戯言遣いの象徴関係

 ラカンの引用から始めよう。いーちゃんの問題系に近づくためにはこの問題は避けては通れない。

「(…)フロイトはある主体にとっては、母の欲望こそが、この(愛情生活の)おとしめの根本にあるのを示してくれました。まさしくそういう主体は近親相姦的な対象を放棄しなかったのだ、といわれています。―――結局、彼らは十分にそれを放棄しなかったのです。というのも我々は結局のところ、主体は決してそれを完全には放棄しない、ということを学んでいるからです。もちろんこの、さまざまな程度で行われる放棄に対応する何かがあるはずです。こうして我々は母の固着と言う診断を下します。こうした事例において、フロイトは、愛と欲望の分離を提示しています。これらの主体は、女性が彼らに対して、愛すべき存在、人間的存在、完全な意味での存在、いわゆる与えることができ、自らを与えることができる存在としての、十分な地位を享受している間は、その女性に言い寄ろうと企てることすらできません。対象はそこにある、と人はいいますが、これはもちろん、対象が仮面のもとにある、ということです。なぜなら主体は母に向かうのではなく、母のあとを継ぎ、母の場所を占める女性に向かうからです。ですから、ここに欲望はありません。他方で、フロイトによればこうした主体は、売春婦たちとであれば快楽を得るでしょう。」ジャック・ラカン(『無意識の形成物』)

 ここで欲望がないと言われているのは、母の欲望こそが主体の欲望を維持するものであるからである。だから母を欲望することは母の欲望の無化に等しいのである。この記述に対しては『化物語シリーズ』の阿良々木暦や『きみとぼくの壊れた世界』における櫃内様刻を思い浮かべて欲しい。

「(…)すなわち、子供はたった一人で母親と向き合っているのはなく、母親の目の前には、母の欲望のシニフィアン、つまりファルスがあるのです。(…)これらのシニフィアンに、自分の欲望の対象に対するのと同じように執着するようになったそのときから、エディプス的な愛着は常に保たれ、両親という対象に対する幻想的関係は過ぎ去ることがありません。(…)そうした性対象倒錯あるいは倒錯は、エディプス的対象に関する想像的な関係の内部では、可能な規範化は存在しません。」(同上)

 櫃内様刻の暴走、あるいは鑢七花(あるいは七実)、あるいは西尾維新の男性キャラのあの躊躇のなさにあてはめてみたい。(これにたいしては北川みゆきの漫画『罪に濡れたふたり』のほうがずっと典型的なのだが)しかし、いーちゃんはそこから一歩を踏み出す。

「実際のところ、重要なのは、女性が子を産むことが交接した場合だけだということを、人々が完全に知っている、ということではありません。彼女と交接した人物が父親であるのを、人々が一つのシニフィアンにおいて承認しているということ、これが重要なのです。なぜなら、さもなければ、象徴の秩序がその本性に従って構成されている仕方からすれば、子を生すことに責任のある何かが、象徴的体系のどんなものとでも―――つまり石や泉、人里はなれた場所における精霊との出会いと―――同一なものとして維持され続けるのを妨げるものは、何もないということになるからです。」(ジャック・ラカン『無意識の形成物』)

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