ニーチェとプラトンの対話

永井均がプラトンは哲学者として破格に偉大だと言ったのはまったく正しかった。いったいプラトンの以外の誰がまともに善は良いことなのかという問いを考えただろうか。誰もがこのことを前提としているのではないだろうか。ところでプラトンに対するイデア論批判は、「人間は~を目指している」と言う形式で反論する限りすべからく失敗することが示されるように思われる。なるほどたとえばプラトンのイデア論だけを批判するだけなら簡単だが、その代案を出そうとすると必ず神であろうが超越論的哲学であろうが主体であろうが幸福であろうが功利性であろうが権力の意志であろうが沈黙であろうが永遠のイデアの形態に似てきてしまう。もちろんソクラテスの天才的詭弁(現代的に言うと戯言)に反論を出すこと自体は正当である。これに対してニーチェが出した反論は幸福や快楽や正義やその他永遠のイデアに似てくるあらゆるものは調和した形態であらわれるとは限らないということだった。つまり人間の状態が不調和や苦痛に満ちているということが悪いとは言い切れないということだった。つまり優良な状態であっても苦痛や不快は存在するし劣悪な状態でも喜びや快は存在するのである。問題はこのことは何によって差異が認められうるのかだった。まさにそれは認められないのではないかというのがニーチェの出した答え、あるいは疑問符である。明らかにこれは調和よりも不調和を重視する考えである。なぜなら調和と不調和のどちらが良いかわからないと断言することは不調和だからである。もはや人間は調和した力強い形態に説得されることが不可能になった。ニーチェがいくらそれを高貴だと言っていてもである。そもそもニーチェの高貴さ自体に明らかに矛盾する要素があるのだ。ちなみにこの差異を認めずに調和を重視する生き方には二通りある。つまり家畜化と仏教であるが家畜化に対してはプラトンとアリストテレスと同じくニーチェはそれを一蹴する。これは論じるに値しないのである。まさしく哲学というものが家畜化の拒否だと言っても過言ではあるまい。ところで哲学は仏教に対してもやはり拒否を表明するのである。というのもソクラテスが(プラトンが)出した問題提起の偉大な点とはまさにこの論理と意識の不調和に存するからである。むしろプラトンがこの点を提出したにもかかわらず西洋哲学が善と幸福を同一のものと考えられてきた(考えようと努力してきた)ことは現代の視点で見ても驚くべきことである。フーコーがニーチェにならって言うとおり思い違いをしてきたのは哲学者だけだとすら言いたくなるだろう。ところでニーチェの仏教に対する反論は、死ぬほどに疲れた人間たちが考え出した「衛生学」はそれなりに評価に値するが、本気でとることなどナンセンスだ、というものである。まあニーチェのキリスト教に対する評価に比べればまだましであろう。ニ-チェはキリスト教を「生に対する犯罪」と呼んでいる。このキリスト教という概念は人類を「改善」するとか「救済する」とか言う一切のものをさして言われていることに注意しよう。ところでキリスト教が生に対して犯罪をつまり不調和をもたらしたということはニーチェにとって悪いことだけではありえないはずである。ニーチェ自身が「人間はこれによって深く、より邪悪になった」と言っているのだから。プラトンのように独裁者になって好き勝手することは良いことだということがたとえ戯画的であろうと反論すべきものとして現れていること自体がギリシア的無邪気さとでも言うべきなにかを表現している。だからニーチェにとって単に不調和であることだけが目指されているわけではないのだ。

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