郷愁

 水海での生活は、楽しい事と大変な事と半々だった。

 小屋の掃除に始まり、長年手入れされずに傷み始めていた水引口の修理、明灯や測定器のエネルギーを生み出す水車の整備に、それらを整備するための道具の手入れなどやる事は山ほどあった。どれも何らか手を入れる必要はあったけれど、フライパンに、鍋、包丁、鉈に鍬に斧なんかまでなんでもそろっているのは幸いだった。僕たちは掃除を済ませると、まず畑の一角に種を植え、住む場所の確保に追われる事になった。

 なにをとっても戸惑っていた様子のレベッカも、一日二日と経つうちに次第に要領を覚えてきた。道具の名前から少しずつ言葉を覚え、作業を覚え、一月もする頃には日常生活で意思疎通に困る事はなくなっていた。

 僕はと言うと、多分、レベッカ以上に一杯一杯だったように思う。ちょっとの間一人で暮らしていたとは言え、村の暮らしとはやっぱり違ったし、一人で作物を育てるのも初めてだ。僕がしっかりしなくちゃと気負った部分もあった。僕が分からない事でレベッカが分かる事何てほとんどないも同じだし、僕が自信なければ、レベッカはもっと不安だったろうから。

 それでも、レベッカに教わる事もないわけじゃなかった。一番大きかったのは料理で、香草の使い方だった。ドクもヒレルも僕も、あんまり気にした事がなかったけれど、雑草にしかみえない香草を上手く使えば、料理がずっと美味しくなる事を教えてくれた。そして向こうで海のそばに住んでいたというレベッカは、時期によって、時間によって、水海の水面の高さが違う事を知っていて、それが雨とかの要素ではなくて、周期的に変わる事を知っていた。僕はその時ようやく、測定器の意味を知った。水面は、僕たちが来た頃最も高くて、三ヶ月おきくらいに高低を繰り返しているようだった。

 レベッカは村で過ごした数日間の通りに、何にでも興味を持って、いつも明るく楽しそうだった。言葉を覚えてくると、言葉を知ったばかりでうずうずしている子供と同じく何にでも使いたがって、そして、言い直した僕の言葉をまたすぐに覚えるのだった。

 二月が過ぎる頃には、この生活が当たり前になっていた。半年が過ぎる頃には、ずっと前から続いていて、ずっとこの後も続いていくような気がしていた。

 その間、普段から忙しいドクが水海まで来れるはずもなく、エリヤヴィが訪れる事もなく、ただ、希にヒレルがここには植わっていない果物の袋や、防寒着なんかを差し入れてくれるくらいだった。

 いつからだろう。ヒレルが帰ったあとしばらく、レベッカは顔を曇らせるようになった。そして、肌寒い風がすっかり収まり、足を水海につけても冷たくないと感じるくらいに暖かくなってくると、レベッカは波打ち際にいる事が多くなっていた。眼鏡を着けたまま、時には外して、水平線を空をじっと見つめている。そんな時、僕はどう声を掛ければいいのか迷う。いつも笑顔を絶やさない元気なレベッカが違う表情を見せるから。


「レベッカ、ご飯出来たよ」

「……うん」

 あと一月ほどで一年が経とうとしていた。レベッカはまだどこかぎこちないけれど、僕との会話に不自由する事はなくなったし、暗闇にもすっかり慣れたようだった。

 生返事をしたものの、レベッカは浜から動こうとはしなかった。僕はそっと、レベッカの隣に腰を下ろしてみた。並んで同じものをみて、同じことを考えたかった。灰水の水海、水海沿いに茂る薄い緑の堅い木々。薄水の空には、中点近くに太陽の薄ぼんやりとした白い円が留まっていて、雲は何処にも見あたらない。今日も、良い天気だ。

「わたしのうち、ウミのソバにあるの。キモチのイイしおかぜがいつもふいていて、わたしのヘヤからは真っ青なウミと、蒼いソラが見えた」

「……うん」

 何度か切れ切れに聞いていた。レベッカの故郷の、鮮やかな風景。光溢れる日中。白い町並み、レベッカの瞳より蒼いという空。宝石のような色の海が眼下に一望できる坂を、いつも友達と一緒に駆け下ったと。海岸沿いにはオレンジの木。誰も見てない隙を狙っていつも二~三個失敬して、涼しい風が吹く岩場で、かじりつくのが好きだった。男の子達に混じって、両手で抱えるほどの魚を捕まえてはムニエルにしてと母親にせがみ、母親は嘆きながらも美味しい料理を作ってくれた。

 聞きながら僕は想像する。あの蒼の下の鮮やかな街を。その中ではち切れんばかりの笑顔のレベッカを。けれど結局、いつも想像しきれずにいた。

 塩辛いという水の味を知らない。湿気を含んで優しいという潮の匂いを知らない。柔らかくほくほく崩れていくという魚の身を知らない。痛いほど、目を開けてはいられないほどの溢れる光を、その光で作られる涼しく暖かい陰を知らない。

 僕が知っているのは、柔らかく煮込んだ野菜のスープと、どこか暖かい闇に包まれたこの世界だけ。光の世界を知りたいと思う。レベッカと同じものを見て、聞いて、感じたいと思う。父さん達が憧れて、僕もまた、憧れる世界。人間が生きる世界。

 けれど今は、頷く事しかできなかった。それ以上は、言い出せなかった。少しだけ上げていた視線が少しだけ下がるようになっても、隣で座る事しかできる事はなかった。いつかは『いつか』でしかなく、少し細く見えるようになった肩と、柔らかい曲線を描く頬をただ、眺めていた。

「帰るトチュウだったの。初めてのハイスクールの長いおヤスミで、やっと帰れると思ったの。ママがムニエルを作って待っていてくれるって言ってイタの」

 レベッカは遠くを見ていた。眼鏡もかけずに闇の中の水平線を、その向こうを。そのなかに、僕はいない。

「まんまるい月だったの。とてもキレイだったわ。まうえにあって、見上げたら首がいたかったの。……ここ、つき、ないのね」

 今度は眼鏡をかけた。今見えるのは暗い光のない空だけだ。夜の空を照らす、淡い太陽のようなものだといつかレベッカは教えてくれた。僕には、月も分からない……。

「……ごめんなさい。ごはん、冷えちゃうね」

 僕の目を避けるように反対を向いて立ち上がった。眼鏡を外した視界の中で、何かが明灯の光を反射した。俯き加減でレベッカは小屋へ向かう。小さな背中が、小刻みに震えている。

 僕の知らず握りしめた手が、ふるえた。

「レベッカ!」

「なに?」

 さっと頬を袖で拭って振り返った。もう、いつもの笑顔を全面に貼り付けていた。

「レベッカ……」

「なに、どうしたの。あ、セナカになんかついてた? みえないわ。とって」

 一年の間、ずっと迷っていた。口に出してはいけない気がして、避けていた。ここへ来る前、ここへ来てすぐは、多分、レベッカも一杯一杯だったのだろう。なにもかもが珍しくて、日々を生きるだけで新しくて。けれど、今は、生活に慣れ、余裕が生まれ、故郷と似てまったく違う場所を目にして。望むなと言う方が酷だろう。けれど、叶わない事も多分、気付いていて。

 だけど、無理して笑うレベッカは見たくなかった。

「レベッカは帰りたい? 光の世界へ帰りたいの?」

 逆光で陰になったレベッカの頬を、ためらうような最初の一粒を皮切りに、幾つもの雫が滑り落ちていく。きらきら光を反射させながら、抑えがなくなってしまったように。

 そっと抱き寄せれば、僕の肩に顔を埋めるように泣きじゃくる。僕の手の中で、あの頃よりずっと細く感じられる肩が震える。抱き締めればこんなにも小さいのに、僕にはこの涙を止められない。

 ドクは、ヒレルは、こんな風に泣いた事があったのだろうか。僕には感じる事さえ出来ない想いを抱いた事があったのだろうか。

 悔しさと焦りと寂しさとがごっちゃになって、つんと目の奥が痛くなった。

「……村へ帰ろう、レベッカ」

 懸命に瞬きしながら、呟くように言った。一年には少し欠けるけれど、僕にはもう、レベッカを支える自信がなかった。


 少し薄くなったとはいえまだ綺麗な色を保ったままのレベッカの膚に、日が落ちた頃合いに着くよう水海を出た。遠くから見る村の姿は一年前と変わりなく、村はずれの僕の家は住む人も使う人もいなくなって、なんだかちょっとくたびれたようだった。

 久々に家に帰ってきたかと勘違いして飛び出したぴょんをそのままに、僕たちはハウスを過ぎてドクの家に向かう。たった一月の間だったけど僕が世話した野菜達の様子をのぞき込んで、僕は僅かに首をかしげた。

「どうしたの?」

「……明灯のせいかな。元気がないみたいだ」

「……葉っぱ、うなだれてる」

 夜用の薄暗い明灯のせいばかりでもないらしい。手を引かれながら、同じように眼鏡を押し上げてハウスを覗いたレベッカも、同じような感想を漏らした。

 暖かくなるこの時期は、背丈が一番伸びる時期だ。花にはまだ早いけど、大きな葉をめいっぱい伸ばして、明灯の光を一筋も地面に落とさないぞと植物たちも気合いを入れるような、そんな時期だったように思う。第一、ハウスではないとはいえ、水海の僕たちの畑はうねる蔓でてんてこ舞いだったから。

 おかしいのはハウスばかりではなかった。遠くにみえるはずの壁と、薄くぼんやりと浮かぶ『光』が、記憶の中とどこか違う。村の家々の屋根の上、高さが違う事にしばらくして気付いた。『壁』があったから、『光』が直接見える事はなかった。明るい時でも壁の上から漏れるくらいで、『瓦礫山』の上の『光』そのものは決して見えない、はずだった。

 そしてその村も、近づけばどこかやっぱり違っていた。診療所の裏、ドクの家の前まで来ても、市場の喧噪が聞こえない。時間が時間だったからうるさいほどの熱気はあるはずもないけれど、薄寒さを感じてむき出しの腕をさすっていた。雰囲気でおかしい様子を察したのだろうか。レベッカは繋いだ手をほんの少し力を入れて握り直した。

 隙間から明灯が漏れる扉を叩く。はい、と聞こえた声がなんだか弱々しく感じる。久々に聞く声ではあったけれど。

 鍵が掛けられている様子もなく押し開けられたドアから覗いたのは、懐かしいドクの顔。ほっと気が緩むのもつかの間、あれと、思う。

「タルフ。レベッカ」

「ドク……」

 小さくなったと思った。まだ背は僕の方が低かったけれど、見上げる角度がずいぶん違う。僕の背が伸びた分確実に差は縮まった。そして、細くなった気がする。

「ドクター、こんにちは」

 ぱっと笑んだレベッカに、ドクはうんうんと頷き返した。大きく開いたドアから漏れる明灯が目を刺すほどに眩しい。こんなに明るいのも久しぶりだった。

「まずは入りなさい。……Memorize language? Rebecca.」

「ドクター、大丈夫。わたしちゃんとおぼえたから」

 するりと僕の脇を抜けて入っていくレベッカとどこか力強さが抜けてしまったドクを較べてしまった。やっぱり、どこか、おかしい。

 頬が細くなった。シャツの肩が少し余っている。白髪が増えた。

「タルフ。……大きくなったな。この時期の男の子はあっという間に大きくなる」

 頭をわさわさとかき回す大きな手を取ってみた。シワが深い大きな手。こんなに細く折れそうな手だったろうか。

「……何かあったの?」

「私の周りではなにもなかったよ」

「壁は? ハウスの野菜が何か変だったんだ。どうしてこんなに静かなの。……何があったの」

「何も」

 言い切った言葉と、その目は違う事を言っていた。優しい茶色の瞳が陰っていて、どこか哀しそうに見えた。

「エリヤヴィは、元気? ヒレルはたまに来てくれたんだ。こっちにはまた帰ってないの?」

「エリヤヴィは、元気そうだった。直接会ってはいないが、主席で上級学校を卒業してね。今はお父さんの下で頑張っているだろう。ヒレルは……」

 さっと視線を外した。部屋の中へ向きなおる。レベッカに座るように身振りで示し、ようやく言葉を続けた。

「また、連絡一つ寄越さないんだ。きっと元気なんだろう。さ、疲れているだろう、夕飯もまだだろう?」

「僕……」

「タルフ?」

「エリヤの所に行ってくる」

 レベッカを置いて、一人ドアを閉めた。


 おかしいと感じたのはあながち間違いでもなかった。店じまいを進める市場の店も、僕に気付いて声を掛けてくるのも、みんな女性だ。男の人の姿がない。いや、ないわけでもなかった。次々と歩いてくる。教会の方から……壁の方から。みんな疲れてだるそうではあった。埃にまみれた服も、くたびれたような顔も。けれど、どこか楽しそうにも見えた。心地よい労働をやりきって、満足しているような。

 聖地で、何を?

「タルフ! よぉ、久しぶりだな!」

「アシジ」

「隣村でドクの仕事してるんだって? ちゃんとやってんのかぁ?」

「え、あ、うん……がんばってるよ。アシジこそ……生まれたんだよ、ね?」

「おぅ! かわいいぞーっ! あいつのためにも頑張らないとな!」

 誇らしげな笑顔に僕も嬉しくなる。けれど、手放しでとは言えない。何を、と僕は遂に聞けなかった。

「しばらくいるなら、ウチにも来いよ。ガキ見せてやるから」

「う、うん」

「じゃな!」

 肩を叩いて去っていく。幾人も幾人も。僕を残して過ぎていく。最後の一人が通り過ぎて、ようやく一歩踏み出した。

 人気の途絶えた通りを抜ける。近づくほどに壁の様子が見えてくる。教会の明灯に負けない光が足元まで届いていて、知らない道が僕の前に続いている。

 辿るほどに不安になる。進む毎に怖くなる。この道は一体何処に続いているのか。

「いい、お前はここにいなさい」

「父さん!」

 声に顔をあげた。どるんと重そうな車のエンジンが聞こえてくる。ぱっと着いたライトに腕を上げて目を庇う。

「『光』なんて要らないんだ、どうして分かってくれないんだ!」

 ぱふとクラクションを鳴らされて惰性のように避けた隣を、自動車が過ぎ去っていく。後を追うように通りへ走り出て来たエリヤヴィは、ドクと同じように……それ以上に、疲れて見えた。

「エリヤヴィ?」

「……タルフ、か?」

「何があったの? 要らないって、どういうこと」

「あの子は」

「ドクの所」

「来たばかり?」

「……真っ直ぐ来た。ドクは何も……」

「そう。……部屋へ行かないか。見せたいものがあるんだ。玄関からで大丈夫だから」

 久しぶりとか、背が伸びたとか、大人っぽくなったねとか、多分、言えることはたくさんあった。けれど、僕も多分エリヤヴィもそんな余裕はなかった。

 久しぶりに踏み込んだエリヤヴィの家の玄関はやっぱり僕にはだいぶ眩しかった。先に立ち進むエリヤヴィは呟くように言う。

「半年くらい前に母さんが亡くなったんだ。父さんは見た通りだから、今はとがめるような人はいないし」

「……そう」

 記憶の中より、どこか寒々しい廊下を進む。エリヤヴィは通りがかった手伝いの女性にお茶を頼んだ。

「聞いたよ。主席だったってね」

「主席じゃないと、父さんが許さないから。そんな事より……ちょっと待ってて」

 扉を開ける。見知った鉢だらけの部屋は相変わらずで、ようやく緩んだエリヤヴィの、変わらない様子が嬉しくて、思わず目の奥がつんと痛くなる。

 服が汚れるのも気にせずに窓から身を乗り出したエリヤヴィは、よっと一声をかけて外の鉢を引っ張り込んだ。こんもり緑の乗った、小さな鉢だった。緑の上にはすいと数本茎が伸びて、その先がふっくらふくらんでいる。

「……柔らかい草?」

「うん。コケの一種で、ちょっとくらい悪い環境でも育つ種類なんだ。この伸びたのはね、花茎っていって、花が咲くんだ」

「花?」

「赤い小さな花だよ。……この鉢はずっと外に置いておいたんだ。光の届かない。……土は草原の土で」

 えと、僕は瞬いた。明灯がなければ、光がなければ、柔らかい草は育たない。草原の土では、根付かない。だからみんなハウスを建てて、聖地の土を欲しがる。肥料を十分混ぜ込ませれば、草原の土でも出来ない事はなかったけれど。

「ずっと考えてたんだ。どうして聖地の土じゃなくてはだめなのか、明灯が必要なのか。人には太陽の光が見えないのか。……太陽の光で、草原の土で生きていく事ができれば、俺たちはずっと自由になれる。そうは思わないか?」

「思うよ。でも」

 太陽の光は見えない。植物は育たない。それは紛れもない現実。

 こつこつと叩かれた音で、言葉を切った。トレイを受け取って、エリヤヴィは女性を下がらせる。明灯の下では透けそうな白い手が、優雅にポットを傾けた。

「俺も、姉さんも、ずっとその道を探していた。姉さんは学者ではなかったけど」

 渡されたカップを、手で抱くようにして一口飲んだ。柔らかい香りが口の中に広がる。まだ堅いつぼみも綻べば甘い香りがするのだろうか。

「姉さんはちょっと変わった体質で、研究所へは検査と調査に行っていたんだ。ヒレルとはその時に会ったんだって言ってた」

 独り言のように続ける。かちゃりと僅かにカップが鳴った。

「その様子だと、聞いてないね」

「……うん」

 ヒレルの事だとわかった。そして、それだけじゃないような気がしていた。聖地の様子。町の様子。元気のないハウスの野菜たち。全部。

「ヒレルの研究って聞いた事ある?」

 首を横に振った。一度聞きかけた事はあったけど……さっぱり分からなかった事だけ覚えている。ドクの苦そうな顔も。

「時空物理っていったかな。重力とか、空間の歪みとか、そういうのだったらしい」

「え……」

 空間の歪みなんて、ピンと来ない。けれど重力なら、思い当たる事があった。『瓦礫山』に近づくに連れ、足元がふわふわ浮くようなあの感じ。あの場所だけの不思議な感覚。ドクも言っていた。重力異常。

「ヒレルは教会についた」

「どういうこと」

「……『道』を通す気だ」

「『道』……」

「教会は、今だと言っている。評議会もだ」

 淡々とエリヤヴィは続ける。視線は部屋の大部分を占める鉢を一つ一つ辿っているようだった。感情を殺した冷たい瞳で。

「評議会は、『光』を手に入れたいらしい。エネルギーの確保は最重要課題だからね。農地の確保にもつながる。農業生産が増やせれば、出産制限も要らなくなる。それに、技術も欲しいらしい。空を自由に飛ぶ技術。土を使わず植物を育てる技術。他にも色々あるみたいだ。教会は言わなくても分かるな」

「そんな」

 光の世界にはレベッカの家族がいて、レベッカのような普通の人たちが沢山暮らしているはずで、教会はそんな人たちに復讐すると言うのだろうか。何千年も昔の誰も知らない神話を信じて。

「……聖地を解体して、『瓦礫山』の下から『核』を取り出す。計算で割り出した日、場所にその『核』を置けば『道』が開く。……ヒレルの論文だ」

「じゃぁ、みんなは」

「そう。成人以上の男性は聖地と『瓦礫山』の解体作業に出る事になってる。ドクのような高齢者や、学者、議員なんかは除外だけど。……タルフももうすぐだったな」

 後二月、暑い季節の手前には僕も成人になる。けれど今は、そんな事はどうでもいい。僕はまだ子供でしかなくて、教会の考えも、評議会の意見も分からない、理解したくない子供でしかなくて。

「ハウスの……ハウスの野菜たちは元気がないみたいだったんだ」

「手が足りてないんだと思う」

「みんな、凄く楽しそうなんだ」

「そうだね。もっと良くなるってみんな信じているみたいだ」

「ドクは、反対しているんだ」

「……何度も説得しようとしたみたいだよ」

「エリヤは!?」

 何も言わずに立ち上がったエリヤヴィは、そっと明灯に近寄るとスイッチを切った。窓の外から、聖地から漏れだした光が淡く淡く差し込む。淡すぎて、エリヤヴィの顔すら見えない。

「タルフ、今は昼? 夜?」

「え?」

 問いかけは唐突だった。声は少し遠くて、エリヤヴィはじっと窓の外を眺めているようだった。

「どっちだと思う」

「……夜だよ」

 考えるまでもなかった。夕飯の支度を進めていたらしいドク、店じまいを始めていた市場、眼鏡をかけても暗いのは、既に日が落ちているから。視界だけじゃない。ほんの僅か、膚に当たる風も違う。どこか暖かい昼間の風に対して、夜の風はどこか涼しい。

「どうして」

「眼鏡でも何も見えないし、少し寒いから」

「うん。夜だよね。こんなに暗いんだから」

「エリヤヴィ?」

 何を言いたいのだろう? そんな、当たり前の事を。

 エリヤヴィの声は、まだ、少し遠い。

「昼なら、見えるんだ」

「眼鏡があれば、でしょ?」

「……眼鏡なんて要らない」

「え?」

「……姉さんは光が見えたんだ。昼間、太陽の光が」

「どういう、こと?」

 眼鏡がなければ、太陽なんて見えるはずがない。眼鏡なんてなくても暮らせるように、人の住む場所には必ず明灯が設置されている。ぴょんたち野生の動物たちが嫌がって近寄らないほど。明灯と眼鏡、それは必要なはずなのに。

「そのままさ。眼鏡がなくても見えた。高い白い空も、風に揺れる草原の草も全部。……俺も、見えた」

 窓辺にうつったエリヤヴィの影がふっと笑ったように見えた。そっと鉢に手を伸ばす。花茎のついた苔の鉢だと、思った。

「人はもっと変われるんだ、『光』なんて必要ない」

「ヒレルは、知ってるの?」

 声が震えそうだった。……混乱していた。

「知ってると思う」

「ヒレルは、何処」

 ヒレルならまだ冷える頃にも会っていた。あの時はどこもなにも変わった様子なんてなかったのに。

 会いたかった。

「多分、『瓦礫山』に」

「……ありがと」

 僕は椅子を立った。

「姉さんは分かってくれると、信じていたんだ」

 ぽつんと漏らされた言葉を、僕は背中で聞いた。

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