少女

 ほとばしる飛沫を頭から浴びて、手を突っ込んでわしゃわしゃかき回した。水が通っていくたびに、べたべたが取れて軽くなっていく。

「いってーっ」

 そして同時に、容赦なく傷に染みた。傷だけでなくむき出しだった腕も頬も何だかぴりぴり痛い。落ち着いてみれば、見回しただけで傷と打ち身があちこちにできていた。多分見えない背中にも。

 良く戻ってこれたと思う。今になって手が重く足がだるい。すっかり乾いたはずの傷口も、血が噴き出す瞬間でも狙ってるみたいにずきずきする。

 血が付かないように丁寧に洗い落としてシャワーを止めた。熱でもあるみたいにほんのり温度を持った腕と、触るのもイヤな傷に気を付けて丁寧にタオルで水気をふき取って、洗いたての下着を身につけシャツをかぶる。湿ってべたついてすっかり重くなっていた衣服は、全部まとめて洗濯機に放り込んだ。

 洗面所を出て入り口を通りすぎ、廊下を突き当たりまで進めば診察室だった。廊下に灯りはなかった。両側に並ぶ病室は静まりかえっていて、診察室のドアから漏れてくる光とドクとエリヤヴィの話す声以外に、何もなかった。

「ドク、終わった」

 軽く叩いてドアを押し開ける。眩しくて思わず目を閉じた。

「……その辺に座ってろ」

 入ってきた僕をちらりと見てエリヤヴィの腕に向きなおると、包帯まきを再開した。固定用の棒のせいでエリヤヴィの腕は倍くらいの太さになっていた。僕は背もたれのない椅子を手で探して引き寄せた。それだけなのに背中も腕もきりきりした。

「どう?」

「あぁ。綺麗に……折れてるみたいだから……」

 さっき飲んだ痛み止めが効いてきているんだろう。ドクが言っていたように熱が出てきているのかもしれない。動く右手で目をこする様子は、かなりだるそうだった。

「ほい。終わりだ。……今日は泊まっていけ」

「でも」

「お前のうちには後で言っておいてやる。いいから」

「……はい」

 観念したようなエリヤヴィを見て満足そうに頷くと、ドクは自分専用の椅子を立った。ドアの前に陣取っていた僕は、慌てて立ち上がって椅子をどける。

「手伝う」

「いらん。けが人は大人しくしとけ」

 目の前でばたんとドアを閉めて行ってしまった。小さなガラスの向こうが明るくなる。ばたばたと動き回る豪快な足音が聞こえてきた。ドクは手伝わせたい時は、腕を引っ張ってでもつれていく。……だから、大人しく椅子に座り込んだ。

「けが人だって」

「……けが人だろ」

「もう、血もとまってるもん」

「動くと開くぞ」

「……ごめんね」

「何が」

「無理させたし」

 運ぶのは一人でした。さすがに手伝ってもらう気にはならなかったし、どうにかなった。どうにもならなかったのは、壁を超える時。無理をさせてしまったと思う。エリヤヴィはしょうがないなって顔をしただけだったけど。

「……そんな事無いよ。それより、俺の袋は」

 力のない様子だったけど、気にするなと笑ってくれた。僕もつられてちょっとだけ笑った。

「うん。ちゃんと持ってきた」

 シャワーに行く前に外した袋、掌ほどの小さな袋をエリヤヴィの右手に渡した。湿っていてべたべたしたままだった。エリヤヴィは構わず受け取って、大事そうに器用にベルトに引っかけた。

「汚れるよ」

「いいよ、別に」

「何でべたべたするんだろうね。水なのに」

 あの時は全然考えもしなかった。気付いたのは、ドクの家の扉を叩いた頃。時間は経っていたけど、他に思い当たる事もなかった。

「……しょっぱかった」

「そうだった?」

「汗が口に入ったみたいな……」

「……あぁっ! そっか! ……って、あれ全部汗?」

 押し流されるほども大量の汗。……考えただけで気持ちよくない。

「そうかも」

 くすくすエリヤヴィは笑う。僕も考えて、エリヤヴィをみて……おかしくなった。

「きっと、『光』の向こうには巨人がいるんだ。で、巨人がどたばたして汗をどばっとかいて、それが流れてきたんだ」

 『光』の向こうには恐ろしい生き物がいる。そんな事この歳になってまで本当だとは思わないけど、子供の頃には良く言われた。『イタズラすると光の怪物に喰われちゃうよ』と。

