裏切

 エリヤヴィの家を出て、聖地へ続く道を辿る。新しく作られたと聞いたけれど、もう随分踏み固められこなれた道になっていた。僕たちが潜り抜けた穴は崩れた壁の下に埋まってしまったのだろう。どこにも見つけられなかった。

 聖地の中も崩されていた。いくつもの建物を形成していた白い壁は全て根こそぎなくなっていた。『瓦礫』を運び出すために邪魔だったのだろう。道の両側には運ぶ途中に落ちたらしい『瓦礫』の欠片が点在し、汚れ剥がれた塗料の隙間から錆びた内側を覗かせていた。

 ごうんごうんと空気を振るわせる低い音がどこからともなく聞こえてくる。聖地そのものが身じろぎするかのような重い音は、耳をふさいでも体そのものを震わせるように僕の耳へと忍び込んでくる。思えば、静かな聖地は嫌いじゃなかった。たゆたう空気に沈んだ青臭い草の匂いや、時々吹き抜ける風の音、『光』に照らされた舞い散る埃の細やかな煌めき。今はもう、何処にもない。

 あの頃、半刻近くかけて辿った『瓦礫山』までの道のりをたった半分の時間で駆け抜けた。踏みしめられて草一本生えない道に、こだまする事のない足音が生まれては消えていく。

 かつて『庭園』だった辺りで立ち止まった。僕たちが置いていったスコップも袋ももう何処にもなく、掘り下げられた地面の上にごろんごろんと石のかけらが捨てられていた。土を掘っても掘っても生えてくる、小さな雑踏もろともに。

 すっかり見通しの良くなった『瓦礫山』には、黒い星形を胸元に大きく刺繍した制服たちがいた。全部で四人。一人は瓦礫の量をみて、一人が音の源らしい巨大な機械を操作していて、二人は顔をつきあわせて話している。紙束を示し『瓦礫山』を指す方の逆光に沈む輪郭に見覚えがあった。

「ヒレル」

 一人が振り返った。伺うように見て、何ごともなかったかのように作業を続けた。

「ヒレル」

 また一人僕を見た。肩を叩いて、僕の方を指さした。けれど、振り向かない。

「ヒレルっ!」

 書類を広げる男が僕を見た。無理矢理振り向かされたヒレルは、向きなおりざま男に言う。『ほおっておけばいい』 ……そう、見えた。

「ヒレルなんで……」

「いい加減にしろ。子供が入り込む場所じゃないぞ」

 声は後から聞こえた。振り返れば教会兵だった。呆れているように、窘めているように、警棒を片手に僕を見下ろす。

「僕は、ヒレルに用があるんだ」

「……学者さんを呼び捨てとはね。ヒレルさん、どうします」

 ちらりと僕を見た目は冷たい。そのまま何も言わずに向きなおってしまう。まるで僕など知らないかのように。

「……ヒレル……」

「ほら、邪魔だ。帰りな」

 兵士の伸びる手をかいくぐって避けた。理由なんて分からない。けれど、僕を無視するつもりである事は分かった。

「もういいよ!」

「こら、待てっ!」

 踵を返して走り出した。


 壁の跡まで走り続けて振り返れば、もう兵士も追ってはこなかった。足を止め一度だけ振り返ったけれど、結局僕は歩き始める。すぐに教会の尖塔が迫ってきて心もとない明灯に浮かび上がる様をみて、なんとはなしに足の向きを変えた。

 エリヤヴィならきっと、全然関係ない話で気を紛らわせてくれただろう。ドクなら、何も言わずにあったかいスープを出してくれるだろう。レベッカはきっと、少し無理した笑顔で、市場のパンの味を批評でもするのだろう。それともアシジの家でも訪ねてみようか。頭の中に浮かんだことを一つ一つ消していく。皆、優しいことはわかっていた。けれど僕自身に、皆の優しさを受けて笑顔を取り繕える自信がなかった。

 足元の硬い草を蹴るように外周を回る。明灯も届かない中で聖地からの薄明かりと体で覚えたままを頼りに歩を進める。いつまでも歩き続けるかのように錯覚し始める頃、夜用の明灯に照らされたハウス群と、わずかな影でようやく存在を主張する僕の家が見えてきた。

