行方
山を下りて森を抜けた頃にはもうあたりは真っ暗だった。眼鏡を外してランタンの光を頼りに草原を進み、村の灯りが見え始めるあたりで僕は思わず足を止めた。すっかり慣れて僕の腕を掴むように歩いていたレベッカも、つられて足を止める。問いかけるような視線に、僕は踵を返した。
「たるふ?」
「……水海へ行こう」
腕が捕まれたままなのを確認して、ランタンをなるべく低く持って歩き出した。戸惑うようにがさりごそりと音をたてたレベッカの足も、諦めたように来た道を向く。
村の縁にある僕の家のあたりが明るかった。なくてはならない明灯だけど、エネルギー代はばかにならない。ぴょんもキライだったし、だから、僕の家の明灯は、さほど明るいものじゃない。家の周りは草原で、もともとは、衣料用の堅い草の畑だった。堅い草に明灯は要らない。その周りにはハウスがあったけど、今は夜用の淡い光だけの筈だ。どこをとっても、あんな明るさ、ひっくり返っても出てこない。
じゃあどうして明るいのか。考えられるのは、投光器くらいだった。昼間見た自動車を思い出す。なんでも、どうしても、多分ない。レベッカを見られてはいけないと、ただ、思った。
足元に落ちる光を辿って水辺に出るだけで、深夜近くなっていた。昨日遊んだ浜を過ぎて、はぐれないようにレベッカの腕を掴み直して水に足をつける。測定器の置かれた大岩付近を、ヒザまで水に浸かりながら攫われないように歩いた。レベッカの手にも力が入る。灯りがこれしかない中で、水にはいるなんてした事がないんだろう。大丈夫だと力を入れて握り返した。
竜視の効かない夜、村の外は本当に何も見えない闇に沈んでしまう。それでも、進まないわけにはいかなかった。ランタンの燃料はいつまでも持つわけではない。昼間はともかく、ランタンが切れれば、夜動く事はできなくなる。今日は晴れているとはいえ、明日も天気が良いとは限らない。村から離れる選択をした時点で、アテはこれくらいしかなかった。
大岩を過ぎるあたりでほの明るい光がようやく見えてきた。木々の隙間から漏れるように、足元にまで届き始める。レベッカの手から力が抜けた。僕は密かに苦笑しながら、もう心配ないだろうと手を離した。肩がやたらと重かった。だいぶ緊張していたようだった。
浜に面した木々を過ぎれば、淡い明灯に照らされた荒れ地が広がっていた。荒れ地の脇には小屋があって、小屋の下には小川が流れていた。明灯は全体をくまなく照らせるように小屋の壁に固定されている。
ふわんと、青臭い香りが鼻を突いた。伸び放題の葉の陰から、時折黄色や白の花が覗く。顔を近づけてみれば、ほんの僅かではあったけど、甘い香りをかげるはずだ。
草は全て、柔らかい草だった。手入れをしていないから伸び放題荒れ放題で見る影もないけれど、ジャガイモ、キュウリ、トマト、ニンジン、豆、小屋の影にはキノコも生えているはずだ。小屋の中には毛布と小麦といくらかの缶詰、そして、火鉢がある。畑をちゃんと手入れすればそれなりに、そうでなくても数日くらいなら、過ごす事ができた。
ここは父さんの隠れ家だった。母さんと僕以外、村の誰も知らない。父さん達がまだ生きていた頃には、時折来て手入れもしていた。なんで作ったのか、どうして誰にも知られてはいけないのか、結局聞く事はできなかったけれど。
「レベッカ」
荒れ地同然の畑を突っ切り、小屋の戸を開けた。レベッカを手で招いて、通じて欲しいと思いながらゆっくりと言った。レベッカと、小屋と、僕と、村の方向を順番に指しながら。
「レベッカはここにいて。僕は村へ戻るから」
レベッカは少し緊張した顔で、確かに頷いた。
夏の夜明けは早い。動き始めた空気にランタンの灯りを消し眼鏡を掛けてみれば、もう空がうっすら明るみ始めていた。眼鏡を掛けても掛けなくても明灯の光はなく、僕の家の周りにはいつも通りの早朝の空気が漂っていた。結局何をしていたのか分からない。けれど、諦めたと言うよりは、時間が遅くなりすぎたので一旦中断した、そんなところなんだろう。