「向こう?」

「向こう! だってさ、エリヤヴィ、僕は確かに見たんだ! 見た事もない蒼い色があって、『光』が溢れていたんだ。もう少しで手が届いたのに!」

「タルフ」

「伝説はきっと……」

「タルフ!」

 エリヤヴィの笑顔は凍っていた。え、と思わず動きを止めた僕の前で、エリヤヴィはもう笑ってすらいなかった。

「俺は、見なかった」

「でも」

 かちゃんとドアの音がした。ドクに聞いてもらおうと思って振り返ると、思ってもみない人だった。もっとずっと若くて背が高い。よく知っている顔だった。……信じられなくて瞬きを繰り返した。

「なんだ? お化けでも見たのか?」

「ヒレル……」

 見上げるほどの身長は相変わらずで、すっかり伸びた髪が顔を半ばくらいまで覆っていた。よれよれのシャツに擦り切れかけた綿のパンツは……ちょっと昔を思い出させた。

「何しに来たんだ」

「里帰りに理由がいるかい?」

「エリヤヴィ、ヒレル……」

 かみつきそうなエリヤヴィに口元にうっすら笑みを浮かべていた。ヒレルも多分エリヤヴィの方をじっと見ていて、僕は二人の顔を交互に見るしかできなかった。

「そう、『義兄さん』に向かって怖い顔するなよ」

「……姉さんを殺しておいて、義兄貴面するな! 葬式以来寄り付きもしなかったクセに!」

「忙しかったんだよ。これでも一応、研究所勤めだからね。タルフ、ドクは? こっちにいるんだろ?」

「エリヤ、あれは……」

 エリヤヴィの姉レンジェルメニは手術の失敗で死んだのだと聞いた。お腹の子供と一緒に。ヒレルのせいじゃない。何があったか僕には分からなかったけど、事故だったと。

 思わず口を開いた僕を遮ったのは、当のヒレルだった。大きな手が目の前に突き出された。上目遣いに見上げてみれば、ただ薄く笑っている。

「タルフ、ドクは?」

「……いま、ベッドを……」

「折れてるのか。熱と鎮痛剤と、場合によっては、睡眠薬ってとこか。……俺もその辺のベッドを借りるか」

 ヒレルは診療台にとん、と腰掛けた。……逆にエリヤヴィは立ち上がると、すがるようにドクの椅子の背もたれを掴む。

「エリヤヴィ、危ないよ」

「……帰る」

「え、だって……」

「大人しく泊まって行けよ。そんな足元で危ないだろ?」

 言葉は心配しているのに、口元はにやついたままだった。手を貸そうともしない。

 昔から、ではあったけど。

「帰る」

 一度だけヒレルを凝視したエリヤヴィは勢いをつけるように背もたれを押して手を離した。慌てた僕の手も払って今度はドアの取っ手にすがりつく。止める間もなくドアを開けた。

「エリヤ、エリヤヴィ、待って!」

 もう日が落ちてずいぶん経つ。夜間は明灯も光量を落とされているし、眼鏡をかけても何も見えない。元気ならそれでも慣れた道だけど、この様子では。

 廊下は開けっ放しのドアから漏れる光だけで、闇はかえって深く見えた。僕より頭一つ高いエリヤヴィの影は壁に寄りかかるように進んでいた。

「帰るくらい、一人で平気だ」

「平気じゃないよ」

 僕では肩を貸すにも不足だった。強引に取った腕が僕の肩の上で……余る。

 のっそり光の中から出てきた大きな影が、救い主に見えた。

「ヒレルか」

「ドク」

「ごめんなさい。俺、帰ります」

「……しょうがないな。送っていく。……手当するからちょっと待ってろ」

 僕が一歩引くと、代わりにエリヤヴィの腕を取った。よっと小さくかけ声をかけて、すくい上げるようにそのまま足を抱え上げる。

「……すみません」

 ぽつりと呟くような声に、ドクはただ、頷いたようだった。

「いってらっしゃい」

 二人が闇の向こうに見えなくなるまで見送って診察室に戻った。ヒレルは薄笑いを浮かべたまま、同じ姿勢でそこにいた。

 僕は同じ椅子を引き寄せて座った。……見上げると溜息が出る。

「……何でわざわざ挑発するようなことを言うのさ」

「何もしてないぜ?」

 僕だってそれは分かってるつもりだった。ヒレルも分かってて『普通に』しているのも。きっと多分、何故だかなんて分からないけれど、嫌われたままでいるつもりなのも。だから結局僕には、溜息をつくしかできなかった。

