ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタイン………この可憐な名前から人は何を想像するだろうか。二十世紀の最も優れた哲学者、独創的で奇天烈な変人、明晰な思考をつらぬいた天才。私ならこう答えるだろう。それは他人の名前の一つの使用法であり、状況よって様々な形容詞がつく場合がありえる特異な言葉だと。いかにして他者は私のことを理解するのだろうか。私は何を語ることができるのかというよりも私は何を語っているかという強迫観念から写像理論を考えていた頃のウィトゲンシュタインは、まちがえずに語ることができるあらゆるパターンを網羅しようと試みた。つまり自分が言っていることに対して相手が常に一定のパターンによって答えることができるような論理を考えていたわけである。沈黙することを許されたウィトゲンシュタインはほっとした。これで自分は相手にとって少しは理解できるものになるだろうし、自分も相手のことをある程度理解することができるだろうと。教師の仕事をしてわかったことは自分には沈黙が許されていないどころか何か語ることすら許されてはいないのではないだろうかということだった。『論考』はウィトゲンシュタインにとって一つの宗教的問題となった。いかにして他者が私のことを理解していると私が知りうるのか。まず数学の再確認から始めなくてはならない。どうして我々は同じような計算を間違いなくすることができるのか。規則があるのではなく最初に身振りがあるのだろうか。言語ゲーム。ところでウィトゲンシュタインが悩んでいたことは自分にはまさにその身振りはないのではないのかという不安であった。どうして同じ言葉が間違いなく違った意味で伝達されうるのか。次の課題は言葉にはある一般的な意味などというものは存在しないということではなかった。なぜ自分が言っていることが相手に理解されていると感じ、さらにそれをわかったと相手が示すことを理解できるのかということであった。これはまさに絶望的な問題であった。「私的言語」などというものなどどうでもよかった。数学ならば相手が理解したことを示す方法は単純に計算をして見せることになるだろう。だがコミュニケーションにおいては相手が同じような身振りを示したからといってそれが同じ意味である保証などというものはまったくない。そもそも私が理解している他者とはなんなのか。「いや別の世界観を持っているだけでやっぱり自分も人間なんだ。」しかし私は世界から排除されていてそれが示されているにもかかわらず他者はそれを理解しているという身振りを見せているだけだ。ついにウィトゲンシュタインは他者が自分とはまったく別の生物なのではないかと想定を棄てきれなくなった。それでウィトゲンシュタインは「すばらしい人生だった」という感想をもらした。死ぬことは人間であることの最後の証明ではないかということは『論考』ですでに否定されていたのではなかっただろうか?要するに死んでいれば語ることも沈黙することも自由だとほっとしたわけなのだ。
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