【文芸】”ありがとう”の魔法

柿木まめ太

”ありがとう”の魔法

 放課後のチャイムが鳴った。

 机に出していた教科書やノートを鞄の中へ無造作に放り込んだ。

 隣の席の真由美が、俺のほうへすり寄った。茶色いおさげが揺れる。

「ねえ、隆司。今日、一緒に帰ってもいい? ちょっと相談したい事があるんだ。」

「ああ、別にいいけど。クラブは無かったかな?」

「今日は木曜日で、うちのクラブは休みって決めたじゃん。」

 麻由美は俺の顔を指差してそう言った。うん、まぁ、それ決めたの俺だったけどさ。

 俺を文芸部の部長に推薦してった先輩方も、まさかこんな事になるとは思ってなかっただろう。毎日活動していた部が、週三日だけになったなんて。

 致し方ない事情だ。同じ志を持つ者同士で集まったとはいえ、部活では皆わいわい騒ぐだけでまったく手が動かないなんてヤツが沢山居たんだから。しかも有意義な論戦に花を咲かせているわけでもなく、くだらないダベり話だけなんだ。それならさっさと家に帰って各自で努力に励んだ方が、他人の邪魔をするよりは余程にマシってもんだと俺は思うわけで。だから、基本は週三、後は自由参加にしたわけだ、独断で。

「わたしは色々と聞きたいことあるのに、休みばっかりなんだもん。」

 棘のある声で、麻由美は不平を零した。俺は真面目な部長じゃない。自分でも解かってるから、こういう言い方をされるとカチンとくる。

「俺に小説談義を持ちかけたって無駄だぞ? 趣味でやってる範囲で、そんな詳しくなんかないんだから。」

「うちの部で一番ちゃんとしたの書いてるじゃない。部長に推薦されたのだって、それでしょ?」

 ああ言えばこう言う、の典型だ。

「ちゃんとしたのって、誰がどういう基準で決めるんだよ。バカ。」

 引き受けた時には考えもしなかった"責任"ってヤツで、俺にはちょっと居心地が悪くなった。責められてるみたいで、そうじゃないのは解かるんだけど、やっぱり釈然としない。

 教室は騒然とし始めた。皆がガタガタと移動する。クラブへ行く者が大半で、残りは俺達同様に家へ帰る者たちだ。流れのまま教室を押し出されて、二人は廊下へ出た。誰も俺達の会話に興味なんか示さない。俺が多少声を荒げても、いつもの聞き慣れた痴話喧嘩くらいにしか思ってないだろう。

 廊下もやっぱり人ごみでごった返していた。一斉に各教室から吐き出された生徒の群れは、一時に集まるからものすごい数だ。担任が厳しいクラブの連中は緊張した顔してたり、絶望した顔してたりした。

 ちょっとの間黙っていた麻由美が、急に猫なで声を出した。

「ねぇ、隆司。わたしがクラブの後輩たちに指導してるのは知ってるよね?」

「ああ。暇人だなと思ってるよ。」

「それでね、言い方とかでちょっと悩んでるんだけど、それで相談したいの。」

 あっ、このヤロウ、俺の言葉は無視か。

「お前が好きでやってる事だろ。お前の気の済むようにやりゃいいじゃないか。」

 ムカついたのも相まって、少々ぶっきらぼうな言い方になった。案の定で、麻由美は嫌そうな顔をした。どうせ俺はしつこい男だよ。

 流されるまま廊下の角を曲がれば、段々の滝が出現する。多数の黒い頭が段に合わせて降りていく。すっかり忘れていたらしい麻由美がコケそうになって、俺の腕にしがみついた。

「気を付けろよ、」

「ご、ごめん。びっくりした。……て、あれ、何言おうとしたんだっけ? あ、そうだ、後輩への個人指導よ、思い出した。」

 リズムを付けたステップで階段を降りるから、麻由美の声も心なしか弾んで聞こえる。女ってのは割と感情がコロコロと変わると思うんだけど、麻由美だけのことかも知れない。危険は去ったはずなのに、組みついた腕は放すつもりがないらしい。