 手探りでドアを開ける。淡い光さえ届かない少し埃っぽい部屋に入る。手で探るまでもなく見つかった椅子に座り込めば、どこからともなくぴょんが駆け寄り肩に乗った。冷たい鼻を頬に遠慮もなしに押し付けてくる。のろのろと手を上げて、小さな背をそっとなでる。幾度も幾度もそうしてなでて……ようやく、ほんの少しだけ、落ち着いたような気がした。

 崩れた聖地の様子が頭に浮かんだ。元気のない野菜達が浮かんだ。花茎をもたげたコケが浮かんだ。楽しそうなアシジの顔が、諦めたように老け込んだドクの顔が、感情を殺したエリヤヴィの顔が浮かんだ。遠くを見るレベッカの顔が、冷たいヒレルの横顔が浮かんだ。

 ショックだった。ドクも、エリヤヴィも反対していて。怖い事など何一つないような『光』をもう手に入れたような、浮かれたような皆の様子まで僕を不安にさせる。

 ヒレルのやろうとしている事は途方もない事に思えた。神話の世界なんて想像も出来なかった。光がもっと自由に手にはいるなら、もっとずっと楽になる。皆が浮かれる理由は僕にもわかる。教会は説いていた。『光』が『光』こそが人間の故郷なのだと。

 埃のつもった机に突っ伏した。目を開けても、目の前の埃すら見えなくて。けれど何だかそれが落ち着いた。ぴょんは明灯が嫌いで、エネルギー代はバカにならなくて、僕の家はずっと薄暗かった。寝る時はいつも真っ暗にしていて、昼間は大抵眼鏡を掛けてすごしていた。

 いつも想像していた。『光』の世界の『蒼』の色を。あの時、掴んだと思った。ほんの一瞬だったけれど。けれど、いざ目の前に迫ってみれば、あんなものは夢か幻のようなものでしかなくて。もっと明確な形がそこにはあった。多分、僕は……怖かったのだ。

 きぃと、錆びた蝶番の音に目を開けた。眠ってしまっていたかもしれない。覗くように振り返れば、ドア枠につかえそうな背の細い影が見えた。ぽっと小さな炎が生まれて、ぽつんと赤い火が灯る。

「……なんで」

「他に行くとこもねーだろうが。見つかりたくないなら考えろ」

 面倒くさそうな、ぶっきらぼうな声。……ヒレルだった。

 細い影は、多分、制服ではなくいつものジャケット。見えない口元は、きっとにやりと歪んでいて。かちかちと壁が鳴り、あり、と場違いな声がした。

「切れてんじゃんか。……ま、いいか」

 大きな手が降ってくる。頭をがしがしかき回す。少し冷えた、けれど暖かい手。知っている手。変わらない手。

 分からなかった。何一つ変わってなんていないのに。

「一年つったろ。大分早いぜ?」

 憎まれ口すら、今は嬉しい。

「……どうして」

 ついと口をついた。椅子を蹴った。ぴょんはころんと転がった。掴むようにジャケットを握った。

「どうして、なんで、あれは何なの!? なんで……無視したの」

「いろいろ面倒なんだよ。こっちにも都合っつーもんがある」

「都合ってなに。……教会の都合!?」

「そんなもんかな」

「どうして!」

「どうしても何もねぇよ。『道』を通す。利害一致。それだけさ」

 こともなげに言う。

「ドクは反対したんでしょ!?」

「じじぃのたわごとだろ」

 タバコを手にとり、面倒くさそうに灰を落とした。いつも通りの、何も違わない態度で。

「エリヤは、レンは……」

 要らないと言い切ったエリヤヴィ。レンジェルメニもきっと同じだったのだろう。もうどこにもいないレンジェルメニは、ヒレルの中にもいないというのだろうか。

「とにかく。俺は『道』を通す。教会も評議会も関係ない」

「でもっ」

「レベッカは帰りたがってる」

「……」

 何も言えなかった。まだ涙は目に焼き付いていた。手の中の思うよりずっと細い肩をおぼえていた。

「燃えるような朝日、目がくらむほどの夏の日差し、夜と昼が溶けるような夕暮れ。燃えるような勢いの鮮やかな植物。宝石のようなきらめきのエメラルドグリーンの海。宇宙の闇を透かした一転の曇りもない蒼空。風はいつもどこか青臭くて、たわわになった実を揺らす木があちらこちらに生えている。両手を広げて走り出せば、どこまでもいけるような、そんな場所なんだ」