「……で、どうしたの、急に」

 一年前。安置場へ運ばれたレンジェルメニを見送って以来、僕にも、ドクにも連絡一つ寄越さなかった。その間に僕は学校を卒業、ドクの家を出て一人暮らしを始めた。ぴょんと一緒に、だったけど。

「弟分達の顔を見たくなったんだ。ちょーっと見ない間に大きくなったな」

 ぽんぽんと頭で手のひらが踊る。にっと、口元が笑った。当然、信じられない。

「なら、連絡くらいするでしょ?」

「急に見たくなったんだ。わざわざ単車で駆けつけたんだから、もっといたわってくれよ」

「……何かあったの?」

 ヒレルの暮らす街は聖地の反対側だ。夜、眼鏡も効かない時間にすることじゃない。

「……お前らなら、知ってると思ってな」

「え?」

「聖地で何があった?」

「あ……」

 相変わらず口元は笑っていたけど、髪の向こうの目は真剣だった。


 すっかり冷えた残り僅かのお茶をすするように一口飲んだ。ヒレルは空になったカップを片手でもてあそびながら、多分、何かを考えていた。ヒレルは学者の端くれで、エリヤヴィが通う上級学校もきちんと卒業していた。きっと、僕には思いもつかない事を考えているんだろう。

「でも、エリヤヴィは見てないって言うんだ」

「肉眼で?」

「眼鏡かけてなかったもん。聖地の中だし」

「タルフが『瓦礫山』の上で何かしていたとは、言ってたな」

 ドクは窓辺ですっかり短くなったタバコを惜しそうに吸い込んだ。じっくり吸って、ゆっくりはき出す。窓の外に。白い煙がほんの少し漂って、冷たい夜の風に攫われて消えた。

「ものすごく眩しくて、それ以外見えなかったとさ」

「絶対、光の中に何かあったんだ」

「はいはい。信じるから」

「嘘だっ」

 やっぱりヒレルの口元はにやけていて、

「で、あの子は?」

 奥の扉をあごで示した。

 奥の扉の向こう側、昔の僕の部屋には目を覚まさないまま女の子が眠っていた。病院には運ばなかったのはドクの指示だった。僕は病院から三人で戻ってきて、初めてこの家に鍵があったことを知った。

「分からない。『山』から降りたところで倒れてたんだ」

「……他は?」

「他?」

「ヒレル……茶を入れてくれ」

 ばたんと音をたてて窓がしまった。言われてヒレルはさほど面倒でもなさそうに立ち上がった。ついでに差し出した僕の湯飲みも受け取って、薬缶を取りに流しへ向かう。

「水で覚えてる事は。何処にも水なんてないだろう」

 窓辺を離れてテーブルに戻って来た。ずっと使っている椅子が、そうだそうだというようにぎしぎしと音をたてた。

「わかんない。いきなりだったんだ。乾いたらべたべたしたし、なんか匂う気がするし。最悪だよ」

「べたつくし、匂う、ね」

 しゅんしゅんとお湯が沸く。呟くようにヒレルが言った。

「あ、ドク、服、洗濯機に放り込んで来ちゃった。明日洗って」

「楽する事ばかり覚えたな」

 ふわんと良い香りが漂ってきた。手を出したけど、湯気の出ているカップは二つだった。

「僕の分はー?」

「お前はもう寝ろ。明日も仕事だろ」

「えーっ」

 しっしとヒレルは手を振る。僕は犬じゃない。けど、もう眠いのも本当だった。もう僕は、のんきな学生じゃないし、明日も早い。

「泊まってけ。奥の部屋のベッドを使って良い」

「え、だって」

 奥の部屋はドクの部屋だ。大きなベッドだったけど、僕とドクが並んで寝るにはちょっと狭い。

「この時間に帰るのは危ないだろう。竜視も効かんしな。私はヒレルと話がある」

「……わかった。おやすみなさい」

 少しだけ、空気がひんやりした気がして、聞きたいとは言い出せなかった。僕の入れない大人の話だと思った。昔から時々あった。のけ者にされた気がするけれど、聞いてはいけない気もしていた。