「隆司も参加してくれたら助かるんだけど。ほら、一年生とかは段落の最初は一文字下げるなんて基本的なトコから解かってない子も多いでしょ?」

「そんな基本程度は独学で勉強するもんだと思うけどな。」

 我ながら冷たい響きのある答えだと思う。麻由美はまたムッとした顔になった。そして、腕を放した。ものすごく解かりやすい女だ。けど、俺は詫びを入れるつもりはない。俺は間違ってない。何と思われようと。

 俺が取った無言の態度にますます腹を立てたみたいで、麻由美の声は棘が倍増した。

「それ、本人に面と向かって言えるの? 基礎からやり直せって? 言ってよ、隆司が。」

「俺は最初からそんなモン請け負う気はないぞ。」

 本当に、売り言葉に買い言葉ってヤツだ。俺も大概、頑固だ。

 今日び、ネットを調べりゃ山ほど出てくるような知識だろうに、なんでそんな基礎の基礎を俺達が時間割いて教えなきゃいけないんだよ。家庭教師なんかは金貰ってんだろうが、こっちは無償だ。

 麻由美みたいにボランティア精神発揮して他人に尽くすのもいいけど、時間は有限ってのを忘れてるんじゃないかと常々思うんだ。

「わたしが勝手に始めたことだけどさ。けど、隆司は部長じゃないよ、どうして協力してくれないの?」

「キリがないからだって言っただろ。基礎くらいはテメーで学んでくれ。」

 キリキリと眉を吊り上げて、麻由美はそっぽを向いた。面倒臭ぇ。

「いいじゃないか、別に。本人は巧いつもりになって、好きなように書いてるんだ。それを他人がとやかく言う必要なんかないだろ、頼まれたわけでもないのに。友達同士で見せ合って、わいわいやる為のツールなんだよ、解かれよ。」

 余計な事なら言わなくていい。お互いおべんちゃら言いあってる連中に本当の事を言って、水を差す必要もない。俺もなんで今、コイツの機嫌取ろうとしてんだか。

「でも頼まれたんだもん。"悪い点があったら教えてください、"って、持って来られたから、親身になって色々と教えてあげようと思ってさ、」

「有難迷惑ってのもあるんだよ。相手は社交辞令でそう言っただけかも知れないだろ。お互いの熱意に差があるかもなんてのは、最初から思っとけよ。」

 機嫌を取るつもりの譲歩は、逆にますます麻由美を不機嫌にさせた。なんだか、ところどころで噛み合わない会話だ。麻由美がそんなに不満を抱えてるなんて気付かなかったけど、部活動はそんなに辛かっただろうか。

 そんな素振りはなかったと思うんだが。

 弾みをつけて階段を一段ずつ踏みしめる。のろのろした行進はたぶん俺の気の迷いだ。いつもと同じスピードだけど、今日だけはなんだか遅く感じている。

 麻由美が微かに鼻を啜り上げた。俺には聞こえなかったと思ったかも知れない。食って掛かってきた。

「そうよね、誰も本人に本当のことなんか教えないもん。"あなたの作品は、とても読めるレベルじゃありません、"なんてね! 正直に言っちゃダメなんだってさ。ここをこうすればいいですよ、ここを直せば良くなりますよ、……そんな細かいトコをどうこうしたって、どうにもならないレベルだってのに!」

 意味が解かんねぇ。急に飛躍した。誰のこと言ってんだ?