「そんなの、わからないよ!」

「だからだ」

 そんな場所、この世界にはどこにもない。見たことがない。想像を越えているのだろう。だから、帰るしかない。

「ヒレルも、帰りたいの!?」

「……サムソンは、必ず行けると信じていた。もっと人が人として伸び伸びと自由に生きられる世界に」

 すっと赤い火が落ちる。きゅっとヒレルの靴先が鳴った。ついと温まりきらない季節の冷えた風が入り込んだ。なぜか、泣きそうな顔をしているんじゃないかと、思った。

「お前は」

「僕……?」

「レベッカと一緒に、行くこともできる」

「え……」

 風が、止まった気がした。父さんの目が追った先、あの日つかもうと伸ばした手。あの『蒼』の下、『光』あふれるあの場所に、僕が、行く。

 レベッカと一緒に。

「……あとちょうど一月で瓦礫の除去は終わる。一年前のあの日に来い」

 再び風を感じたとき、もう、ヒレルはどこにもいなかった。


 日が昇ったのを空気で感じた。いつまでもここにいるわけにはいかない。ドクも心配しているだろう。

 ドアを開けて、眼鏡を掛ける。昇ったばかりの太陽が世界を白く染めていく。行き先を感じたのか、単に朝ご飯の時間だったのかもしれない。ぴょんはふいと肩を降りると、草の間に紛れていった。

 一人歩き出し夜用のぽつんと灯る明灯の白い点を眺めながら、ハウス群を抜けていく。手近なハウスで育つキュウリは、やはり葉が一回り小さく見えた。

 壁のなくなった聖地は、眼鏡の中から見れば単なる廃墟でしかなかった。壁のなくなった今、そこには何もないかのように、ただ虚な空間があるばかりだ。

 ヒレルは研究所だろうか。教会派の制服を着て、難しい事を考えているのだろうか。口の端をちょっとだけ歪めたあの笑い顔で、同じ制服の同僚と冗談を言ったりしているのだろうか。……それとも、教会にいるのだろうか。

 ちょうど一月と、呟いたような言葉を思い出した。あれと、言葉に引っかかった。……今日は何日だろう。

 ドクの家の窓からはこんな時間だというのに薄く白く光が漏れていた。眼鏡を外せば明灯の光が遮られる事もなく窓の外まで届いていた。一晩中起きていてくれたのだろうか。ドアを叩いて少し待てば、そっと暖かい光が足元まで照らした。

「お帰り」

「……ただいま」

「お腹空いているだろう?」

 ドクは多分、分かっているのだろう。何も聞いてはこなかった。ただいつものように火にかけた鍋を静かにかき回した。優しい香りが漂い出す。

 僕もなにも言わなかった。ドアを閉めて、そっと椅子に腰掛けた。

「レベッカは寝てる?」

「こんな時間だからな。しばらく待っていたんだが」

「……うん」

 なんだか、嬉しかった。

 暖かいスープを一口含めば、きゅるとようやくお腹が鳴った。レベッカのものよりちょっと堅いパンにかじりつく。スープを一皿開けて、パンを三切れ食べ終わるまで、止まらなかった。ドクの顔は、呆れたような笑顔になっていた。

 一通り食べ尽くして落ち着いてくると、ようやく疑問を思い出した。部屋の片隅に小さなカレンダーを探し当てる。ヒレルはあの日と言った。僕たちにとって……僕にとって、あの日は『あの日』しかない。レベッカをみつけた、あの日だ。

「ねぇドク。今日って、何日?」

「一年も水海じゃ、分からなくなるか」

 そう言って教えてくれた日付は『ちょうど』より、数日早い。おおざっぱに一月ではあるけれど。

「……あの日に来いって言われたんだ。ちょうど一月後に瓦礫を退かし終わるからって」

「ちょうどと言うには、少しずれているな」

 間違いだろうか。それとも。

 分からなかったけれど、確かな事が一つあった。一月後には『道』がつながる。

「ねぇドク。……ドクはどうして、反対なの」

「……タルフは、賛成か?」

 緩く首を振った。怖かった。それは変わらない。けれど、分からなかった。もっと、分からなくなってしまった。

 レベッカと一緒に、レベッカの故郷を。

「……『道』がつながれば、この世界はなくなってしまうだろう」

「それは、『光』のせい?」

「……Schlachten」

「え?」

 吐き捨てるように言った。僕の知らない言葉だった。瞬いた僕に気付いたのか、ドクは薄く笑った。

「なんでもない。ただ、『光』にとっても、『闇』にとっても、良い事にはならないと思う。それだけだよ」

 それだけではないと思ったけれど口には出さなかった。聞いたとしても、きっと僕には分からなかっただろう。謳うようなヒレルの記憶。少し微笑んで口にするレベッカの故郷の景色。そのどれもに、僕は無力でしかなかった。