「ね、ドク、ちょっとだけ見ていっても良いよね?」

「早く寝ろよ」

「うん」

 おやすみとドクが少しだけ笑い、ヒレルがひらひら手を振った。僕まるで追い出されるような気がしながら、僕の部屋のドアを開けた。

 ぱたんと後手でドアを閉める。女の子はやんわりと灯る明灯の下ですやすやと眠っていた。

 ほんのり灯りに照らされた頬は、少し色が濃い。肩から、規則正しく上下する胸のあたりまで目をやって、何だか気恥ずかしくなった。ふっくらと盛り上がった毛布はベッドの端まで続いていて、僕より少し背が高いのだと改めて思った。夢中だったけど思い出せば、少し重かったかも知れない。けど、太ってるとかそういう感じはしなかった。すべやかな腕に、堅くもなくつぶれもせず弾力のある脚、そして何より背にあたる感触。

 女の子はみんな触れば折れるようなものだと思っていた。僕が知ってる女の子なんて、そんなに数はいないけど、皆白くて細くて非力だった。ハウスの女の人たちは僕よりずっとたくましかったけど……この子はそういうのとは違う気がした。

 そう多分……少しだけ、ヒレルやドクに似ている。顔とか、そういうのじゃない。少しだけ濃い膚の色や、軽そうに見える少し薄い髪の色や……どことなく雰囲気が。

 この子の瞳は何色なんだろう。ヒレルは緑色をしている。ドクは明るい茶だ。ふたりともあまり見ない色をしていた。この子は、何色をしているんだろう。そっとのぞき込んでみた。もちろんまぶたを通して見える訳なんてないけど。

 僕が落とした影の中で、ふと……まぶたが開いた。

「Chi?」

「えっ!?」

「Dove e qui?」

「え、えと、何?」

 ぱっと退いた僕の前で、ゆっくり女の子は起きあがった。

 明灯の下で、見事な蒼い瞳だった。

異言語


 今日こそはと頑張った。鐘の音と共にハウスを飛び出すと、カバンを担いでぴょんを乗せてドクの診療所へ真っ直ぐ向かう。まだ日が沈む時間でもないというのに空は眼鏡越しでも薄暗くて、カッパを着てくれば良かったと思うまでにそう時間はかからなかった。

 ぽつんと昨日から火照ったままの頬に冷たい雫が当たれば、後は伺うまでもなかった。ぴょんは一度身震いして雫をはじき飛ばしたけど、後はもう諦めたように動かなかった。雨はちょっとほこりっぽい臭いがして、やっぱりちょっとほこりっぽい味がするけど、汗のようなしょっぱさもなく、べたべたする感じもなかった。ただの、雨だった。

 ドクの家はうちから市場通りへ向かう途中にあった。ハウスの並ぶ道をすぎて家が集まり始める辺りで、市場通りの始まりでもあった。ハウスの中の煌々とした明灯が途切れると、今度は街灯の明かりが始まる。僕はぴょんを肩に乗せたままハウスの裏の細道を通って、診療所の裏手にある家に向かった。

 ずぶぬれになって辿り着いた玄関は、眼鏡の中で暗く沈んで見えた。すぐ横の窓は薄く白っぽく見えたけど、眼鏡を押し上げてみれば、ただ暗いだけだった。窓を見ながら回した取っ手はかちんという音でとまり、それ以上は回らなかった。もちろん、押しても引いてもカチカチ引っかかる音がするばかりだ。鍵がかかっていた。

「……おかしいなぁ」

 窓の中、カーテンの向こうは見通せなかったけど、誰かいるはずだった。なのに鍵が掛かっている。昨日はまだ、何となく分かった。女の子一人寝ていたのだから。今あの子は……レベッカと名乗ったらしいあの子は、また眠っているのだろうか。

 背後の診療所へ振り返った。ドクに聞くか、鍵を借りるかしようかと考える。けれど、結局僕はどちらも選ばなかった。通りを抜ける細道へと足を向ける。

 建物が多いこのあたりは所々に街灯が置かれていて、眼鏡がなくても困らない。……無人に見えるんだろうと、なんとなく思った。


 建物の壁と壁の隙間を駆け抜ける。時々壁も乗り越える。混み合う通りを抜けるよりは少しこっちの方が楽だったし、明灯が少ないからぴょんのためにも良いと思っていた。それに、人目につきにくい。