 文芸部でそんな完全なシロウトみたいなヤツは……。部活じゃないんだ。突然理解した。

 熱くなって、見境いも無くなった麻由美は辛辣だ。ここぞとばかりに貯めこんだストレスをぶちまけた。一呼吸置いたのを見計らって、俺は言葉を掛けた。

「誰だって最初はそんなもんだろ? お前だって、最初はヒドかったじゃないか。」

「そうよ、だから基礎からちゃんと調べた時には驚いたわよ、分厚いルールブックが一冊出来ちゃうくらいに、沢山の基本があって、途方に暮れたんだもの。」

 落ち着かせるつもりで放った俺の言葉は効果がなかった。

 麻由美がしばし黙る。言葉を探してる風に、口が時々開いては閉じた。

 階段がちょうど終わって、玄関口と体育館への岐路が現れた。流れはここで二手に分かれる。俺達はもちろん、下駄箱のある玄関方面へ向かう。

 まだ言い足りないんだろう、麻由美が喋り出した。なんとか俺に伝えたくて仕方ないんだ。けど、何を伝えたいのか、きっと本人にも解かっていないと思う。

「だって、"どこを直したらいいでしょう?"なんて聞かれてさ、なんて答えたらいいの? 基礎からやり直せって言うの? ノウハウが1から100まであるとして、まず1とか2から直していかなきゃいけないのに、相手は80とか90辺りを気にしてるんだよ? 正直、なんて答えたらいいのか解かんないわよ。」

「正直に"そこまで行ってない"でいいんじゃないの?」

 "自力で調べろ"の類だと思うが、実生活でそれを言ったら社会人としておしまいだ。

 そして、麻由美が本当に訴えたい事は、たぶん、そんな事じゃない。

 俺が下駄箱から靴を出してコンクリの床へ投げるのを、麻由美は何もせずに眺めている。口だけは動かして。自分の靴は忘れているみたいだった。

 不満をぶちまけるみたいに、麻由美の愚痴は止まらなくなった。

「普通に市販の本を読んでたら、とても読む気がしないっていうレベルの作品なんて、ネットにだって山ほどあるよ。ううん、ほとんどがそう。ただの自己満足の、井の中の蛙ってヤツ。シロウトだもん、当たり前よね。だけど、それ解かってたってさ、何て言えばいいわけ? しょうがないから基礎の講座みたいなの言って、お茶濁して。けど、読んだら解かるじゃない、もう注意すべき点がありすぎて時間が足りないよっていうかさ……、」

「おい、それ、みんなの前で言ってないだろうな?」

 堪らず、麻由美の愚痴を途中で遮った。

 麻由美は黙ってしまった。むくれた顔をしていて、反論の続きを考えてるのが丸解かりだ。

 クラブの連中に八つ当たりみたいな事してんじゃないかと心配したけど、この様子じゃそれは無さそうだ。まったく、他のトコの問題を勝手に部に持ち込んでんじゃねぇよ。

 自分で好きこのんでやってる事だろうに、覚悟もなしにやってたお前が悪い。俺はそう言ってやりたかった。

 広く門戸を開いて受け入れてやりゃ、そうなっちまうのは当然だ。シロウトは次から次へと入ってくるし、書き始めの初心者だって後からどんどこ生まれて来るんだ。それを、一人一人で個人レッスンなんてやってられないくらい、麻由美にだって解かってたはずだ。解からなかったとしても、今は気付いたはずだ。堂々巡り、繰り返し繰り返しで、違うヤツ相手におんなじ事を言わされ続けるんだってことくらい。

 わざと聞こえるように、俺が大袈裟な溜息を吐き落したら、麻由美は怯えた目を向けた。

 俺が嫌なことしか言わないのは解かってるだろうに、意地になって引き下がれないんだろう。

「指導なんて始めたら、踏み込んで言わなきゃ伝わらないような事も出てくる。10人居れば10人がぜんぶ違う考えでこっちに話しかけてくるんだ。10人がぜんぶ、受け取り方も違う。本当のところの目的だって違うかも知れない。それぜんぶ、丁寧に扱うって? 相手を傷つけないように言葉を選んでやって? どれだけの労力を費やすつもりなんだ、お前?」

