東方projectにおける不死の概念

人はどのようにして死ぬことが可能となるのか。間違って永遠化されてしまうのではないか?イエスは死ぬことよりも復活することを恐れたとしたらどうだろう。ニーチェの発狂した後のブルクハルト宛の手紙において彼はこう述べている。「不愉快なのは、あらゆる名がわたしの名だということです」。救いがないというのは永遠化されているということではないのか?つまりありとあらゆるところで聖霊を視るということ。我々はモニターで毎日聖霊を視ているのではないのか?忘却されるのでもなく絶滅されるのではなく死ぬことはほんとに可能なのだろうか?ありとあらゆる物がデータとして保存され永遠化されてしまうこの世界で。東方projectはこの点に関してある洞察を持っている。それは不死とはどのようなものなのかに対する洞察である。死を考えるためには不死を考えなくてはならない。ざっと視ただけでも東方の世界観には不死という言葉が氾濫しているように思える。吸血鬼、幽霊、蓬莱人、閻魔と死神、八百万の神に信仰の神、天人とゾンビに聖人、そして付喪神。しかしそれぞれの不死のレベルは異なっている。幻想郷の論理における最も基本的な項としてまず妖怪を上げよう。幻想郷における妖怪は人間の恐怖によって存在意義を得ている。そのためどのように恐怖を与えるかについての方法を変えてしまうかもしれない怨霊は妖怪の天敵になる。吸血鬼の不死とは不完全な不死である。人間の血をすわなければ生きていけないような存在は、何らかのものに寄生しているという意味で純粋ではない。では幽霊はどうなのか。幽霊は成仏されるべき存在である。つまりある意志がこの世の未練となって残っている。それにくらべると蓬莱人は完璧な存在のように思える。しかし彼らは不死ではない。なぜなら彼らは死なないのではなく死がない存在だからだ。「再生のたびに人間を弾幕の中に閉じ込める。もし入る隙間が残されていなければ、弾幕は存在意義を失い、後は幽霊だけが住む場所となるだろう」(ZUN『The Grimoire of Marisa』)死の可能性がないところには宗教の永遠性も生の意志の可能性もない。地上の穢れがない状態という不死性がある。キリスト教的には善悪の実を食べる前の状態ということだろうか?閻魔については実に簡単な説明ができる。閻魔のいっていることはカントの善の理念なのだ。宗教的な永遠性のレベルはどうなのか。信仰による御神体には信仰というエネルギーが必要になるが、信仰のある場所に神様は好きに移動できるというのは永遠性としてはなかなかユニークである。これにくらべるとゾンビの方が効率がよく思えるが、こちらには意志がない。聖人達の復活についてはどうなのか。どちらも邪法や外法を使わなければならない上に、肉体的な不老不死のレベルに後退している。ただし忘れてはならないことは、善の理念は「永遠の命」があれば実現の可能性があるという実際的な事実である。別の視点からいってみよう。人間については転生という方法がある。これもひとつの不死の形であろう。記憶が継承されるというのは妖怪に対して対称的である。次に時間を止めるという形の永遠性がある。これもひとつの不死の形式である。さらに先祖という概念も不死性の一種ではないだろうか。自然の権化としての妖精という形の不死もある。また人間と妖怪のハーフ、あるいは人間が神に成るということ(キリスト教的な意味ではなく)もある。また物が命を吹き込まれるといった形の不死もある。しかしこれは不死なのだろうか?忘れてはいけない形式として文書による歴史という不死、造形としての人形、あるいは写真という不死、当然ながら科学性による不死といった形態もある。キットラーのいうとおり、人間を静止させるには死体にするという方法と写真にするという方法がある。メディアとしての無意識の不死、欲望の不死、人気、名声、愛、恨み、憎悪の不死性というものもある。こう考えてみるとむしろ死すべき存在たる人間の方が希少種に思えてくるだろう。種族としての人間、あるいは人類としての不死性というものがあるかもしれない。しかし幻想郷においては果たしてそのようなものは存在するのだろか。人間を食料として娯楽として管理している妖怪達の楽園にいかなる人間の倫理があるのか。それは死ぬということでしかありえない。しかもそれは人類の一員として死ぬということではなく、死ぬということの希少性において死ぬということだ。しかしここでまたしても疑問がわく。それは死ぬということに価値というものがあるのだろうかという疑問である。間違いなくこれこそニヒリズムであるが、これを「我々はよく死ぬべきだ」という道徳性で一般化してはならないことはもちろんである。すでに死んでいる実存の中で再び新たに死に直すとはどのようなことを意味すべきなのか。ひとつだけ分かっているのは私には依然として「一粒の麦もし死なねば」の言説は恐ろしいことをいっているという直感だけである。どうか私が無邪気なまでに間違っているのではなく、悲惨なまでに間違っているのでありますように!

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