 僕に出来る事なんてやっぱりほとんどなくて、多分、唯一これだけだと思えて、口に出た。成人にも届かない僕だけど、きっと力になれること。

「……ねえドク、また、ハウスで働きたい」

「そうだな。なんにせよ帰ってきたなら、働いた方がいいな。カラエクの所は奥方が今は仕切っていたと思う。声を掛けておくよ」

「うん」

 少しでも僕の知っている世界を良い場所にしたかった。


選択


 キュウリは黄色い可憐な花を付けた。トマトは順調に花芽を大きくしている。僕たちの目の届く範囲ではあったけれど、少しは持ち直したように思えた。

 手を動かしている間は、聖地の事もヒレルの事も考えないで済んだ。ドクの遠縁と紹介されたレベッカと一緒に、土にまみれて働いた。気が紛れるのかドクと会って落ち着いたのか、戻ってきて以来レベッカは涙を見せていない。

 僕たちはドクの家で暮らしていた。僕の家はエネルギーを復旧させねばならず面倒だった事もあるし、レベッカを隠す必要ももうなかった。宅地の明るさが苦手なぴょんは、普段は草原で遊んで僕の家で寝ているのだろう。時折思い出したように顔を出した。

 僕たちは仕事場も同じだった。まだ時々言葉の怪しいレベッカを一人にしておくのはすこし心配で、僕たちは並んで作業をこなした。水海にいた頃からなんとなく当たり前になっていたけれど、周りはそうは見ていないらしかった。

 早い奴らなら、成人前から結婚相手を決めているのも珍しくない。何気なく言われて、僕の顔は沸騰した。教えているわけもない言葉にきょとんとしたレベッカは、ドクに意味を聞いて真っ赤になって寝室のドアを閉めてしまった。

 けれど少し嬉しそうに見えたのは、僕の気のせいだったろうか。僕はといえば、恥ずかしくて照れくさくて嬉しかった。レベッカが笑ってくれるなら何でもしたいと、また、思った。

 エリヤヴィにはあれから会えずじまいだった。就職は研究所だと思っていたけれど、そういうわけでもないようだった。村で見かけるときは大抵お父さんと一緒で声を掛けることなどできるわけもなく、そっと覗きに行っても窓は暗いままだった。窓の外に置かれた沢山の鉢に混じって、あのコケのつぼみは少しずつ少しずつ膨らんでいるように思えた。あの日が翌日に迫る頃、エリヤヴィの部屋には手紙を入れておいた。……会いたかった。

 一月はあっという間だった。市場で会うアシジたちの顔は、日を追うごとに目に見える成果に明るくなっていった。そして僕は寝付けない日が増えていった。レベッカには切り出せていない。ドクにも来いと言われた以上のことは告げられなかった。あの日まで指折り数える頃になって、不安だったけれど、どうするかようやく決めた。いつの間にか自然になっていた手の中のあったかくてやわらかい感触が、大切だったから。


 作業を終えて帰ってくれば、部屋はいつもの通りに明るかった。先に立ったレベッカが軽く叩いて戸を開けた。

「ただいま」 

「おかえり」

 レベッカに続いてドアを潜れば、いつも通りスープの香りが漂ってくる。少し早く診療を終わらせる事が多くなったドクが、用意してくれる夕飯の香り。

「ただいま……なに、それ」

 火にかけられた鍋と、バケットのパン。並ぶジャム瓶に並んで、見慣れない包みがあった。防水布のちょっと抱えるくらいの包みが二つ。

「良いから早く食べなさい」

「う、うん」

「おなかすいた。タルフ、はやくはやく」

 いつも通りのレベッカにいつも通りに急かされて、すっかり僕の位置になったドア横の椅子に座った。同じくレベッカにやっぱりいつもの通りに急かされたドクがスープをよそってくれた。