「解かってるよ……、」

 棘は無くなり、その代わりに消え入りそうになった声がぽつんと吐き出された。

 麻由美はようやく自分の下駄箱の前まで移動して、そして自分の靴を取り出した。俺みたいに投げるような事はしない。丁寧に、しゃがんで床に置いた。

「なんか疲れちゃったの。ごめんね、喋ったらすっきりした。自分で好きで始めたんだもんね、ぐちぐち言うのはみっともないよね。」

 自嘲の含みがある言い方は、少し気に入らない。根っこには、俺に聞かせようって魂胆がまだあるからだ。拗ねたみたいな口調も気に入らない。結果だけ把握して、そのくせ全然、俺の言ってる事を理解してない。

 靴の踵を踏んずけて、しゃがんだままの真由美の前へ立った。

「なぁ、麻由美。お前、ネットの批評グループに入ってるけど、あれ、辞めたほうがいいんじゃないか?」

「え、そんなの……、そっちは別に相談なんてしてないよ。」

「お前がイライラしてんの、本当はそっちが原因だろ。」

 麻由美の手が止まった。靴ひもを結ぶ手が、途中で遊びに変わった。都合の悪い方へ進み出したから、慎重になってるんだろう。俺から得られる答えが一つしかないってのも、解かってるはずだ。

「連中の"ありがとうございました。"なんて言葉には、一円の価値もないぞ。それ、お前も気付いたんだろ?」

 何にも返すつもりがない、対価どころか、誠意すら返すつもりがない時の、便利な約束手形だ。支払い期限は無限。"いつか返します"。

「感謝されたくてやってるんじゃないよ、」

 麻由美はまだ抵抗した。

「"少しでも役に立てたらと思って、"だろ? それで、相手が少しでも成長してるトコを見せてくれりゃいいけどさ、実際は"ありがとうございました、次回に必ず活かします!"って逃げちまう。こっちはどうせ本当には解かってないんだろうって、嫌な気持ちになってな。売名行為で利用されたような気がして、腹立たしくなるんだよ。そういう疑いを持つのも嫌だってのに、」

「そんな人ばっかじゃないよ!」

 あまりに強い否定に、続きは呑みこまされた。

 麻由美は乱暴に靴紐を結んで、勢いつけて立ちあがった。俺を見ることもせず、さっさと歩き出す。取り残された俺達以外には、ここには誰も居ない。校庭からは硬球を打つ音が甲高く響いてくる。

 大股になって追いついたら、こっちを見もせずに麻由美が言った。

「隆司って、時々、被害妄想だよね。」

「だから嫌なんだって言ってんだろが。」

「"ありがとうございました、"って、逃げ口上って訳じゃないよ。」

 言葉を切って、麻由美は俺の顔をまっすぐに見た。

「逃げ出したくなったってのはあるかも知れないけど……、鬱陶しくなったからって理由なんかじゃないよ。それに、言葉じゃなくて行動で示してくれる人だってちゃんと居るよ。」

 俺は反論したくなった。イイ人ばっかりみたいに言うな、って。理想主義者みたいな理屈は、大嫌いだ。

 都合の悪い部分には目を瞑って、麻由美はなおも気分よく喋り続けようとしている。俺はムカつきながら黙っている。

「10人居たら10人、考え方がぜんぶ違うって言ったの隆司だよ? こっちと違う思惑でいたって、そんなの当然じゃない。"よく頑張ったね!"って賞賛されると思ってたのに、酷評貰っちゃって、びっくりしたんだよ。"ありがとうございました"で、さっさと逃げちゃうくらい、指摘されてダメ出しされるのって辛いんだよ? ものすごく心が苦しくなって、泣きたくなるもの。わたしだって知ってる。」

