ミヒャエル・ハネケの映画と隣人愛

ミヒャエル・ハネケ監督の映画、「ファニーゲーム」には見事なまでに「隣人」を表現している。イエスが「隣人」とはなにかと問われたとき4パターンの人間を出している。盗みを働いた上に暴行まで加えた強盗たち、無視をする祭司、同じようなレビ人、そして善きサマリア人である。「このなかで誰が強盗に襲われたものの隣人になったと思いますか。」専門家は善きサマリア人を選ぶわけだが、イエスの答えは「あなたも行って同じようにしなさい」である(全てルカの福音書)。しかし専門家が善きサマリア人と同じようにするというのは過酷な要求ではないだろうか。心身ともに傷つけられた人に献身的な態度をしめした人だけが隣人と呼ばれるのだから。これは実際気持ち悪い話であり、話に偏りがあるうえに、礼儀正しい親切の度を超している。さらによく考えてみるとイエスは一度も隣人とは誰かということに自分で答えてはいない。もし専門家が他のひと、あるいはこの中には誰も隣人はいないといったとしたらどうだろうか。「ファニーゲーム」はのどかな別荘である家族が休暇を楽しもうとしたところに、奇妙な青年達があらわれて、その家族にいろいろと残酷な仕打ちをするという話なのだが、白い服を着た青年達が卵をもらおうとして拒絶されるところは、まさに彼らは「隣人」を欲望しているということではないだろうか。つまり隣人達には一切を与えるか、または無視するしかないということでないはないか?彼らは卵をもらえなかった「お礼」として強盗の態度を反復している。彼らは幸福で幸せそうな家族にもっていないもの、破壊と屈辱を献身的に与えるのだ。これが「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということではないだろうか。これは無償の行為と呼ばれるべきではないだろうか。ハネケ監督の別の作品「愛、アムール」はこのことに対する見事なまでの表裏関係になっている。安心した雰囲気に包まれた老夫婦の妻が年によって身体が動かなくなり、その妻への夫の献身的な介護の話なのだが、彼の誠実な介護の途中に挟まれる周りの人々の「同情」がいかに「ファニーゲーム」の二人の青年の嫌がらせと同じような関係性を持っているかがわかるだろう。徹底的な屈辱の連続によって、まさしく夫は無力な人間(妻)に対する「献身的な」介護をするしかないということ。その帰結がどういうものになったかは「人生のすばらしさ」といった言葉が同情の悪意と同レベルの表現に過ぎなくなってしまう程のものである。純粋な隣人愛はやりきれない。

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