 さっそくパンに手を伸ばすレベッカは、『今日』をまだ知らない。僕はまだ、どう切り出そうか迷っていた。けれどもう、時間はない。

 スープを一口、口へ運ぶ。少し熱い優しい味が広がった。ふと、目頭が熱くなった気がして、慌てて瞬いた。これが最後になるかもしれないなんて、どう言えば良いのだろう。

「レベッカ。今日でちょうど一年だ」

「……いちねん」

 言い出したのはドクだった。思いもしなかったとレベッカの顔には書いてあった。あの頃のレベッカは字もわからなかった。言わなければ気付かない。気付かなければ、忘れている事もできた。

 ほんの一瞬曇った顔を見逃せなかった。パンをかみ砕いて、スープで流し込んだ。

 僕はゆっくりと口に出した。レベッカへ、僕自身へ向けた言葉を。

「レベッカ。……帰れるかも、しれないんだ」

「……え」

 ふと、表情が消えた。ついで、伺うような探るような、怪訝そうな顔になる。帰れないと聞かされていたと思う。ドクとヒレルという二人がいて、懸命に言葉を覚えた。人々に混じって暮らし始めたのは、ついこの間の事だった。

「どういうこと」

 深呼吸した。一度目を伏せて、レベッカを見る。冗談だと言うなら、今しかない。今なら取り消せる。一瞬過ぎった思いを懸命にねじ伏せた。……後悔はしたくないから。

「ヒレルが、あの日にあの場所に来いって。レベッカも聞いてるでしょ、『道』の話」

 それはもう、隠すことなんて出来なかった。夫のしている事を知らない妻がいるはずもなく、夫以上に夢を見ていたから。それは何と聞くレベッカに、ただ僕は、いつも、はぐらかしていた。首都への道路を造っているのだと。

「レベッカは『道』を通って来たんだって」

「『道』……」

「僕には、ちゃんとした事は分からない。けど……」

 言葉に詰まった。『道』。世界を繋げるもの。聖地の上に現れるもの。『光』のカタマリ。それしか、知らない。

「ごく希に、あっちとこっちがつながってしまう。ちょうどその時にその場所にいると、『道』を潜ってしまうと言うわけだ。私やヒレルもそうして来た。レベッカもおそらく同じだろう」

「……帰れるの?」

 僕を見て、ドクを見た。僕は、頷く事はできなかった。ドクは返事を避けるように、椅子を立った。タバコを取り出し眺める窓の先には、少しだけ明るさを増した聖地の空。僕の知っている事を、言うしか出来なかった。

「わからない。けど……『道』を通すって言ってるんだ」

 道が通れば。仮定の先にあるのは、『蒼』のように澄み切った、希望。

 教会の思惑、評議会の決断。通すための材料は、レベッカには言えなかった。もし本当に帰れるのなら、それはレベッカの問題じゃない。ヒレルが本当の所は何を考えているのかも、多分、関係ない。

「ほんとう、に?」

 うん。間違いなく、しっかりと、僕は頷いた。

 大きく開いた目からぽとりと雫が落ちた。

「レベッカは、帰りたいか」

「帰りたい!」

 静かなドクの問いに、テーブルを叩くようにして答えた。一年経って伸びた髪がふわりと舞った。声は必死で、けれどやっぱり、どこか嬉しそうで。

「そうか。……行きなさい」

 そこまで言われて、ようやく僕は気付いた。あの時降ってきた水。塩辛くてべたべたした水。あれが、海の水。レベッカが帰る場所、向こうの穴の出口は海で……ドクは最初からそのつもりだったのだ。僕が何を考えているかも、お見通しで。

