白昼夢 信仰の行方
ここは○○県の外海方面にある小さな村。私は明かりの灯された暗く湿った洞窟にいる。
ああ、どうしてこんなことになったのか。後悔の念がとめどなく押し寄せる。
出口は無い。満潮になると海水で入り口が閉ざされるのだ。
出入り口は極めて特殊な構造をしている。干潮時には入り口が現れるのだが、そのままでは進入はできない。道は上の方へ続いているのだ。知らずに訪れれば行き止まりだと思うだろう。
助けは来ない。いや、そもそもこの村に味方がいるのだろうか。私が見たものを話したとしても、到底信じられるものではないだろう。
——この洞穴は、海に面した巨大な岩にぽっかりと口を開けている。岩の上には大きな十字架が立てられている。
この村は昔、隠れキリシタンの里だったらしいが、今はれっきとしたカトリック教会に属していて、キリシタンとしての儀礼などは伝統行事として稀に行われるものの、それらは昔を偲んでのものに過ぎなくなっていた。いわゆる復活キリシタンというやつだ。
岩の上の十字架もまた、最近になって作られたものだ。近世から近代にいたるまでは、この峻険な巨岩を教会と見立てて説教や祈りがなされたらしい。
その岩にできた洞穴も、神の偉力によってできたものだという。要するに波の侵食作用の結果できた海蝕洞であろうか。
しかし私はこの侵食によってできたはずの洞穴が、人工的なものに見えたのだ。というより上方へばかり侵食が進んだ海蝕洞など聞いたことがない。
そこで他に入り口はないかと周囲を調べたところ、空気穴であろうか、二つの穴を見つけた。
穴は巧妙に隠されており、一つは道祖神の裏、もう一つはなんと十字架の台座裏にあった。
私はその穴から洞穴、いや洞窟の中に進入し、調べることにした。
そこで私が目にしたのは教会だった。いや、正しくは隠れキリシタンの聖なる祭壇だった。
弥勒菩薩、観音菩薩の像が並べられていて、周囲には貝殻やその他の仏像・神像がおかれていたが、もっとも目を引いたのが三つのしゃれこうべが祀られていたことだ。古いもののようで、所々欠けていた。
それと、もう一つ気になったのが鏡だ。祭壇には一際大きな鏡を抱いた観音像が置かれている。
神社の神鏡のようだが、隠れ切支丹鏡だろうか。これは魔鏡の一種で、光をあてると十字架やマリアが映し出されるという。
確認しようとしたその時だった。
突然壁が燃えた。その炎は規則正しく並び、奥まで——つまり海に面した入り口の方から——続いている。松明ではない。壁に溝を掘って油を流し、それを燃やしているのだろうか。
何にせよ、私は咄嗟に祭壇の裏へ隠れ、息をひそめた。見つかっても碌なことはないと思ったからだ。
何人か分からないが、少なからぬ人の気配が近づいてくる。
——いまだにカトリックに戻っていない隠れキリシタンがいるのだろうか?
彼らは静かに何か歌いだした。
これは——おらしょ?
隠れキリシタンだ。間違いない。しかし禁教令が解かれた現代、どうしていまだに隠れているのだろうか。
そう思った時、ふとあの鏡を持った観音像の後姿が目に入った。
——鱗?
