忘却の明晰さとしての永劫回帰

「ところで明晰さとは―――(つまりそう主張され、そう認められているものと、隠された実在とのあいだには、という思考のことだが)―――ニーチェにとっては、生の反対物、力の衰弱現象のことではないのか。まさしく真ならざるもの、人間という種族に存続を許すところの錯誤ではないか。」(ピエール・クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

・明晰さに価値がつくのはどのような場合なのか。忘却を反復することで意味が導入されるのなら、明晰さとは忘却を実行するための準備、意識と基体との不一致を増大させるための、意識の合理的基準を乗り越えるための方法なのか。もし明晰さが、他者の心情を察して傷つけないようにするための配慮の体系にすぎないのなら、人は意識の不一致の明晰さを放棄し、快楽の明晰さとでもいえるようなものを作り出すだろう。空気の読み合いと順応主義。それとは逆に意識による明晰さが耐えられなくなるような地点にまで明晰さを推し進めること。この不一致が一つの無意味な圧迫と感じられるようになったとき、新しい解釈の必要性が生じる。ところで解釈とは、その解釈に錯誤の余地が生じるためには、宇宙的観点から見た生の偶然性に対して、自身の有機的生命が一つの必然として誤って信じられなければならず、そのような錯誤から明晰さが生じるのだが、その明晰さ自体が錯誤の明晰さであることを気づいてしまうなら、純粋な偶然性へと再び落ち込んでしまうだろう。快楽の明晰さは、この純粋な偶然性を避けて自身が明晰であるための合理的な条件を維持する為に配慮の体系を洗練させるのだ。

・人間を、つまり有機的生命を生産するとは忘却を生産するということ。ただし記憶としての明晰さはディスクールとして保存される。科学のディスクールは何も忘れないということは、科学が錯誤の明晰さを身体的な次元の不調和では維持しないということを示している。つまりいかなる支配体制も忘却の可能性を利用するのでなくては存続することができないということ。科学は支配体制の根拠の不在を隠蔽するために明晰さに対応するような商品を作り出すことによって忘却に加担する。それとは逆に科学のディスクールを総体として忘却するために明晰さを導入すること。アフォリズム。しかしそのような記号の羅列を錯誤であると判断するのはやはり明晰さである。これは再び明晰さを快楽の次元で導入することである。したがって明晰な意識を不断に不調和によって破綻させることが必要になるだろう。だがそれを記述するのは誰なのか。もしそれが機械的な記述にすぎないのなら、どうしてそれに価値があり、強度としての意味を獲得できるのか。あるのは明晰さの破綻の表現のだけなのだが、忘却を基準に入れない快楽の明晰さはそれをと誤解する。解釈はいかにして意味を持つのか。解釈が価値を持つのは明晰さと意識の基体との不調和を合理的なものとして解釈するときだけであるということ。つまり解釈は意味を与えることによって強度を減少させるのだ。

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