「ドクも、かえろう?」

「……」

「なんで?」

 ドクはゆっくりと首を振った。

 問い返す声は、傷ついたような途方にくれた声だった。……僕は驚かなかった。そんな気がしていた。

「行きなさい。タルフ」

「レベッカ、行こう。……多分、もうそんなに時間はないんだ」

 一年前のあの時と同じなら、あと半刻ほどだろうか。僕は包みを二つ片手で抱えて、もう一方でレベッカの腕を取った。

「でも、ドクも、おなじ」

「違うんだ。ううん、同じかもしれないけど、違うんだ」

「わかんない!」

「僕だって……!」

 大声に驚いたのか、くっとレベッカは言葉を呑み込んだ。

 ……理由なんて知らない。分かるのは、ドクが選んだという事。

「ドク」

「……なんだ」

 こらえても、涙が出てくる。

 どうしても最後に、聞いておきたいことがあった。

「……名前」

「名前がどうした」

「本当の名前、教えて。ドクがドクになる前の名前、教えて」

「……あ……」

 レベッカは、言葉こそまだ不安だったけど、きっと僕より頭が良い。つっぱしるところもあるけど、思いやる事も知っている。何かを感じたのだろう。……それでいいと思った。

「……ゲオルグ。ゲオルグ・アイヒェンドルフ」

「ありがと。……ドク」

 少し迷った。ドクは寂しそうに笑った。

「……Buono Da, Sig.Eichendorff」

 レベッカの手を引いて、家を出た。どうした気まぐれか、飛び出してきた毛玉が爪を立てて駆け上る。転げ落ちることも、迷うような素振りもなく、肩の定位置に収まった。

「なんだよ、遊んでいたんじゃないのか?」

 チチチ。

 耳元でするかすかな声に一度だけ背中をなでて、レベッカの手を引き歩き始める。壁がなくなり、うっすらと増した『光』を村中へ投げかける聖地へ足を向けた。

「行こう、レベッカ」

「……うん」

 さよならとは、言えなかった。


 本当に、『道』を繋げてしまうのか。つながってしまった後、教会はどうするつもりなのか。疑問も不安も山ほどあった。でも今、一番大切な事は、手の中にあった。

 雑談をかわしながら店を畳む女の人たちと、作業を終えて帰途に着く男の人たちの合間を縫って進んだ。冷やかしの声も遠かった。繋いだ手は恥ずかしいより何より、離してしまう事ができなかった。

 壁跡の辺りで、最後の一人とすれ違った。見覚えのある体躯はカラエクさんで、僕は、泣きそうな顔で挨拶したと、思う。疲れた顔に幸福そうな笑みを乗せて、そんな僕の顔には気付かずに片手をあげて去っていく。

「古い街の跡、みたい」

 ぽつんとレベッカは言った。思えばレベッカは初めてだった。あの時は意識なんてなくて、教える機会もなかった。多分、そんな事を言いたいんだろう。

「いせき、だよ。崩される前は、もっと綺麗だった」

「……あっちにも、いせき、たくさんあるの」

「うん」

「こんな感じのまち、みたことあるわ」

「……うん」

 なんで、とか、どうして、とか。僕には分からない。けれど、教会は言う。僕たちは落とされたのだと。同じような街があってもおかしくはない。僕たちはかつて、同じ世界で生まれて、目も眩むばかりの『光』の下で同じ空気を吸っていた。何千年も前の話。でもたった、何千年かしか経っていない話。

「タルフ」

「なに」

 すっと前に出た。僕の手を取ったまま。

 逆光の中で、どこまでも澄んだ青い瞳が、僕を見る。

「一緒に、行こう?」

「……うん」

 花が綻んだようだった。僕は慌ててうつむいた。嬉しくて、幸せで、たまらなくて。……無性に哀しくて。

 僕は、レベッカを選ぶ。そして。

「来たな」

 声に顔を上げれば、予想とは少し違っていた。

 『瓦礫』はもうほんの僅かで、その下から何かが覗いていた。身体の底に響くような巨大な音を発する機械は何処にもなかった。暑苦しい制服も、一つも。

 細身のジャケット。作業をしやすいように腕までまくって、パンツはやっぱり作業用の薄汚れて擦り切れた綿。僕が見慣れた姿で立っていた。足元に転がるのは、なくしたと思っていた僕のスコップ。

 『学者様』には、到底見えない。

「一人?」

「煩いからな。警備もいない。清々するぜ?」

 くくっと口の端をまげる。……誰に向けた嗤いだろうか。

「ヒレル! 帰れるって本当?」

 手はかすかに震えていた。期待と不安と焦りとで、レベッカは一歩前へ出る。

「さてな。本当の所、俺も自信はないんだ」

「え……」

 ふっとスイッチを切るようにレベッカの表情は沈んだ。僕は『光』へ顔を向けた。ぴょんは一度身じろぎすると光の当たらない背中へ回り込んだ。

 目が痛くなるほどのまぶしさ。『瓦礫山』の下に出来つつある濃い光と影のコントラストをどこか懐かしい思いで見た。

「あの時と同じだ」

「……計算上は、今日で間違いない。今日じゃなくては困るんだがな」

 手元の小さなサイコロのようなものをもてあそびながら言った。まだ片付けられていない『瓦礫』の一つに腰掛けて。

「あっちには月ってもんがある。太陽よりも近い場所で、太陽のように回っている。……本当は少し、いや、かなり違うんだがな……あんまり近いんで、少しだけだが、引っ張られる。人間も大地もさほど気にならないが、影響を受けるものがある。……水海ぐらい大きな水たまりだ」