 綺麗事を並べ立てるのかと思ってた俺は意表を突かれて、心当たりもあってで、狼狽えていた。

「へぇ、そんな経験してたんだ。」

 挙句にマヌケな事を言った。

「ボロカスに言った張本人が忘れてるし。」

 藪蛇だ。

 フェンス越しにグラウンドを見る。危険防止で校庭と校舎からの帰宅路は隔てられている。野球部の練習風景に目を向けた。地区予選敗退って聞いたけど、頑張ってるみたいだ。

 校門に差し掛かったあたりで、逡巡のあとに麻由美が告白みたいな事を言った。

「悔しくて、もう辞めてやるって思って。だけど悔しいから、絶対見返してやるって。それで一生懸命に自力で勉強したんだよ。そしたら、隆司の言ってた事、ぜんぶその通りだった。」

「人に教えるってのは、あれで結構難しいからな。……その、ごめん。」

 難しいっていうか、途方に暮れる。

「謝んなくていいよ、感謝してるんだから。」

 感謝がカケラも感じられないぶっきらぼうな言葉の後に、麻由美は歩調を早めた。

「さっき、隆司はさ、皆なあなあで付き合ってるんだから放っとけばいいって言ってたけどさ、そんなんじゃないよ。"すっごく良かったです"、"感動しましたぁ"……それを本気で受け取れる人って、そんなに居ないと思うんだ。そんでね、隆司みたいに詳しいトコを教えてくれる人だって、そんなに居ないよ。」

 俺は詳しいわけじゃない、って、心の中では強く否定してた。お前があんまりにも出来なさ過ぎただけだって、言ってしまえばまた傷付ける気がして、黙っていた。面と向かっては言いにくい言葉ってのがある。

 基礎も出来てないくせに、応用ばかり気にして見当はずれを当たってる奴は多い。1や2が出来てないなら、その先の全ても出来てないってのが解からない。指摘する側だって、それはとても言えやしないってのに。

「自分の本当のところを知るって、案外、難しいのかもな。」

 謎掛けみたいな言葉で誤魔化した。口の中でもごもごしただけだから、麻由美には聞こえなかったらしい。さっきの続きを話していた。

「誰だってさ、ぬるま湯みたいなトコでぬくぬくしてるだけで、何にも残らないような関係は嫌なんだよ。何かを得たいって、誰だって思ってる。少しでも巧くなりたいって。だから隆司みたいな、怖い人だって解かってても、おっかなびっくりで近付いてくるんじゃない。」

「怖いヒトかよ、俺は。」

「怖くないとか思ってたんだ、へぇー。」

 茶化す口調で、麻由美はその場でくるりとターンした。おさげの髪が揺れる。陽の光を受けて、綺麗な天使の輪も一緒に回る。ひだスカートが幻想みたいに丸く広がった。

 校門を出てしばらく歩く頃には、さすがに運動部の喧騒も遠くなる。麻由美はまだまだ話し足りないらしくて、今日はずーっと喋りっ放しだ。駅前商店街はまだ混み合う時間帯じゃなくて、人の姿はまばらだった。シャッター街に近付いているこの付近の通りは、開いてる店舗もまばらで、店じまいの広告だってもう何年も貼られたままだ。切れかけた蛍光灯は、最後のあがきで点いたり消えたりしている。

「もー。また上の空になってる。わたしの話、そんなにつまんない?」

「いや。て言うか、もう飽きた。」

 ズルい言い方だ、本当はこっちの心が痛くなってきて聞くのが辛い。堂々巡りにしかならない話題だって解かってるから、正直、続けるのも苦痛だった。成長してないってのは自分が一番よく解かってるし、焦ってる。

「俺が教えたことなんて、1から100までの、せいぜい10あたりまでだぞ。それ以上は俺自身があんまり自信持ってないし、そんなんで教えられるわけもないし。基礎の範疇しか教えてない。」

「ネットに載ってる基礎なんて、それで言ったら3くらいだよ? 10まで教えてくれたんだもん、上々だと思うよ。ありがとねっ。」

 笑いながら麻由美が慰めてくれて……いや、慰められてんだよな、俺。

 なんでだ、いつの間にか立場が逆転してないか?

