ハイデガーと決断主義

「決意性は、その存在論的本質からすれば、そのつど、そのときどきの現事実的な現存在の決意性なのである。現存在というこの存在者の本質はその実在である。決意性は、了解しつつおのれを企投する決意としてしか「実存する」ことはない。しかし現存在は、決意性において何を基盤としておのれを開示するのであろうか。現存在は何へと決意すべきであろうか。答えを与えるのは決意自身である。(…)決意こそ、。」(ハイデガー『存在と時間』)

何を言っているかさっぱり分からん。死の不安から存在企投へ?しかし上の文章にはハイデガーの弱点がすべてある。つまり。これでは決意を支えるのは決意だけだとトートロジカルに反復しているだけである。要するになんの価値判断もできず、行動することもできない。できるのは決意することだけである。決意の前に価値判断や動機がなくてはならないのに、それを開示することが決意だと言っている。決意自身が、ひとつの形而上学信仰になっているだけなのだ。「無為」を決意したところで大したことのはならない。それは同じことにすぎない。ただ一層無力になっているだけだ。ハイデガーは骨の髄まで誤っている。ハイデガーはニーチェを台無しにした。それによって哲学者たちは喝采したのである。ハイデガーは真理を求める哲学者、つまり誠実な真理への意志をもった哲学者のために「荘厳な道徳的建築物」を作ったのだ。ヘーゲルが学者宗教ならハイデガーは学者道徳であり、その美しさを認めるだけなら私も認めるにやぶさかではない。ハイデガーは哲学的言語を使ったすばらしい芸術家だ。ハイデガーは哲学者を。しかしそれはいささかもハイデガーが正しいことの証拠にはならない。ハイデガーはさらになお哲学者が無力であることを大衆のせいだとして正当化した。したがって哲学者は行為をせず決意しろと大衆にむかって叫ぶだけでいい!哲学者はこのことに深く感謝している。何も創造せず、何も考えず大衆を軽蔑できるようになったからだ。ハイデガーは他の多くの哲学者と同じくわずかたりともニーチェを理解しなかった。ハイデガーがしたことはニーチェを形而上学の博物館に入れることだけであった。これがどれだけフランスの哲学者たちに悪影響をもたらしたか計り知れないほどである。フーコーはその悪影響について気づいていたが、自身が系譜学を道徳化することに一役買ってしまった。ウィトゲンシュタインとハイデガーを比べるのはなにか破廉恥な考えである…。ラカンについて言うなら、そのハイデガーの影響は明らかだが、彼はとして理論を使ったのであって、哲学体系としてでは。哲学的真理から言えば、多くの神秘主義と理念の乱用があることはまちがいない。だからといってラカンの態度が根本的にハイデガーと違うのは確実である。

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