「Marea è in e è l'influenza.」

 知っているのだろう。レベッカの言葉で呟いた。

 僕はと言えば、思い出すのは水海の測定器。水面の高さを測るための。あれは。

「この世界の月は暗くて見えないけど、確かにある。こちらの月とあちらの月が最大の影響を及ぼす時に、この場所で、『道』が開くはずだ」

 タバコに火をつけ、すと立ち上がる。すっかり崩れた『瓦礫山』の下、その下の、何かに触れる。

「なんでこの場所なのか、どうして月ごときでと思ったよ。答えがこれだ」

 レベッカと顔を見合わせた。僕たちは同時に頷いて、同時に足を出した。

「くらいそら、みたい」

 それは、近寄っても何かなんて分からなかった。何か、としか言いようがなかった。僕には影にしか見えなかった。レベッカの言い方が妙にしっくり当てはまる。

 それは『瓦礫山』を上に載せてびくともしない影だった。実態のある影なんてあるはずないのに。闇が凝ったような、黒いモノ。墨のようにきらめくでもなく、闇と闇が合わさって触れる形になったもの。……僕にはそう思えた。

 レベッカはそっと伸ばした手を、針でつつかれでもしたようにぱっと引いた。僕もとおそるおそる伸ばしてみて、わかった。それは、とても冷たかった。一度離してまた触る。体温が触れたそばから吸われてしまうようだった。

「触る事はできる。動かす事もできる。マクロな力は全て反射する。その辺の鉄くずと同じくらいに」

 ヒレルはそれを軽く蹴った。瓦礫に手を添えたのは、動いてしまうからだろうか。ごつんごつんと音がして、蹴られるたびに揺れ動いた。

「なのに、ある一定以上の周波数を……ほとんど全ての電磁波を吸い込む。電磁波よりもっと大きなエネルギーも。……重力でさえ」

 そっとつつくように押してみた。瓦礫があるにもかかわらずほんの少し動いた。手応えはほとんどなかった。氷をテーブルの上でつつくより軽いかもしれないほど。

「重力は空間の歪みだという説がある。擂り鉢状にくぼんだ場所が俺たちのいる世界。そしてこの『闇』の上は、その中に出来た特異点に相当する」

 ヒレルは続ける。この場には僕たちしかいないのに、僕にはわからない難しい言葉を、僕たち以外の誰かへ言っているように、……単なる独り言のように淡々と。

「特異点は宇宙の境界面を超える。……『道』が開く」

「……あ」

 見上げたヒレルにつられて首をあげた。『光』が凝り始める。あの日に見た『蒼』がその中に……見えた。

「レベッカ!」

「……空」

 呆然と呟いたレベッカの頬を、次々と雫が滑っていく。僕は繋いだ手を握り直して、もう一度見た。

 レベッカの瞳よりも蒼い、『空』

「構えろ!」

 声に我に返った。レベッカを掴んで瓦礫の影に回り込むのと水が降ってくるのは同時で、今度は耐えた。しがみついてきたレベッカも驚いた顔をしながら、何処も何ともなさそうだった。

