第十夜 羅生門の夢

 男がいる。男はむすめを連れている。

 男の容貌すがたは藍染めに黒の帯、そのところどころは破けて脛や腕がむきだしになっている。蓬髪はぼうぼうと風に乱れ、顔には髭が鬱蒼と生えていて、まさしく蓬頭垢面の有様であるが、目元だけが遠くを見るようで、ただ涼しい。

 一方、女を見れば垂衣むしたれを失くした市女笠に、旅姿には不似合いな緋縮緬が花を散らして美しい。深く被った笠で顔は見えないが、膝まで伸びた長い長い髪を、ばらけぬように毛先で丸めて束ねている。

 奇妙な二人連れである。

 だが更に奇異なことには、人一人歩けるか否やという断崖沿いの隘路を進んでいることである。

 一足踏み出すごとに落下しそうなほどに狭く危うい足場は、そこを歩む者に俯くことを強いてやまぬ。

 晴天の下、黙々と崖縁を進む二人の姿は何となく異様で、まともな事情を抱えていないことを伺わせる。

 二人はただ、黙々と歩く。胸の内は知らぬ。古風な風情が漂うばかり。

 すると、向こうから僧形の男が一人、杖をついて歩いてくる。雲水だろうか。

 通れぬ。道が狭すぎるのだ。互いに一重身となり、足場を外さぬようにしながら通ろうとすると身体を密着させざるを得ぬ。男は何とかすれ違うことが出来た。しかし女は笠を気にして戸惑っていた。やがて女もすれ違おうとすると、笠は雲水にぶつかって崖下の暗闇に落ちて消えた。女はそれを少し惜しむように見ながら、崖に張り付くようにして雲水と交差し、互いに通り抜けた。そして雲水は軽く会釈し、去っていった。

 二人はまた、黙々と歩き出した。途中、幾度か同じように他人ひととすれ違ったが、その度に持ち物が一つは落ちていった。笠、簪、巾着等々、時には他人が何か落とすこともあった。最早いちいち覚えてはおらぬ。

 その後もやはり二人は黙々と歩く。何を目指しているのか知らぬ。

 すると漸くひらけた場所に出た。草木一本見あたらぬが、断崖のような死の危険はない。

 だが。

 二人の姿は無い。

 代わりに二匹の化け物がいた。

 赤く裂けた口には牙が細かく生えており、つり上がったまなじりが凄い。尻には尾が有り、歩行に合わせてのたくっている。衣服は黒く汚れた襤褸切れであり、元の形を判別できぬ。

 曲がった足で這う蜥蜴のように歩きながら二人は進む。するといつしか壁に行き当たった。

 否、壁ではない。それは巨大な門であった。

 幾丈にも及ぶそれは何者をも拒むかのように分厚く、頑丈であって何カ所も鋼鉄で補強されていた。

 不思議なことに周りに壁も建物もなく、曠野の中にただ門だけが存在していた。

 だが、そんな疑問を吹き飛ばす程の存在感があり、ここを通ればどこかに出られる、解放される、という奇妙な確信を与えられる。

 二匹は門の周りをきゃらきゃらと耳障りな声を出しながら、ひたすらうろついては通ろうとするが、門は微動だにせず、ただ其処にあるばかり。

 無言を貫く巨大な門を前にして、小鬼どもは為す術もなくまとわりつくが、何も変わらない……しばらくそうしている内に、段々と暗くなっていく。

 夜が来たのか、と思ったのだろうか、小鬼どもは周囲を見回すが、まだ陽は落ちていない。にも拘わらず薄闇に包まれた世界で、不思議そうにしている。

 ふと見上げれば、巨大な門よりも大きな人影が小鬼どもを天から見下ろしているのだ。

 暗がりから見るその影は、光を背にしていて、顔貌かおかたち判然はっきりとせぬ。

 その影から声とも風の音ともつかない音が大気を伝わって響いた。

 ——古今逆流ぎゃくるの道において、我執がしゅうを抱かざる者無し。また執着しゅうじゃく払わずして成道じょうどうする者無し。かく心得て回向えこうせば此門このもんの向こうへいけたものを——。


               (起床)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る