村へ近づいてみれば、案の定、僕のちっぽけな家より大きいかもしれない投光器が、でんとドアの前に居座っていた。そろそろ足が重くなっていて、物凄くお腹も空いていた。山へ登って降りて、水海までさらに往復。さすがに疲れていた。このままベッドへ直行できたらどんなにか気持ちよく眠れるだろう。けど、そうも行かないようだった。
ドアと投光器の間に、人影があった。暑いだろうに、長いいかついコートを着込んだ男の人だった。知らない顔だったけど、コートの模様は誰でも知っているものだった。教会の兵士だ。さすがに街中しか知らないお偉いさんじゃない。顔を半分覆った眼鏡が、さほど近づかないうちに僕の方へ向いた。正直に言えば、回れ右して走って行ってしまいたかった。威喝するようなこいつらは、好きじゃない。しかもなんだか……ものすごく不満そうに口元が歪んでいる。
「君がタルフか? ……独りか?」
「そうだよ。誰と一緒だって言うの? おじさんは何? 僕の家がどうかした?」
おじさんと言ったのが悪かったのか、口元がもっと歪んだ。僕は気付かないふりで、なるべく普通に聞こえるように努力した。こんなとき眼鏡は便利だ。なければ相手の顔なんて見えないし、あれば直接目を見れない。
「君を待っていたんだよ。まさか、こんな時間になるとはね。何処へ行っていたんだ?」
「僕を? どうして? ……家に入っても良い? ずっと歩いていたから疲れてるし眠いんだ」
脇を抜けて伸ばした手を、すっと遮った。……やっぱり、寝かしてはくれないみたいだ。
「残念だけどね、大事な用があるんだよ。教会まで来てくれるかい?」
言葉は問いかけだったけど、実際は強制だった。僕が何を言う前にくるりと回れ右して歩き出す。ついでに無造作に僕の腕をつかんで。僕は引きずられるように歩くしかなかった。容赦なくて、堅い草に何度もつまづいた。獣道を辿ろうともしない。堅いブーツの底に踏みしめられて、何本もの草が根元から折れた。
「……歩くよ、自分で歩くから離して!」
引きちぎるみたいに振りほどいてようやく自由になった。うっすらと赤く手の形が浮かび始めていた。獣道へ戻って、少し迷いはしたもの結局村へ向かう方へ足を向けた。
じっと僕を見つめていた兵士はついて来るらしい僕を確認して、村へと顔を戻した。
「逃げようとは思うなよ。また一晩あんな所で待つのはごめんだからな」
あんな所で悪かったな……心の中で呟いた。
側は何度も通っていたけど、実際に中に入るのは卒業以来だった。僕は熱心な教会派じゃなかったし、ドクはどちらかというと教会嫌いなほうだった。父さんと母さんが生きていれば、合間を見て礼拝くらいしたかもしれないけど、それももう四年も前に終わった事だった。
教会の中は当たり前かも知れないけれど驚くほど昔のままで、いつも今も煌々と輝いている明灯に思わず目がくらんでしまう程だった。眼鏡を下ろして手でひさしを作った僕を兵士は少しだけ振り返って鼻先で笑った。眼鏡の奥の目は思った通り冷たかった。
壁に描かれた神話と正面に置かれた闇と安らぎの神の像が見下ろす中を進んで説教台の脇の扉へ入る。大講堂の左右から伸びる廊下には教室や面会室や資料室や図書室や、色々な部屋が並んでいた。兵士が足を止めて開けた扉は面談室で、教師と学生が個人的に話す時に使われるような部屋だった。殺風景で冷たくて、教会のどこもそうであるようにやたらと明るい。ぴょんを置いてきて良かったなと、涼しい肩を少し寂しく感じながらぼんやり思った。こんな明るさを見たら、きっと目を回してしまう。
僕が入ると兵士は扉を閉めたから、独りで待っていろという事なんだろう。呼び出された時にいつも座ったかたかた落ち着かない椅子に腰を落ち着けた。最後に座ったのは、滞納した学費をどうするかとか、そんな話だったように思う。あまり良い思い出じゃない。けれど、座って落ち着いてしまったのも事実だった。思い出の中より少し低くなったテーブルに肘をつく。
何気なく目をやった壁には、やっぱり記憶のままの小さな窓が収まっていた。はめ込まれたガラスはまるで鏡のようで、かなり眠そうな僕が僕を見返していた。そっくりそのまま殺風景な部屋が僕の後に広がっていたけれど、その一角にぽつんと光の染みができたのをぼんやり見ていた。