「……無事だな。レベッカ。これを」

「え、何?」

「それは……弁当だな」

 ヒレルはレベッカに一抱えしてもあまりそうな袋を押しつけた。僕の持つ防水布を取り上げて、乱暴に、丁寧に、袋の口に結びつける。

「それは?」

「拾った。使えると思う……時間がない。レベッカ、使い方は分かるな?」

 気圧されたようにぽかんとしたレベッカは、袋を見て、驚いたように目を見開いた。確かに、頷いた。

「時間がない。『道』を抜けたら、とにかく離れろ。巻き込まれる」

「どういうこと?」

「とにかくあがれ。もう『道』は開いているんだ!」

 はっとして、『光』を見た。レベッカを、見た。

 レベッカはじっと、空を見つめている。

「閉じるまで半刻もない。教会からも見えてる筈だ。『道』が閉じる直前に……吹き飛ばす。巻き込まれたくなかったら、とにかく逃げろ」

「……え」

 吹き飛ばす……何を? 僕の疑問を察してか、急かすように口を開く。

「『核』がなくなれば、もう『道』は開かない。……こんなモノがあるから、教会は『光』に固執する。こんなモノがあるから、俺が……レンは」

「……ヒレルも?」

 レベッカはそっと、視線をヒレルに戻した。ヒレルの口元が何かをこらえるように歪んだ事は、多分、気のせいじゃない。

「……も、かよ。バカなところばかり似たんだな」

 そして嗤う。口の端で。誰へともなく。

「……時間がない。タルフ」

「レベッカ!」

 うん。

 確かに頷いたレベッカの手を引いて、僕たちは、すっかり小さくなった『瓦礫山』へ登り出す。ほんの大人ほどの高さにまで減った山を、飛び出た『瓦礫』の端々を掴んで、蹴って、昇っていく。徐々にからだが軽くなる。踏みしめても傾かない瓦礫の下は空だと言うのに。

 何をすればいいかは、考えるまでもない。……『瓦礫山』の上に立ち、思い切り蹴り浮きあがる。勢いのまま、『穴』へ近づく。

 キー!

 すと、肩が軽くなった。目で追えば、毛玉が転がるように走っていく。先にあったのは、肩で息する見慣れた姿。

「タルフーっ!」

 聞いておきたかった声。エリヤヴィ。間に合って、くれた。

「花が咲いたんだ。俺たちは、変われるんだ!」

 ちりと、腕に痛みを感じた。『光』が。『穴』の向こうから降り注ぐ光が僕の腕を焼く。ちりちりと、少しずつ、けれど、確実に。

 光が嫌いなぴょん。『蒼』なんてなかったと言ったエリヤヴィ。あの僅かな間に色が変わった腕。伸びた花茎。咲いた花。

 僕はふと……手を離した。

「タルフ!?」

 大好きなレベッカの、当惑したような顔があった。腰から眼鏡をむしり取って、押し上げるついでに、握らせた。

「ごめん。僕、やっぱり行かれない」

 聞こえるだろうか。届くだろうか。向こうへ抜けようとしている君に。たった数千年は、それでも、僕たちには決定的な時間だった。僕たちは同じ。ヒレルとレンジェルメニのように。けれどやっぱり、違う。

「君の側にいたかった。ずっと笑っていて欲しかった。でも……」

 『光』の中へレベッカの姿が消えていく。僕の背中はふわりと地面の冷たさを感じた。

「僕は君の側にいられない。僕の……僕の故郷はここだから……」

 もう、『蒼』しか、そこにはなかった。

 君の瞳のようにどこまでも澄んだ。

「大好きだよ、レベッカーっ!」

 届けば良いと思いながら。

「……時間だ。エリヤ!」

 遠く重車両の音が響く。石を砕き、草を蹴散らし、踏みにじっていくその音が、少しずつ近づいてくる。

 ここにこのままいたならば、僕も土になれるのだろうか。

「来いっ」

 僕の意志など何処にもなかった。襟首をひっつかまれて引きずられる。転がるように近づいた毛玉が飛び乗ってきた。

 引きずられるまま離れた僕の目の前に、土の柱が立ち上がった。重車両にも負けない轟音が身体を直接揺らす。土の柱は『光』まで立ちのぼる。隙間から、吸い込まれるように消えていく『闇』が……見えた気がした。

「うわぁっ」

 かっと目を刺す閃光と爆破より強烈な破砕音。

 顔を庇い耳を覆い、細かくなった瓦礫と土砂がばらばらと降ってくるのを感じる。隙間から見えるのは、名残のような細い光。ドアを閉めるように細くなり、弱くなり、完全に消えるのを、何とも言えず、ただ、見ていた。

 かっと、焼け付くほどの光が僕たちを照らした。優しくも暖かくも刺しもしない。『光』とはまったく違ていた。投光器のものだと、すぐに気付いた。その頃になって、ようやく音が戻ってきた。

 重車両のたてる振動までも届き始める。

「タルフ! ……無理だっ」

「待ってて!」

 確かに、もたついている間はなかった。ごとんがたんと音はだんだん近づいてくる。けれど、諦められなかった。

 すっかり土砂に覆われた『瓦礫山』に、ほんの僅か盛り上がった影を見つけた。

「手伝って!」

 影へ取り付く。手探りで掴んで、引きずって出した。座らせる余裕もない。一度迷って戻って来たエリヤヴィと左右の肩を担ぎ上げて、足を完全に引きずって、僕たちは同時に走り始める。

「急ぐぞ」

 返事など必要ない。

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