 教会から通りを挟んですぐ横がエリヤヴィの家だった。家の裏手には明灯が灯る庭園があって、さらに奥まで進めば明灯すらもなくなる。そのあたりになると木々が植わり、黒々とした壁が間近く見えるほどになる。

 敷地にめぐらされた柵をひょいと越え、木々の隙間をすり抜けて、いつものルートで侵入した。木々の奥、庭園の灯りも届かないあたりに窓が一つぽつんとあった。窓から漏れる明かりが届く届かないにかかわらず、数え切れない鉢植えが置かれている。足の踏み場がないとは僕の散らかった足の踏み場しかない場所じゃなく、きっとこう言うことをいうの違いない。鉢の隙間の地面をさがしつつ慎重に窓に近寄って、顔が届くかどうかぎりぎりのガラス張りの窓をこぶしでこつこつたたいた。

 予想されていたんだろう。窓はすぐに開いた。白いぶっとい包帯がまず出てきて、その上に元気そうな顔が現れた。部屋の明灯に眼鏡を押し上げて僕もちょっと笑った。

「元気そうじゃん」

「元気じゃないのは腕だけだよ。おかげで学校まで休めたし」

 歴史の授業はいつも寝ちゃうんだと、いたずらっぽく続けた。

「成績下がるよ。はい、お見舞い」

「ちょっとぐらい下がったって、誰にも追い付かれるもんか。……わ、さんきゅっ!」

 背負った袋を渡すと、得意そうに言ってうれしそうに笑った。わざわざもらってきた介がある。

 袋の中身はハウスで収穫するときに出た野菜くずだった。出荷できない、食べる事もためらわれるような野菜は生ごみ処理にまわされる。生ごみは処理されて、新しい土と肥料になる。エリヤヴィも野菜の使い方は同じだった。自分で作った処理器で、新しい鉢植えの土に生まれ変わる。

「どうだった?」

 ちょっと黒い壁に目をやって、袋を中に引っ張り込む。僕は首を振った。

「これからだよ」

「行ってきたかと思った」

「先にドクの家に行って来たんだ」

「ドクの家?」

 白い包帯の腕越しにエリヤヴィの薄い灰色の瞳が見えた。不思議そうに丸く見開き、僕を見下ろしていた。

「うん。あの子……レベッカが、目を覚ましたんだ。昨日の夜」

「本当?」

「遅くて、あんまり話させてもらえなくて、だから」

「どうだった?」

 さらにエリヤヴィは身を乗り出してきた。雨が白い包帯にぽつぽつ染みを作り始める。明灯の光を遮った影本体を見上げて、首を振る。

「会えなかった。あとでまた行こうと思って」

「そっか」

 大げさに溜息をついて、窓から少し身を引いた。何を考えているんだか、窓枠の向こうで唇に右手の指を当てている。

「後で一緒に行く?」

「……いや。……そのうちどうせに行くし、傘さすの大変だしね」

 多分、ヒレルのことを気にしている。一瞬堅くなった表情の後は、面倒くさそうに重そうに腕を振ってみせた。

 僕はただ、頷いた。

「分かった。ドクに言っておくね」

「よろしく」

「じゃ、そろそろ行くよ」

「気を付けてな。これ、ありがと」

「エリヤヴィこそ、お大事に」

 足元に気を付けながら、ひょいと窓を離れた。

 窓の中を人型にくりぬいたような影はひらひら元気な右手を振っていた。眼鏡をかけながら振り返して、木々の隙間へ走り出す。

 エリヤヴィの家からだと壁は目と鼻の先になる。眼鏡をちょっと押し上げてねじ曲げるように見上げれば、壁の上の空は今日もまだいつもより明るい気がした。

 足元でさくさく草のたてる音に混じって、ぴちゃぴちゃ土まで音を立て始めていた。この雨だから、『穴』は川になっているかもしれない。登りにくいかなとか思いつつ、もう泥水をかぶったって大して変わらないと気付いた。どうせ、僕も服もぴょんも、みんなまとめて洗濯だ。

 窪地まで辿り着けば、案の定小さな水たまりと化していた。思わず漏れる溜息と共に窪地へ降り立ち、水がちらちら流れ出している穴のふちをつかんで、体を一息に持ち上げた。ずきりと腕の傷が痛んだけど、今日一日でだいぶ慣れてさほど気にもならなかった。そのまま進めばやっぱり壁の中は明るかった。ひょいと立ち上がって穴のふちに手をかけて、あわててその手を引っ込めた。なんだか様子が違う気がして、今度はそろりと首だけ出した。