あれはエリヤヴィの家のあたりだろうか。何とはなしに思ううちに、ふいとまぶたが重くなった。遠くでニワトリの威勢の良い声が聞こえ始める。じじとノイズのように聞こえるのは、明灯の球がたてる音だろうか。ぼんやり考えながら、僕の視界にはもう明灯なんてなかった。眼鏡のない昼間のような暖かい闇が広がっていて、落ちるようにその闇の中へ飲まれていった。
邪魔くさい手に肩を揺すられて仕方なく目を開いた。吐き気がする。授業中眠くて眠くて仕方なくて、けど、頑張って起きていようと目を開いた時と同じだった。多分、さほど時間は経っていない。どうにか顔を上げると、今度は知っている顔があった。神経質そうな細い目をさらに細めて迷惑そうな顔をしているから、きっとたたき起こされたんだろう。この人が相手では同情する気にもなれなかった。初等学校の教頭で、この村の準司教だった。やな人に当たったなとぼんやり思う。
見回せばあの兵士も入り口の脇に立っている。悪戯して、叱られた時より雰囲気は悪い。吐き気の次に頭の後の方に痛みを感じながら、どうにか背筋を伸ばした。
「久しぶりですね、タルフ。確か今は農園で働いていましたね。仕事の方はどうですか」
きんきんと刺さりそうな声だった。せめて穏やかに話してくれる司教だったら良かったのに。
「ようやく慣れてきました」
「もう一つのお仕事の方はいかがですか」
「もう一つ?」
「聖地に入り込んで何かをしているでしょう」
『聖地あさり』なら、村の人間なら誰でも知っている。わざわざ聞くようなことじゃないのにと面倒くさくなる。けど、そんな態度を出したら何を言われるか分からないから、なるべく正直に答える事にする。
「土を取ってくるヤツですか? ……別に何も変わりませんけど」
「嘘仰い。五日ほど前にまた聖地へ入り込んで、変わった事があったでしょう」
決めつけてかかるなら、最初からそういえばいいのに。頭の中だけで溜息をつく。かといって、しらばっくれる事もできそうにない。僕が知ってるという事を当然準司教は知っている。抜け目ないエリヤヴィのことだから、正直に全てを話しているとは思えなかったけど、怪我は隠しようがない。やっぱり正直に答えてみる。レベッカの事を覗いて。
「それなら、ありました」
「どんな事があったんですっ!?」
声が一層高くなった。耳が痛い。ちょっとだけ顔をしかめてしまったけど、なるべくイヤそうな声にならないように気を付けた。……眠いし、頭が痛いし、耳が痛い。最悪だ。
「よくわかりません。いきなり水に流されたんです」
「わからない事はないでしょう!? その場に居たんですからっ」
「わかりません。だって本当にいきなり物凄い量の水が流れてきたんです。知ってたら怪我なんてしません」
ほらと腕を突き出した。もうふさがっていたけれど、完全じゃない。包帯は要らないけど、かさぶたは見れば分かる。分かっててこんな怪我して、骨まで折るほど物好きじゃない。水は本当に突然だったのだ。
「……分かりました。土を取ろうとしたら、水が突然流れてきたのですね。他には?」
「他?」
「他です。他に変わった事は!?」
「……ありません」
「嘘仰い!」
ばん、とテーブルが鳴った。耳が痛い。ちらりと横目で見てみれば、兵士も僕と同じような顔をしていた。少しだけ同情してくれたように見えた。
「嘘じゃないです。怪我したし、袋も持てなかったし、べたべた気持ち悪かったし、そのまま帰りました。血がいっぱい出たから、ドクターの家に寄りましたけど」
多分、僕一人で、レベッカも居なくてエリヤヴィも怪我していなくても、結局行ったと思う。あの時は夢中だったけど、結構大きな怪我だったと自分でも思った。さすがにもう痛くも何ともなかったけど。
エリヤヴィの事はなんとなく避けた。言っちゃイケナイことじゃなかったけど、人のせいにしてとか何とか、言われる事は目に見えていた。隠そうと思っていた訳ではないから、その程度ではあった。
「女の子が居たでしょう!? 浅黒い膚のあなたと同じくらいの年齢の女の子が」
「え」
まじまじと見返してしまった。……何で知っているのか。
