「いーちゃん」とは一体何者なのか?
木を隠すなら森の中。狂人を隠すなら天才の中である。いーちゃんについては周知のことだが、まず名前についての問題がある。しかしこれについてはすでに作中で説明されているので詳しく述べる必要はないだろう。次にこれは私が出す読解の前提として妹との関係がある。私が言いたいのは「戯言シリーズ」はいーちゃんと妹との関係性を扱った作品であるということである。母の位置を諦めず、母への欲望を対象として維持するための唯一の方法は姉妹を対象とすることである。ここにいーちゃんの行き詰まりがある。いーちゃんの妹との関係性は作中では書かれていないので、想像をたくましくするしかないが、「クビキリサイクル」の時点ですでにいーちゃんは玖渚友と何かあったということは理解できる。しかも五年前の関係は後に「サイコロジカル」で述べられているように憎悪という方向に明白に向いている。そして玖渚機関に妹が「殺された」らしいということも推測はできる。まさに玖渚友は妹の代用品(メディア、あるいはキャラクター)であり(またはあった)、その関係がある故にいーちゃんは「何もしないことが才能」であるような人間になってしまう。こうして結局のところなぜいーちゃんが失敗作なのかが理解できる。というのは零崎人識は近親相姦の子供であるからであり、西東天とちがっていーちゃんは子供を拒否したからだ。想影真心はこの関係性の中で理解しなければ作品の構造は理解不可能になってしまう。想影真心が妹との関係性の文脈において理解可能になるのは、遺伝子工学による生命の創造が近親相姦の子供の主体的な立場と同一であるというときだけである。そのために西東天と想影真心は(象徴的に)復活しなくてはならなかったのだ。哀川潤は父に反抗が可能であったと言う意味で「失敗作」、つまりまぎれもない「女性」になることが可能な成功の存在であった。ジジェクのいう愛と憎しみの非対称性から出発して、いーちゃんの普遍的な愛による零崎人識の無条件の殺意と西東天の普遍的な無関心による哀川潤の無条件の愛という性別化の公式に分けることもできる。話がそれたが、「ネコソギラジカル」の位置から遡及的に見るなら、「クビキリサイクル」は問題提起、「クビシメロマンチスト」は「正常な性関係」の不可能性、「クビツリハイスクール」は「普通の兄妹関係」となることの(不)可能性、「サイコロジカル」は再び問題提起で、「ヒトクイマジカル」は匂宮兄妹の結局失敗したが理想的な結合関係である。具体的にいうと、いーちゃんは共犯者である父を殺さずにあくまで近親相姦の欲望を固持するというまったく新しい行動をする。(これが空々空の方がいーちゃんよりも希望があるという理由である。空々空にとって家族全員が殺されることは希望なのだ)この「父の名」の拒否はもちろん玖渚友と想影真心の両方を守るために成されたということを抜きにして考えれば、『きみとぼくの壊れた世界』におけるような「ハッピーエンド」になってしまっただろうことは疑えない。このいーちゃんの選択はバートルビーの暴力になりうるだろうか?最後にジジェクの引用で幕を閉めよう。
「(…)レヴィ=ストロースはどこかで、全ての夢は性的な夢を持つ―――ただしあからさまに性的な内容をもつ夢は除いて―――と信じている部族について言及している。まったく同じことがアンティゴネーにもいえる。根っからのフロイト主義者にとって、兄に対する妹のそうして強い愛着は近親相姦的な欲望を表していよう。ただしもちろんアンティゴネーの場合は除いてである。というのも、彼女の家族にはすでに近親相姦の特徴があるからである。」(スラヴォイ・ジジェク『大義を忘れるな』)
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