 その時、通りの角から蛍光グリーンの揃いのジャンパーを羽織った一団がぞろぞろとやって来るのが見えた。俺と同じように麻由美も興味を引かれたようで、出しかけた声は止まった。手にはゴミ袋とステンレストング。整然と並んでいるように見えて、割とバラバラの間隔で十数人が歩いている。

「ねぇ、あのヘンな服着た団体さん、何かな?」

「ヘンとか言うなよ。……ボランティアやってる人らだよ、失礼だな。」

 こそこそと、聞こえないように声を落として互いの耳の近くで囁き合って。この態度の方がよっぽど失礼かも知れない、なんて後から気付いて気まずくなった。幸い、向こうの団体さんは誰もこっちに目を向けていなくて、そのまま通り過ぎて行ってくれた。

 気まずいと思ってるのは、たぶん、俺達だけなんだ。堂々と行き違う蛍光グリーンの団体と、俯いて避けて通る俺達と。完全に後ろになって、麻由美が口を開けた。

「何のためにやってるのかとか、考え出したら辞めたくなるだけじゃないかな。」

 遠くからの声が、耳を通り抜けて頭の中に響いた。

「人によってはさ、本当に真剣に頑張ってるトコ見せてくれる人だって居るよ。ちゃんと、指摘したトコ直して、"また見てください、"って。そしたら嬉しいじゃない、とことん付き合ってあげようって気持ちになるじゃない。」

 息苦しくなって、俺は無意識に呼吸を早めていた。

 麻由美は商店のウィンドウを何気なく眺めて、それからまた喋る。

「……だけどさ、本当に喜んでもらえてるのかなって、心配になるんだよね。こっちが勝手に盛り上がっちゃって、むこうは重荷になってるのに、気付いてないのかも知れないじゃない? 独りよがりでさ。」

 麻由美の発した言葉が、ぜんぜん耳に入ってこない。

 なんて言えば伝わるのか、それより前に、正しいのかどうかさえ解からなくなる。今の自分には解かることで、だけどかつての自分じゃ解からなかったことだ。誰かが懇切丁寧に教えてくれたわけじゃなく、いや、教えてくれた時には理解しなかったことだ。今だって、本当に理解してるのかは怪しい。

 麻由美はまだ話の途中みたいだったけど、俺が遮った。

「ああだこうだ言ったって、知識で知っててもそれが血肉になってなきゃ作品に反映されるわけもないんだよな。解かった気になって、だけど本当は解かってないんだ。」

 麻由美の表情は見ないようにした。きっと意味が解らなくて戸惑った顔をしてるだろう。

 自分が井の中の蛙だってこと、実感するのは本当に辛い。だけど、それを越えたから今の俺が居る。蛙なんだって、実感しないと先に進めない。けど、それを教えることは禁じられてるようなもんだ。

 うだうだと、堂々巡りの黒いもやもやが心に広がって、答えなんて解かりきってるのに、やっぱり諦めきれなくて言い訳ばっかり考えるんだ。自分で越えるしかない、解かってる。教えてやれない。

「何様だ、とか思われるかも知れないけど、人の意見を100%でちゃんと理解出来るヤツなんて、ほとんど居やしないって思う。教えてやれる事には限界があるんだ。物わかりの悪いヤツなんかだと、なんかこっちまで面倒になってきちまうしな。"なんで俺、こんな事に貴重な時間費やしてんだろう、"なんてさ。」