レベッカを背負って帰ったあの日、ドクの家まで誰にも見られてはいなかったと思う。レベッカは診察棟には一回も入っていないし、ドクの家の付近を歩くのは診察が終わった夜ばかりで、僕の家との往復も人気の全くないハウスぐらいしか通っていない。僕の家を観察しているような物好きはそうそういないし、そもそも、人が起き出す前に家を出て、暗くなった後で帰って来る事ばかりだった。
レベッカがドクの家にいる間は、ドアには鍵が掛かっていた。夜、足元を照らすので精一杯のランタンじゃ、レベッカが女の子かなんて近寄らずに分かるわけがない。今なら何となくわかるけど、ドクは僕たちを……レベッカを見られないように最大限の注意を払っていた。僕が誰かといたと言う事くらいなら、知っている人はいるかもしれないけど、浅黒い膚の女の子だったなんて、誰にもわかるはずがない。……エリヤヴィとドクとヒレルを除いて。けど、ドクやドクに環を掛けて教会嫌いなヒレルが素直に話したわけがない。だからといって、エリヤヴィがそんな告げ口みたいな事をするとは思えない。なら、どうして。
「どうなんですか!? 居たのですね? 女の子を見つけて、連れて帰ったんでしょう」
そんな子は知らない。僕達は怪我したのでそのまま帰りました。そう繰り返せば、多分いいのだ。でも、準司教の言葉はもはや問いかけですらなかった。
すっかり混乱した頭で、ふと、思った。頷いたら、どうなるのだろう?
「もし……」
「いたんですね!?」
「もし、居たら、どうなんですか!?」
「へ?」
「お、女の子なんていませんでした。でも、いたらどうなんですか? いたらいけなかったんですか?」
聞いた事が意外だったのだろうか、そして、反論するような言い方がよほどカンに触ったのだろうか。目を瞬いた準司教は、次の瞬間教会の外までも響くような声を出した。
「いたらどうかなんて、あなたが知る必要はありません! いたんですね!? 今はどこにいるんですか! 素直におっしゃい!」
耳が痛い。涙まで出てきた。衣擦れの音が聞こえたから、兵士は耳を塞いでいるだろう。僕にはそんな余裕は与えてもらえなかった。
「だいたい、聖地へ土を取りに行くというのがまず懲罰ものなんです! それどころか悪魔の使徒を庇うだなんてどうかしています! 神への冒涜です! いいですか、そもそも悪魔は……」
がちゃんと鳴った音が……これこそが救いの神だと思った。突然沸いた音に準司教も思わず言葉を切った。慌てて兵士が振り返る。
「準司教。それは恐喝というんです。私は初等学校の最終学年であなたから教わりました」
白い太い釣られた腕がまず目に入った。エリヤヴィだった。兵士を押しのけて部屋へ入ってくる。薄い灰色の目が真っ直ぐ準司教を見ていた。
「きょ……恐喝だなんて、人聞きの悪い。私は真実を話すように説得しているのですよ!?」
「真実なら、僕が昼間申し上げた通りです。僕たちは、確かに聖地へ無断に侵入しましたし、水に押し流されたりもしましたが、女の子なんて見ていません。僕はその時にこんな怪我をしたんです。人一人担いで帰るなんてできませんよ」
「しかし……!」
「第一、そんな詳しいお話をどこでお聞きになったんですか? 女の子と一緒に行動する僕たちを見た人でもいるんですか? そんな方がいるのでしたら、是非連れてきてください」
「それは……」
「そもそもこれはこんな時間にする話ですか? 僕はともかく、タルフは成人前の子供ですよ。夜は休む時間と決まっています。健全な生活を子供達に指導している準司教ともあろうお方がすることとは思えません」
一旦言葉を切ったエリヤヴィは、言葉もない準司教を一瞥すると今度は兵士を見上げた。こんな時エリアヴィはちょっと、怖い。
「あなたも、子供を無理矢理連れてくるなんて、どうかしています。連れてくるだけならまだしも、腕に痣まで拵えて。これだから教会の品位は落ちたなんて言われるんです。……父に報告します」
最後に僕をちらりと見ると、エリヤヴィはそのまま部屋を出た。準司教は顔を真っ赤にしてうつむいていた。兵士は逆に紙のように白くして、呆然とエリヤヴィを見送っていた。
僕はせっかくもらったチャンスを無駄にしないように、立ち上がってドアに向かう。
