牙を持つカード

カードゲームのフィクションの主人公達はなぜ友達がいないものとして設定されるのか。むしろ逆向きに考えるべきであろう。なぜカードゲームは友達を作ることが可能なのか。カードゲームの論理は我々の資本主義的な人間関係と別の関係を構築するのではないか?商品交換的な人間関係にうんざりしているということ、それこそがカードゲームの人間関係に魅力を与えているのではないか?すなわち商品交換的な人間関係の不可能性がカードゲームの友情を生み出したこと。このことを高橋和希の漫画「遊戯王」をクロソウスキーの「生きた貨幣」を使って考察してみよう。最初の出発点は二重人格という現象である。このことは人格の同一性に対する深い懐疑を前提としてはいないだろうか?貨幣の機能を考えてみよう。貨幣は商品交換の媒介として存在している幻想だが、ここで重要なのは貨幣が人間の人格の同一性の保証として役立っているということである。なぜなら、貨幣を商品として媒介するためには必ずひとつの他の主体と同一な統合された人格を必要とするからだ。さてここで「遊戯王」の基本的な問題提起である自我の分裂がどのように解決していくかを乱暴な単純化をしてみていこう。さて人格の分裂の最初の問題は、もうひとつの人格は実に邪悪であるということだ。むしろ最初の人格をのっとってしまいかねないほどに。これは他の千年アイテムの保持者にも言えることであり、最後までこの問題は残り続ける。最終的にこの「邪悪な」方の人格は消え去るのだが、論理的には邪悪な人格にのっとられた方が良い場合もありえるのではないのかという疑問を出しておこう。第二の問題は闇のゲームの問題である。闇のゲームが重要なのは、それが原理的にゲームのキャラクターと人格を同一視するという機能があるからである。つまりキャラクターと人格はもはや魂という神秘的な言葉で同一視されている。ゲームによってひとつの魂を失っても、もうひとつあるので続行できるというのは事態を典型的に表していないだろうか?この事態がどのようなものかを把握するには別の関連で置き換えるのが分かりやすい。つまり「私の人格のひとつは貨幣と交換されても、もうひとつあるからいいや」といっているようなものなのである。このことは決闘者の王国編において実に分かりやすく表現されている。つまり人格をひとつのキャラクターとしてカード化するかそれとも賞金を選ぶか、と。ペガサスの欲望を忘れないようにしておこう。それは自分の恋人をカードとしてキャラクター化することである。カードは封印することと、召喚することを表すということ。このことは人間の欲望に厳密に基づいている。

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