観音像には鱗と、そして尾ひれまで付いており、正面から見た時とは一変して不気味な雰囲気を漂わせていた。
するとキリシタン達は何かまた唱えだした。
「御願い奉る。天地御進退なされましたる御ならじゼズ・キリスト様、御母サンタ・マリア様、フランセスコ・ザベリヨ様、……我々の御先祖様、宇宙の神々様、竜宮世界の乙姫様、十二の様に頼み奉る。」
神寄せのおらしょだ。実際に聞くことができるとは。
私の不謹慎な感動をよそに、歌は続く。だが奇妙な文言が気になった。
「……万事叶いたもうデウスを始め奉り、いつもビリゼンなサンタマリア、竜宮の乙姫様、わたつみ様、トヨタマヒメのミコト、もろもろのマリアに、
ここは天使ミカエルや諸聖人への祈りであるはずだ。マリア信仰が強いといってもこの祈祷文は普通変わらないはずだ。口碑伝承とはいえ変化が大きすぎる。
不審に思っていると、彼らの中から、サンタマリア、すてらまりす、などと呼びかけるような声が出始めた。
奇妙だ。
びちゃ。
何の音だ。
と思うや否やなんとも言えない生臭い臭いが鼻をついた。
びちゃ。びちゃ。びちゃ。びちゃ。
音が近づく度に臭いは強くなる。と同時に信徒達の声も興奮気味になっていく。どうやらこの臭いの元こそが、彼らの呼ぶマリア様らしい。
私はいっそこの眼で、そのマリア様とやらを見てやろうと決心した。もう後戻りはできない。
祭具の隙間からそうっと覗く。
それは一般的なマリアとは似ても似つかぬものだった。
ぬらぬらと炎に照られる鱗に全身を覆われ、臀部からはヒレを持った尻尾らしきものが生えているが、辛うじて人の形に見える。
胸には乳房のような隆起があり、体の輪郭は全体的に女性的な印象を与える。
だが顔は人間とはとても言えず、魚の眼をした犬のような、あまり直視してはいられない顔立ちだ。透明な瞼を瞬きさせる様子はどこか鳥類を思わせる。
合点がいった。かれら信徒にとって彼女こそがマリアであり、乙姫であり、トヨタマヒメなのだ。キリストもわたつみも彼女の傍らにいる存在に過ぎない。
私は彼女が現れる時に信徒の一人がすてらまりすと言ったのを思い出した。ステラ・マリスとは海の星、すなわち聖母マリアの別名である。
隠れキリシタンの信仰に土着の宗教が混淆することはよくあることだが、ここでは逆だったのだ。
海から来る女神への信仰にキリスト教、それもマリア信仰が歪に混淆したのだ。
信徒が手に持った松明を例の鏡にかざすと、女神が呻きだした。
壁には彼女の姿が映し出されていた。
あれはやはり魔鏡だった。そう考えてたところへ、あの女神の声が一層大きくなって洞窟に響いた。信徒が怯えた表情で彼女に伺う。
「どうかなされましたか。」
女の泣くような声が響く。対して信徒達がおらしょのように唱える。
「我らの胸は貴方の胸と同じ。」
しかし泣き声は止まない。ついには信徒達も恐れをなしたのか、一人が歌をつっかえるようになってしまった。
「さやが詰まった!」
「エレンジャがいるぞ!」
つっかえた本人は顔を歪めて女神の前へ行き、
「言い誤りはまっぴらお許し下さい。」
と許しを請う。しかしその瞬間、彼女はその信徒の首筋へ噛み付く。
噛みつかれた信徒は逃れようとしてもがき暴れるが、そのたびに汚れた爪が体に食い込んで鮮血が飛ぶ。彼女は信徒をその発達した爪で抑えつつ、ゆっくりと後退し、暗闇へ消えていった。
他の信徒達もついていったまま闇の中へ溶けてゆき、こちらへ帰っては来ることはなかった。
しばし呆然としていたが、はっと気が付き、帰ろう、帰らなければと思い、来た道を引き返したが、道祖神に行き着いたところで背筋が寒くなった。
道祖神が動かないのだ。ここが開かなければ洞窟からは出られない。こんなところで死ぬのは厭だ。
ああ、どうしてこんなことになったのか。後悔の念がとめどなく押し寄せる。
……彼らはまるで邪教徒のようだった。私は信仰家ではないが、聖書にある古代の異教——時にそれらは邪教とも呼ばれる——そのものに見えたからだ。また、暗くてよく分からなかったが信徒達は老人だったように思う。村から若者は次々に離れていっているし、村民の多くはカトリックになったものの、信仰それ自体が急速に衰退していた。この歪なマリア信仰も滅びる運命なのだろうか。
そんなことを考えていると、腿のあたりに何か見えた。光だ!
道祖神の周囲の岩が脆くなっていて、隙間から月影が差し込んでいた。どうやら岩が崩れて、穴を二重に蓋していたらしい。
穴から這い出ると外の空気を思い切り吸い込んだ。淀んだ空気に晒された体に、海風が気持ちいい。
ふと、海を見てみると、月光に照らされた海上に大きな飛沫が上がった。
サンタマリア。彼女は信仰が失われた後も、この洞窟を訪れるのだろうか……。
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