「え、あと、失礼します!」
「あ、坊ちゃん!」
我に返った兵士の声を聞きながら、エリヤヴィの後を追った。
広場を少し進んだ所でエリヤヴィは眼鏡も掛けず僕を待っていてくれた。小走りに近寄る僕を見て、市場の方へ足を向ける。まだ昼の明るさには切り替わらない明灯に、僕はこっちのほうが手っ取り早いと眼鏡を掛けた。
「帰らなくて良いの?」
「いい。せっかく抜け出してきたんだ。ドクのとこへ行くだろ?」
ちらりほらりと家の窓に灯りがつき始めていた。そろそろ村が起き出す時間だ。市場へ入るあたりになってようやく足を弛めた。僕たちは並んで足を進める。
「あの子は? 一緒だとばかり思ってた」
「うん……見つからない場所に隠れてもらった」
ちらっと僕を見たようだった。水海の小屋の事は、エリヤヴィも知らない。
「本当なの、かな」
「……さぁね」
答えは至極そっけなかった。
「どこで仕入れたネタか知らないけど、迷惑だよ」
「うん」
眼鏡の中で明灯の白い丸が大きくなった。朝の時間になったのだろう。人間の都合とはお構いなしの太陽はもうだいぶ高くなっていて、早朝なんて言葉が似合わなかった。
「……いい天気だな」
「暑くなるね」
レベッカは一人で大丈夫だろうか。水辺だから気温はあまり上がらないと思うけど、ちゃんと水を飲んだりご飯を食べたりしているだろうか。少しだけドクの所で休んだら、朝一番で市場で買い物をして、水海に向かうつもりだった。村には戻ってこない方が良い。見つかったらどうなるか想像もできないけど、良い事じゃないってことだけは分かった。教会の目に届かないところ。……当分、あそこにいるしかないのだろうか。一日二日なら、食料を抱えていけばどうにかなる。もっと長くなるなら、畑を手入れしないといけない。
人気のない市場通りを渡りきり、通りを一本入る。まだ締まったままの診察室の裏手、ドクの家の窓からも明灯の光は漏れ出していた。そっとドアを叩けば、すぐに中から開けられた。鍵の音はしなかった。
「タルフ。大丈夫だったのか。教会の連中がいただろう」
「エリヤヴィに助けてもらったんだ」
眼鏡を押し上げ、大丈夫だと笑って見せた。明灯の下のドクの目はずいぶん落ち窪んでいた。寝ずに待っていてくれたのだろう。ちょっとだけ申し訳ないと思いながらも、うれしかった。
「レベッカは」
「……隠れてる」
長く溜めていた息を吐いてすとドアの前を退くと、火に掛けたままの鍋へ向きなおった。柔らかい良い香りが僕の元にまで届いて、ぐるぐるとお腹が鳴った。
「食べていくだろう。エリヤヴィも入りなさい」
「ぺこぺこだったんだ!」
「頂きます」
入って椅子に座るが早いか、スープの皿が目の前に置かれた。パンを取ってスプーンを取る。パンもスープも一緒に口へ運んだ。
「ゆっくり食べなさい。スープもパンも逃げんよ。……そうだ、パンはどうせ余ってる、持って行きなさい。水海じゃあ、ロクなものがないだろう」
スープもドクの声も、じんわり暖かかった。一口二口進んで、お腹のあたりがようやく落ち着いてくるとふと、気付いた。僕がスプーンを止めると、エリヤヴィの手も止まった。
「水海?」
声に出したのはエリヤヴィの方が早かった。僕は重くなってきたまぶたをどうにか持ち上げて、ドクを見た。
「……何で知ってるの?」
ほんの少し、ドクの目が大きくなった。自分のカップを持って椅子を立つ。かたんと椅子が鳴った。
「水海の小屋のこと、知ってるの?」
「……サムソンは何も言わなかったんだな」
「父、さん?」
瞬くのは僕の番だった。どうしてそこに父さんの名前が出てくるのか、見当も付かなかった。
お茶を煎れてゆっくりと振り向いたドクの姿が、なんだか歪んで見えた。聞きたいのに、まぶたがどんどん落ちてくる。体がほんわり暖かい……。
「それは、ドク達も……ドクとヒレルも」
目を開けようとすると気持ち悪くて頭も痛い。このまま目を閉じてしまえば、きっとずっと楽になれる。
「しとだっていうこと?」
エリヤヴィの声だけが暖かい闇に響いた。
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