般若のものから普通の老婆のものに戻った。だが、その理由だけで神野が敵わないというのは、少々理由としては物足りない気がする。
「お徳さん、頼まれていたお麩、買って来ましたよ」
「ああ、すまないねえ」
鏡花から風呂敷を受け取ったお徳は、今度は笑顔になる。怒りは完全に消え去ったようであった。
「そうだ、お徳さんよ。紹介し忘れたがこれは俺が里の見聞役に任命した蓮子と、管狐のお紺だ」
「まあ、そうだったんですか」
「は、初めまして…」
「どうもー…」
蓮子とお紺は恐る恐る挨拶をする。お徳は特に表情を変えることは無く、頷いた。
「ああ、聞いたことがあるよ。でも会うのは初めてだったもんでね」
「はあ…」
「神野様、お徳さん。お蓮がお徳さんの料理を頂きたいとのことですので、人数を一人分増やして下さい」
「おお、それは良いな! お徳さんの料理は絶品だぞ」
「そうかい、じゃあ、腕に寄りをかけて造らないとね!」
お徳はそう言うと、意気揚々と厨の方へ戻って行った。
「ほら、あなたたちも配膳のお手伝いを」
「はーい」
白玉と杏仁も、鏡花に命じられてお徳の後に続く。
「天之助、あなたは警護に戻りなさい」
「はーい」
白玉・杏仁と同じ調子で返事をすると、廊下の向こうへと消えて行った。
「では、お蓮は客間で料理が出来るまで待つか?」
「あ、えーと…」
蓮子はここで、魔王さえも一目置くお徳の料理が気になってきた。
「私、お徳さんが料理している所を見てみたい、です…」
「ほう、まあ蓮子は女子だから厨には入れるが…そう言うのなら見てみても良いんじゃないか? ただ、邪魔しないように気を付けろよ?」
「それは、しっかり肝に銘じておきます…」
「では、私は御食事の前にお掃除をしておきます。それでは」
「おう、俺も大人しく夕餉が出来るまで待つか…」
神野が先頭に立ち、その後に続くように鏡花も来た方向を戻って行った。蓮子はそっと、厨に降り立つ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます