昔話

 目を開ければいつもの闇だった。何処だろうかと考えて巡らせた視線の先で、漏れてくる灯りを見つけた。ドクの家の、僕の部屋だった。

 ベッドをゆっくり降りた。足がみしみし言っている。あれだけ歩いたんだから、仕方がない。きゅるとお腹がなった気がした。来たのは朝だったし思いのほか身体は軽い、もうとうに昼を過ぎているだろう。

 ドアをそっと押し開けた。覗くように顔を出すとドクと目が合った。くたびれた白衣に、少しだけ疲れたような顔で僕を見上げていた。

「よく寝ていたな」

「うん……何時?」

「少し遅いが、ちょうどこれから昼飯だ。喰っていくだろ」

「うん……」

 どうしようかと、少し迷った。水海に戻らなくてはいけない。レベッカはきっと心細い思いをしている。ジャガイモや小麦粉、堅いパンなんかを買って、ついでに屋台ものの料理でもかっこめばいいとも思っていた。けれど、エリヤヴィの言葉が気になっているのも本当だった。『使徒』と聞いた気がしたから。

「レベッカなら心配するな。ヒレルが行ってる。じきに戻ってくるだろう」

「……うん」

 ことんとバケットをテーブルに置いた。棚から色とりどりのジャムを取る。

 ドクが知っているならヒレルも知ってるだろう。驚く事じゃない。けれど、どこかもやもやした。

「待つ間、昔話を聞いて欲しい」

「昔話?」

 どきんと心臓が鳴った。かたんと最後にスープ皿が置かれて、僕はまだ迷っていたけど椅子に座った。ドクは少し寂しそうに笑った。

「私とヒレルと、お前の父さんの話だ」

 僕はそっとスープを運んだ。やっぱりスープは柔らかく温かい。上目遣いでちょっと見たドクは、スープの湯気が揺れる向こうで、目を閉じて言葉を探すように口を開いた。

「エリヤヴィの言葉は聞いたかい? 私とヒレルは光溢れる世界で生まれた。けれど、光の神を信じていたわけでもない。闇に落とされた神がいる事すら知らなかった。……光の世界はとても広くて、人間もとても多い。光の神を信じている人たち、まったく違う神を信じている人たち、そして、神自体を信じていない人たち、沢山、色々な人たちがいた。

 私はエリヤヴィのように上級の学校で学んでね、医者になったんだ。色々な場所に行って、色々な人たちを看た」

 かちゃんと音をたてて、スープを一口掬った。何と言っていいのか分からず、僕も機械的に手を動かし続けた。

「だから、ドクターと……ドクと、呼んでもらう事にした……こちらで生きていこうと決めた時に」

「……決めた?」

 僕を見て、少しだけ笑った。

「海を渡っている時だった。……海というのは水海のように大きな果てのない水溜まりで、水は塩辛いんだが……その海を大きな船で渡っている時だったよ。光の太陽が陰ったんだ」

「光の……太陽? 消えてしまう?」

「そうじゃない。あちらには月というものがあってね。太陽より近い場所にあるから、時々太陽を隠してしまうんだ」

「隠してって!」

「自然現象なんだよ。珍しい事だが、特別な事じゃない。時間が経てば元に戻る。……私はそれを見ようと甲板に出ていたんだ。幾人も同じように外に出ていた。波は静かで大して揺れてもいなかった。そのうちあたりは真っ暗になってね……小さな男の子がぶつかってきたのを覚えているよ」

 僕は懸命に想像しようとした。光の太陽というのだから、巨大な明灯のようなものだろうか。それが隠れてしまう。あたりは真っ暗で。巨大なボートの上にいる。……コウハンに出るって、どういう事だろう。

「突然、船が大きく揺れた。私は船縁を掴んで、男の子の腕を掴んだ。足が浮くような感じがした。水が沢山ヘリを超えて入ってきて、上からも降ってきた。掴んでいる腕だけが頼りだったよ」

 足元が頼りなくなる感じには、覚えがあった。あの時、きっと、あの時と同じだ。『瓦礫山』へ近づくと、いつも足元がふわふわする。『瓦礫山』の側では、地面を踏んでいる感じがおかしい。地面が頼りなくなって、今にも自分が浮いてしまいそうな、感覚。あの時はそれが強かった。まるで、身体そのものが浮いてしまったかのように。

「あんまり水の勢いが激しいものだから、目を開けていられなかった。べきべきと足元が壊れる音がして、ついに取っ手が取れてしまったんだろう。……目を開けたら、薄暗い光の中で、地面に仰向けで倒れていた。……男の子の手は掴んだままだった」

「……男の子って……」

 ドクは目だけで頷いた。

「真っ先に男の子の様子を見たよ。……外傷もないし、気絶しているだけのように見えた。次に何処だろうと思って見回した。見覚えのない場所だった。鉄くずを重ねたような小山を、崩れた石の壁が囲んでいる。そして……ちょうど、今のタルフと同じくらいだったな。ゴーグルを額に押し上げた小柄な少年が石の壁の間から見下ろしていた」

「あ……」

「言葉は分からなかったが、ついてこいと言っているように見えた。男の子を暖かい場所で休ませたかった。他の人たちの事も気になったが、結局ついていく事にした。

 不思議な世界だと思ったよ。ゴーグルを……竜視眼鏡を掛ければこんなにも明るいのに、眼鏡がなくては腕を組んだ相手が誰かも分からない。草は青臭くないし、太陽はない。死んでしまったのではないかと思ったほどだ」

 僕はただ、頷いた。僕たちには当たり前の事だった。不思議に感じる事に少し驚いていた。ドクが急に知らない人に見えた。

「しばらくは、小さな家で過ごした。けれどそのうち……外へ行こうと言い出したようだった。私も……特に男の子は、退屈しきっていた。少年について水海へ行き、ここだと身振りで示された。

 最初は不満だったし、疑問だったよ。でも、理由を聞き出す事はまだできなかった」

「理由……聞けたの?」

 ドクは僕をちらりとみた。一息つくようにスープを掬い、パンをかじる。

「ずっと後になってね。この世界の聖書を読んだ。そして、少年は哀しそうな顔をして、特別に配給されたという肥料を持っていたよ」

「……そんな……」

 僕たちは死ぬと土に返る。人も、ネコも犬も、食べられないウシも馬も。安置場に一定期間置かれた後、骨まで砕かれて肥料になる。肥料は毎年一回、春になる頃配られる。僕たちが食べるための植物を作るのに欠かせないものだった。

 年一回の配給に対して、ごく希に特別支給される事もあった。大抵それは聖地が明るくなった後で、今回もそろそろだと、カラエクさん始め、ハウス主はみんな心待ちにしていた。

「言葉に不自由しなくなって、ようやく水海を出た。幸い私には医術があったから、どうにか村に潜り込む事ができた。……それから今まで、あの時一緒だった連中には一度も会えなかったよ」

 そこから先は僕にも分かる。僕が生まれて、ヒレルも僕も大きくなった。父さんと母さんは流行病であっという間に死んでしまった。ヒレルは上級学校を卒業して学者になって、何処で知り合ったのか、レンジェルメニと結婚した。

「すっかりスープが冷めてしまったな。年を取ると話ばかり長くなる」

「……なんで」

 淡々と、スープを運ぶ。もう、哀しい顔もしていない。いつも通りのどこか諦めたように静かなドクがそこにはいた。

「なんで、みんな死んでしまったの? ドクは帰りたいと思わないの? 知らない場所で、寂しいとか思わなかったの!?」

 すっとドクの目が僕を見た。静かな目だった。

「目の前の人の命を救う事しか、私にはできないんだ。教会のしている事は間違っているわけじゃない。この世界は人間にはとても厳しい。来てしまったからには、この厳しい世界でも生きたいと思う」

 かちゃり。響いた音に心臓が飛び出るかと思ってしまった。ドクはすっとドアを一瞥すると、パンを取り、一口ちぎる。

「……そして、私が関わった人達くらいは、幸せであってほしい。そう願っているよ」

「年寄りの感傷じゃねぇのか? タルフ、とっとと飯喰っちまえ」

「ヒレル……」

「市場でまず買いだしだ。芋と粉と、種もあった方が良いな。夕方までには着きたいし……」

「待ちなさい。お前はどうもせっかちで……」

 ぶつぶつ口の中で文句を呟いたようだった。多分、これだからとかなんとかいつもの小言だろう。ヒレルは聞いてもいない。僕の部屋から毛布を引っ張り出してきて、やっぱり引っ張り出してきた大きな防水布でくるむ。……食堂に埃がたった。

「タルフ。……しばらく村を離れるか、全て忘れてこれまで通りの暮らしを続けるか、選びなさい」

「えっ」

 とにかく水海に行かなくてはと、ほとぼりが冷めるまでは帰ってこない方が良いかと考えてはいた。けれど……そんなに真剣には考えていなかった。

「教会はやり方を変えたようだ。レベッカと一緒に何人が来たのかはわからない。けれど、一人は確実に生かされているだろう。少なくとも言葉を覚えるまで、どこかに紛れて暮らせるようになるまでは、村へ帰ってこない方が良い。……食べてる最中に埃を立てるのは止めなさい」

「俺らはいろいろマズイからな。そう張り付いてはいられない。男だろ。今ここで、決めろよ」

 僕は一度目を閉じた。レベッカと知り合うまでの僕を思う。……迷うほどの僕を、僕は持っていない。それよりもレベッカの無邪気な笑顔を守れるなら。

「……行く」

「決まりだな。車を出してきた。とりあえず、当面の食料を買い込め。季節が良いから、野菜はどうにかなるだろう」

 言うが早いか、ヒレルは毛布を担いで出て行く。……行くとは言った、けれど、一つだけしたい事があった。

「待って、ヒレル。その前に……エリヤヴィに会いたいんだ」

「……」

 一瞬だけ、口元の笑みが消えた。そして、その後に出た言葉は、想像もしていないものだった。

「いいだろう。俺も行く」

「え」

「あいつにもやってもらいたい事があるしな」

「ヒレル!」

 口の端だけをあげる笑みが戻った。音をたてて立ち上がったドクを見る事もなく、ヒレルはドアへ手を掛けた。

「……俺は諦めないからな」

 何をとは、聞いてはいけない気がした。


 昼下がりの市場は、それでもまだ空いている方だった。軒を連ねた店先を幾人もの人たちが行き交いながらも、どこかのんびりとした雰囲気があった。これが夕方、店じまい間近になれば売り切ろうと躍起になる店主と、少しでも安く買いたたこうと狙う主婦達の戦いの場になる。ドクにもらった額は少なくはなかったけど、今日は買いこむ量も多い。もう少し遅い時間に来れれば良いのだけどと思いながら、知った顔の知った店先を見て回る。

 タニムの店は安いけれどジャガイモに芽が出始めている。シモンの店は取り立てだけどやっぱり高い。アモライは値引き交渉はしない主義。フナは小売り専門。

「何見てまわってんのさ!」

「うちで買いなよ。美味しいよ!」

「悪いねぇ、うちも商売だからさ」

 声を掛けてもらって、僕は笑顔を返すしかできなかった。さして広い村じゃない。お互い様だったから

「ううん、大丈夫。今日はドクのお遣いで来たから、ちゃんと買うよ」

 ぐるっと全部見て回って、結局ジャガイモはシモンの店で、小麦粉はタニムの店で買う事にしようと、通りを駆け戻る。五シュケルの小麦粉を抱えて、次はシモンの店へ。

「タルフ! お前、最近どうしてた」

「わっ」

 危うく吹っ飛ばされるところだった。慌てて踏ん張り、小麦粉をどうにか抱え直した。目の前にぬっと巨大な手が降ってきて、僕の頭に着地した。アシジだった。

「なんだ、そんな大袋担いで」

「ドクのお遣いだよ。なんだよ、アシジこそ」

 まだ十分日が高いと言える時間で、学生は学校だし、仕事を持っていれば仕事中だ。アシジはお店をやっているわけじゃない。少しびっくりした。

「俺か? 俺はあれだよ」

 にやにや笑う。下がり気味の目が今にも溶けてしまいそうだ。

「許可が下りたんだ。今つわりが酷くてな。カミさん、動けなくってさ」

「え、本当!?」

「嘘なんか言うかよ!」

 がしがし、ちょっと見ない間にとんでもなく大きくなった手で僕の頭をかき回す。目が回る。

「すごいや、おめでとう!」

「おぅっ!」

 ようやく離してくれた手で、照れくさそうに鼻をかいた。紙袋を抱え直して、僕の小麦粉を持ってくれる。

「お前もいい加減ちっちゃいな」

「……ほっといてよ」

 アシジの背が伸びたのはほんの二~三年前だった。成人間際だったと思う。僕にとっては来年の話で、だから、まだ気にしなくても良いはずで。……絶対アシジより大きくなってやる。

「……それより、お前ら、なんかやったのか?」

「え?」

 シモンの店でジャガイモを買う。種はもう買ってあった。あと、必要なものは。市場を見回す僕を見て、アシジは視線を壁へ移した。今日も、壁から漏れる光が見える。……まだ、薄明るい。

「な、なにも」

 何かを探す振りをして、目をそらした。アシジには言えない。誰にも、言えない。

「穴の辺りに兵士が立ってるんだよな。教会もなんだかせわしいし。困るよなぁ土が手に入らないと。……肥料の臨時配給に期待か」

「う、うん……」

 ジャガイモを受け取り、僕たちは並んで歩き出した。市場の外れを少し行ったところでヒレルが待っている。

「土の配給もしてくれればいいのになぁ。これから何かと入り用だし、今のハウスだけじゃ一杯一杯でさ」

 困った風を装いながらも、声は嬉しそうだ。アシジは結婚してもう二年になるはずで、きっと結婚当時からずっと申請していたのだろう。成人もしていない僕には結婚なんてまだまだずっと先の話で、子供なんて想像も出来ない。けれど、嬉しそうなアシジは見ていて僕も嬉しかった。少しだけ、複雑なものを感じながら。

「よぅ、ヒレル! 帰ってたのか」

「でっかくなったな、アシジ」

「そりゃ、俺だってもう父親だし? いつまでもガキじゃねーよ」

「なんだ、そりゃ」

「ま、そういうこった」

 持っていた小麦粉の袋をヒレルに押しつけるようにして渡した。にやけ崩れた顔に、ヒレルも了解したのだろう。口の端だけで笑って、小突く。

「あんだぁ、クソ垂れ坊主がオヤジかよ」

「いつの話だよ!?」

「ホンの十年前だ……おめでとさん」

「ありがと」

 僕はヒレルを見上げた。あげた口の端、少し上がった頬、柔らかい笑みに見える。どこか寂しそうな。舞い上がったアシジは、多分、気付いていない。僕は何も言えなかった。

「じゃな、タルフ、ヒレル。カミさんに遅いって怒られちまう」

 最後に僕の頭をまた、がしがしとかき回した。ちょっと悪戯っぽく笑う顔も、僕の頭をすっぽり掴めそうな手も、急に大人びて見えた。

「……アシジも、これから頑張ってね」

「しっかり働けよ」

「おぅ!」

 紙袋を抱えて、どこか楽しげな足取りでアシジは市場へ戻っていく。そっとヒレルを見上げた。同じ笑顔のまま、後ろ姿を見送っていた。

「……ヒレル」

「行くか」

 僕を見ることなく、先に立って歩き始めた。


 教会へ忍び込むのはやっぱり僕の役目だった。荷物を預けて身軽になって左右をちょっと気にしながら、明灯の届かない陰を選んで進む。

 エリヤヴィは授業中のはずで、教室の位置の見当はヒレルがつけた。言われた教室をそっとのぞき込む。明灯の光が眩しいほどに漏れていて、気を付ければ中からは見えないだろうと思えた。

 エリヤヴィは三つ目に覗いた窓の中で、だるそうな面倒くさそうな顔でペンを動かしていた。教壇には準司教が立っていた。なんとなく、眠そうな理由が分かった気がした。

 問題はどうやって気付いてもらうかだ。あまり窓に近づきすぎては準司教にも、他の学生達にも見えてしまう。遠すぎれば、エリヤヴィにも見えない。僕からは見えて、中からは気付きにくい位置で、考える。と、目が合った……ように感じた。

 何ごともなかったかのように準司教に視線を戻したエリヤヴィは、ペンを落とした。拾い上げようとかがんで、なんだか騒がしくなった。駆け寄りたかったけど、ガマンした。僕からは、机の下は見えなかった。近寄った準司教と何ごとか話すと、そのまま席を立つ。釣った左腕を庇うように押さえながら、教室の出口へ向かった。エリヤヴィが出て行くと、少しざわめいていた教室はすぐに静寂を取り戻したようだった。

「タルフ。こっち。そこ見つかる」

「エリヤヴィ!」

「しっ」

 口に一本指を当ててみせ、僕は慌てて口を閉じた。手招かれるままに木々の間を縫って近寄る。

「よくわかったね」

「まぁ、な。それよりどうした? 教会にまで来るなんて」

 エリヤヴィはもう左手を押さえたりはしなかった。……きっと、ペンを拾う時に左を打ち付けた振りをするとかで、保健室へ行くという口実を作って抜け出したのだろう。怪我人相手では、準司教も強くは言えなかったようだ。

「うん。最後に会いたかったから」

「最後?」

 今度は僕が手招きする番だった。渡した眼鏡を器用に着けて僕の後をついてくる。ヒレルはこの先人気のない草原で待っていた。そこまで行けば遠慮なく話せる。

「僕、村を離れる事にした」

「え?」

 小声で呟くように言えば、やはり小声で疑問の声が返ってくる。

「レベッカとね、しばらく水海で暮らそうと思うんだ。村じゃどうなるかわかんないし」

「あぁ……」

 手を貸して教会の壁を乗り越える。丈の高い草が生い茂るそこはもう村の外だ。草原、水たまり、何でもござれの大型車両が少し離して停めてあった。助手席側の窓にもたれてタバコをふかしながら僕たちを待っていたヒレルも眼鏡を付けている。道のない場所だから、明灯の光も届かない。

「……ヒレル」

「よぉ」

 少し手前で、エリヤヴィの足は止まった。タバコを落として靴先で踏み消し、ヒレルは運転席側に回り込んだ。僕は、エリヤヴィの少し後で、どうすべきか分からずにいた。

「取って喰やしねぇよ。……水海まで行って、俺はそのまま研究所に帰る。途中、その辺で下ろしてやる事もできるが、どうする」

「え」

「……あぁ! エリヤ、行こうよ。夕方までには帰れるし」

 ついでのような言葉だったが、多分そうじゃない。僕と二人だけなら、単車でもどうにかなるのだ。草原ならまだしも、四輪で森は無理だ。大きく回って川から行くつもりなのだろう。研究所の誰かから借りてきたのだろうけど、きっと、こうなる事を予想していた。僕はそう思った。

「……俺らの事、聞いたんだろ。いや、知ってたんだろ? 俺たちは一緒になった。子供もできた。それが答えだ」

「けど、許可は……」

「否定はしねぇよ」

 なんと声をかければ良かったのだろう。僕には二人が抱える想いのほんの半分も分からなくて。言い放って運転席に乗り込んだヒレルと、立ちつくすように動かないエリヤヴィの後ろ姿を黙ってみているしか出来なかった。

 突然生まれたエンジン音に、エリヤヴィを気にしつつ車両へ近づいた。

「タルフは前。エリヤは後だ」

「え、うん……」

 伺いならドアに手を掛けた。エリヤヴィは無言で近づくと後のドアを引き開けた。

 助手席に乗り込めば、落ち着く間もなく車両をスタートさせる。転げそうになりながら見たヒレルのちょっと歪んだ口元は、なんだか、泣き出しそうに見えた。


 突然現れた車両をレベッカは蒼い目を零しそうになりながら見つめ、僕たちの姿を認めると、ぱっと花が咲くように笑った。明灯零れる海岸を走り、波を蹴散らし、飛びかかるように両手を広げて抱きついてきた。遅れじと跳ねてきたぴょんが、レベッカの後頭部に衝突した……ように見えた。

「TALF,HILLEL,Stava aspettando!」

 どんと車体にぶつかって、どうにか倒れずに済んだ。……さすがに水の中に尻餅を着くのは格好悪い。

「寂しかったってさ」

 くすくすと、声の調子が笑っている。……多分、違う。

「ごめんね、待たせて。……荷物下ろすから、あっちで待ってて」

 引きはがして後部座席の荷物と、小屋を交互に指さした。立ち直ったらしいぴょんが、定位置とばかり僕の肩へよじ登る。僅かな重さともさもさ柔らかく暖かい感触に僕も少しだけほっとした。

 自由になってようやく後部座席へ向かう。僕が引くより先に開いたドアから、戸惑ったようなエリヤヴィが顔を出す。ためらいながら水面に足を下ろした。

「エリヤヴィ、荷物下ろすから先に行ってて。あっちの木の向こうに小屋があるから」

「え……、うん……君が、レベッカ?」

 エリヤヴィの包帯に巻かれた左腕をそっと押して海岸へ押しやる。反対側からヒレルが毛布とジャガイモの袋を引っ張り出していたから、僕は残りをどうにか抱えた。小麦粉と種と香辛料が幾ばくか。

「Si. Chi e? ……だ、れ?」

 呼ばれてレベッカは身軽な動きで振り返った。立ち止まったエリヤヴィをのぞき込むように真っ直ぐ見る。僕は寄せた波が足元で弾けるその横で、立ち止まった。

「エリヤヴィだよ。一緒に君を見つけたんだ」

「He found you,with Talf」

「Oh,Thank you.I wanted to meet」

「会いたかったってさ」

「う、うん……」

 ヒレルの言葉に、ぱっと笑顔になる。エリヤヴィの無事な右手を取って、ぶんぶんと振って見せた。

 元気なレベッカに安心した。すっかり呑まれているエリヤヴィが少し可笑しかった。水に落とさないように持ち直して、小屋へ向かう。エリヤヴィの右手を引いたレベッカが、小走りに僕たちを追い越していく。

 すぐに木の合間を抜けて見えなくなった二人だったけど、僕たちが追いついても小屋には入っていなかった。首をかしげるレベッカを前に、エリヤヴィは首を振る。確かに、ゆっくりしている時間は無いかも知れないけれど。

「エリヤヴィ」

「ここなら、見つからないな。そのうち戻ってくるんだろ……待ってるからな」

 ぱっと振り返って、すれ違いざま、そう言った。

 眼鏡を下ろす一瞬、頬が光ったように見えて。

「エリヤ!」

 駆けだそうとした僕を押しとどめたのは、荷物を下ろして身軽になったヒレルだった。

「いいから。……レベッカが普通すぎて拍子抜けしたんだろうよ」

「どういう……」

「……俺も、ドクも、レベッカも、エリヤもレンも……お前も、何一つ違いなんて無いんだ」

「えっ?」

「俺ら帰るからな。心細いが、お前がレベッカの先生だ。……一年、ここで持たせろ。戻って来るな。いいな」

「一年?」

「……じゃな」

 言うが早いか、エリヤヴィの後を追って駆けていく。

 戸惑ったようなレベッカとどうして良いのか分からない僕が顔を見合わせる中、エンジン音と、水をかき分ける音が響き、やがてそれも聞こえなくなった。遠く静かな波の音と、僕たちを包むような木々の葉擦れが残される。

「……いちねん、だってさ」

「いち、ねん?」

 上手く説明できずに、ただ頷いた。レベッカの背を押して、小屋へ入る。まずは暖かいスープでも作ろうと思っていた。

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