ニーチェ

ニーチェについて人が考える時最初につまずくのは、ニーチェが人に何かを教えようとする為に書いているのではないということを感じられるかどうかということにある。カントやヘーゲル、それにハイデガーやポストモダン思想家から哲学に入った人はこの点で非常に誤解をしやすい。そういう人を見分けるための目印はニーチェは単純な解説本には収まりきれない哲学者だという説明の仕方に典型的に現れる。まずニーチェの方法論的出発点を確認するところから始めよう。ニーチェは自分が何かを知っているという主張から他者に何かを伝達するという行為自体に不信感を抱いている。そもそも考えるということ自体が例外状態なのではないか。音楽というものを認識によって捉えることなどできないという経験から理性を下位のカテゴリーに分類したニーチェは、歴史的教養によってだらしない有様を見せている知識人を批判することによって生における微妙にして繊細な問題に踏み入っていく。過去について我々が知っていることは現在の私にとって何を意味するのだろうか。それは忘却することによって人生における力を再創造することだ。それにしても現在において創造する力を奪っているのは一体何なのだろう。ここからニーチェにおける有名な誤解を招きやすい診断が与えられる。それは、と。壮大な体系は人間の創造の力を一定の形式に閉じ込め矮小化してしまうことからモラリストによるアフォリズムの文体を取り入れたニーチェは、自分自身の正直さを武器にして道徳的でない新しい基準を創造するための努力を始める。このことがまさに「神は死んだ」ということだ。しかし「神は死んだ」ということを乗り越えるためには神が死んでいることを忘却しなければならないのではないだろうか。神が死んでいることを忘れるためにはあらゆるものが回帰するという知識を理性が認識し続ける必要がある。だからニーチェは過去に起こった事件を新しい解釈の水準でひたすら考え続ける必要があったのだ。その時ニーチェが見つけたのは過去がある特定の必要性によって歪んでいるという解釈であった。つまり過去の歴史もまた生の再創造に従って解釈されているのだ!しかしニーチェはふと自問する。「それはもちろんそうだ。しかしそれなら今私がやっていることもまた必要性からの創造であり、それは正しさという基準からすれば歪んだものになるだろう。ならこの努力そのものもまた忘却されなくてはならない!」仮にこのような知識がジャーナリスティックな手段によって伝達されたとしてもそれだけでは最初の疑問から一歩も進んでいないという矛盾から自身をとして宣言したニーチェは預言者的な誇大妄想によって狂人の役割を引き受ける。だがそれすら狂気ではなく理性の徹底的な行使ではないのか。だからニーチェが狂気に陥ったこと自体がニーチェの哲学の総決算だと主張するのならニーチェのを裏切ることになるだろう。ニーチェの哲学がナチズムによって演じられたということ、それはニーチェの思考に暴力の解放と狂気の恐れだけを見ることであり、またニーチェの哲学が我々の人生に役に立つと主張することは相変わらずニーチェを単なる有名人として扱っていることを意味する。ニーチェはすでにこう言っていたではないか。「、はじめて私は、お前たちの許に戻って来よう。」(『この人を見よ』)と。

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