第七夜 蝶と魂

 吾は列車の中にゐたりき。百年も前に走りたるが如き古めかしき列車なり。席は向かひ合はせの木製――但し發條バネ臙脂えんじの布地にて覆はれつ。照明はありと覺ゆれども、月光の一條照らせるに因りて漸くに見るを適ふ、杳〻たる明かりにあるなり。

 ……暗黑くらし。まなこを凝らせども遠つ山、ものゝ容貌かたちさへ、まともにはえ見じ。

而して、窓の側、其のいと近くある處に一ひらの蝶、顯れき。しとも覺ゆる翅の大きく見らるゝ。あらず、正に此の大きさ、あないみじ。人の上背ほどはありけり。翅の模樣は蛇の目に似かよひ、唯一つ見らるゝべき同心圓の搖らめき具合。

 吾は思ひき。蝶の魂の象徵あらはれたることを。渠は誰の魂なるや。

 不圖ふと、吾が視野の暗さを気にしつ。如何にや斯くの如き暗さなる。列車、蝶、闇、此等の單語の繫がりを思へば、ある恐ろしき結論に至りぬ。吾は既に死につるか。

 向かひの席に人一人ゐることに氣が付きぬ。暗がりにて見難きも、吾に相談すべき事のある風情なり。紺か藍か定かならぬ、茶かも知られぬ着物を着てゐて、渠が仕ふるべきさる令孃を搜せり。然らば、此女は女中ならむ。令孃の名は『ふみ』といふなり。捨て置くことも情けなく思へば、吾も合力せむとす。……令孃、女中、共に既に死人にあらむや。

 いつしか女中の木片になりつるを掌に乘せ步きたり。木片は吾を導きて、うね〳〵と動きたり。はたして疊敷きの部屋に入りぬ。其處には白衣を着たる老人が立ちて、此方を見るなり、あな、『實驗』の終はりつるか、との聲を發せり。

 その言葉を聞くや否や、『ふみ』を殺したるは吾なりしかと覺ゆ。さりとて如何なる實驗かを知らず。斯く思ひつるのみ。女中も、既に死にたるべし。

 而して、木片になりたる女中の、ギ、ギ、と太く長く伸び始めることあり。『令孃』を殺せし吾を絞め殺さむとす。

 なれど、己が死を覺えたる故にかあらむ、動き鈍く、また伸び遲し。さにあれども少しう伸び續けたり。吾を絞め殺さむとの執念なり。たとへば吾の夜眠りゐて無防備なる頸を絞めむ。あゝ、吾は最早眠ること叶はずなれり。


               (起床)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る