 感謝されないんだからなおさらだ。"ありがとう"の魔法は解けてしまった。感謝の言葉が感謝の響きを失くしてしまった瞬間から、俺自身の考え方まで嫌なものと映った。

「なぁなぁで付き合うのが正解なんだろ? 本当の初心者に付き合って、100まで行くのか? こっちが足踏みしてまで? 何年掛かるか知れない、何人も後ろに連なってるのが見えるってのに? 俺はごめんだよ、そんな努力に回す時間があるなら、自分の実力を上げる方へ回す。」

 言いたいだけ言って、覚悟決めて麻由美を見た。なんか言いたそうな目で俺を見てた。

 ああ、そうだよ。お前の通った道は、俺が通った道だよ。

 麻由美は溜息を吐いた。

「そうなんだよね、キリがなくなっちゃう。それはわたしも解かる。次から次から"見てください"って人は来るけど、前に書いた論評は読んでないの?って。他の人に書いた批評に書いてあるよね、って。……やっぱり無駄なのかな、わたしがやってる事。」

 傲慢な悩みだと、聞く者によっては思うんだろう。無償奉仕で始めたくせに、対価を求めるのかって。

 受け取ってる側への非難なんて、とんと聞こえてきやしねぇ。当たり前の顔して、"ありがとう"で済ませやがる。それを感謝だなんて思ってたら大間違いだぞって、誰も言わないんだ。

 形で受け取ったのなら形で返せって、それって間違ってるか?

 人に聞くより先にまず自力で解決しろって、なんで言っちゃいけないんだ。相手が彷徨いだすのは解かってるくせに、なぁなぁで濁して、本当のことは黙って、そのほうがよっぽど残酷じゃないのか。

 ああ、だから嫌だったんだ。

 堂々巡りにしかならないんだから。自己嫌悪しか生まないんだから。

 麻由美もさすがに黙りこくって、言葉を出さなくなった。口を閉じたまま、開かれる気配はない。

 解かりきったことを、また突きつけられるだけの結末。

 アーケードの緩やかな坂を上ると、両側に迫っていた商店の軒が突然途切れる。急に視界が開けて、河川が現れる。小さい川だ。ちょっと洒落たデザインの橋が架かって、ちょっとした市民の憩いの場にもなっている。

 橋の向こうは私鉄の駅舎とバスのロータリーで、タクシーが客待ちの列を作っていた。

 橋の下の川では水草が速い流れの中で踊っている。その水草を掻き分けるみたいに、一人のおじさんが水の中に立っているのが見えた。

「おお、なにやってんだろ?」

 救いの神だ。なにやってんのかも気になるけど、無理やり話を終わらせるのには好都合の物珍しさだ。三月上旬とは言え、この寒空の下で、冷たい水の中でさ。

 麻由美の真意は解からないけど、俺より先に欄干のほうへ近寄った。

「清掃作業かな? さっきのボランティアさん達の仲間じゃない?」

「川の中までか?」

 それまでの談義が吹っ飛ばされた。興味津々で眺めている二人の前で、おじさんは茶色いタモ網を広げた。大きく、綺麗に空中で広がって、水面へと落ちる。

 テレビじゃ何度か観た覚えもあるけど、実際に目にするのは初めてだ。なんか得した気分だ。

 隣の真由美も声が弾んでいた。

「魚なんか獲れるのかな? ドブ川だよね、ここ。」

「いや、数年前からクリーン作戦とか言って、ボランティアの人が頑張ってた。」

 思い出して付け足した。

「市のエライ人とかも。」

 隣で麻由美が声を立てて笑った。

「ふぅん、そうなんだ。」

 ちょっと嬉しそうな、誇らしげな声だ。

 今まで関心無かったくせに、知った途端に自分の手柄みたいな気分になるのはなんでだろう。けど、喜ばしいことを素直に喜ぶのは、別に間違いじゃないと思う。

 輝く水面に魚影が映る。

 かつての姿は、投げ込まれた自転車が沈むヘドロだらけの黒い川だったのに。

「凄いよね、」

 麻由美が言った。

「努力が実った結果ってヤツだな、」

 俺も応えた。

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