陵辱と美

「美の顕現は欲望を威嚇し、禁止するのです。美は欲望と結びつくことができないと言っているのではありません。しかし神秘的なことに、美が欲望と結びつくのは、ある用語でしか呼びあらわすことのできない形式においてです。その用語は、美に、不可視の線を越えるとも言うべき構造がそれ自体に備わっていることを示しています。その用語とは陵辱です。さらに陵辱に動じないことが美の本質であるように思われます。そしてこれは美の構造のどうでもよい要素の一つではありません。」(ジャック・ラカン『精神分析の倫理』)

人を殺すことが不可能な人間とは一つの理想的な典型ではないのか。実際には人を殺すことが不可能だということを楯にとって享楽から人を殺すような人間が出てくるのではないのか。私はそれを認める。人を殺すことがのは倒錯的な快楽殺人者だけである。なぜなら快楽殺人者は人を殺すことがのだから。しかし快楽殺人者は人間を殺すことが不可能な人間に達することができなかった人間であって、それは本質的に脅威ではない。快楽殺人者が脅威なのは人を殺すことが禁止されている場合だけであって、決して不可能な場合ではない。殺人を禁止する場合だけ快楽殺人に意味がありうるのであって、そうでない場合、快楽が殺人に結びつくのは偶然的ケースに過ぎない。殺人が不可能な人間においては快楽殺人者を場合によっては排除するかもしれないが、大抵はどうでも良いと思うに過ぎないのである。そういう人物にとって本当に脅威なのはイエスの言う魂を殺せる存在であって肉体を殺す存在ではない。ところで魂を殺すとはディスクール、つまりテクストにすることである。なぜなら魂とか心とかいうものは言語ゲームの見せ掛け合いによって成立するものだからである。では何のためにそんなことをわざわざ言うのかというと、そのような見せ掛け合いという視点に立つためには理解することが必要だからである。繰り返そう。魂を殺すとは言語(テクスト)にするということなのである。「キリストは神の摂理を信ずる人のことを次のように語っています。「野の花や鳥は紡ぎもせず織りもしない。彼らは人々に、自分たちのような自然な姿でいることを説いている。」パロールによるテクスト(織り物)の驚くべき廃棄です。先回指摘したように、パロールを特徴付けるのは、パロールを信じるためにはパロールをテクストから引き離さなければならないということです。しかし人間の歴史はテクストにおいて遂行されるのであり、テクストのうちに我々は織物をもっています。」(同上)ところで理解するとはそれを手段にして使用することであり、その理解する対象のテリトリーをことにあるのだから、理解は陵辱とある関係を持っている。そして美とは陵辱に動じないものであり、理解に動じないもの、しかも繰り返し理解しようとしても理解できずに動じないものこそが美だということになる。こういえばラカンがなぜ「コミュニケーションとは誤解である」と言うのかが分かるであろう。

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