 ばたばた音が聞こえてくる。話し声。こつこつ石を踏む値段ばっかり良い靴の硬いかかとが立てる音。

 いつも感じる耳が痛いほどの、こんな雨の日なら土に草に石に水が弾ける音まで聞き分けられそうな程の静寂は、今はどこにも感じられなかった。

 『穴』から続く通路を気にしながら、なるべく音をたてないようにそっと身体を引き上げた。壁の中外に構わず降り続ける雨の音が、僕のたてる僅かな音すら消してくれたようだった。『穴』を出て、通路に近寄る。このあたりは壁の中の端だから、気配はまだずっと遠いようだった。

 袋を持って帰りたいというほんの少しの気持ちと、それよりずっと大きい好奇心で僕は通路を進み始めた。磨かれる事のない石なら、こんな雨でもさほど滑らないし、足音を消してくれる。誰かに見つかってしまわなければ大丈夫だろう。

 見通しの良い場所に出るたびに周囲を気にしながらそろそろ進む。いつもの倍以上の時間をかけて、中心へ向かう。

 壁の低い場所に出て、あぁやっぱりと立ち止まった。裾の長い上着を着た影がいくつも、『瓦礫山』の上、光に届きそうな場所に立っていた。服の細かい感じは見えない。色も模様も逆光で沈んでしまったその中だ。けれど僕は確信できた。こんな場所で堂々と何かをしているとしたら、それは教会の関係者と教会派の学者たちしかいない。

 『光』を遮ってしまう高い壁の影の中で、僕は息を整えた。もう少し近づいてみようと思った。すぐにかけられるように額に押し上げたままの眼鏡を確認し、首筋にひっついているぴょんの背中をそっと撫でた。

 教会の連中の感心は『瓦礫山』と『光』の方にばかりあって、その他の場所を気にしている様子もなかった。誰がいるとも思っていないのだろう。好都合だった。

 誰もいないのを確認して通路を進む。瓦礫を踏んで音をたてないように気を付ける。『庭園』を見通す場所まで来て、再び足を止めた。

 壁の隙間を通して『庭園』と、崩れ去った壁の先の『瓦礫山』を見て取れた。こんなに近くまで来ても、気付かれた様子はない。山の下の人たちも『瓦礫山』を見上げ、叫び、指示し、そうでなければ、何か手のひらの上に乗せたものを見ながらあちこち動き回っている。初等教育で先生が見せてくれた明灯の明るさを計る機械のようだった。

 動き回る一人が『庭園』の方まで降りてきた。小さな瓦礫の階段を下り、すっかり泥沼と化した『庭園』に降り立った。ふらふらと手のひらに視線を落としながら、歩き回る。溝の下を、壁際を、そして、僕のすぐ下を……。

 ここまでくれば、服の意匠は明らかだった。今は少し汚れてしまっていたけれど、真白いみっちりと重そうな地に、襟口と肩から袖までと裾に入れられた銀糸蒼糸の刺繍。誰もが知っている制服。教会に所属する学者たちが着る制服だった。

 こつん。手元に落とした男の足が何かに当たって、男は初めて視線を逸らした。足元の何かに、僕も視線を向けた。

「あ」

「誰かいるのか?」

 しまったと思った時にはもう、遅かった。男の視線が確かに僕の方を見ていた。僕は壁を手で勢いよく押すと、そのまま踵を返した。

 不安定な瓦礫の階段を踏み外して崩す音にも、振り返らない。見つかったら叱られるのは確実だった。僕は壁の隙間から覗いていたのだし、顔を見られた筈はない。だから、逃げれば、逃げ切れればいいのだ。……思う余裕もなかったかも知れない。

 背後の音を気にしながら、石だらけの通りを飛び出した。なるべく邪魔な石の多い場所を、僕を隠してくれる影を選びながらひた走る。追いつかれる気配もなく、穴の中に滑り込んで腰を落として、一息つく間もなく滑るように『外』へ出た。ざんとをたててまともに踏み込んだ水たまりに、派手なしぶきが上がった。雨は相変わらずばらばらと周囲の草に降り注いでいた。


 眼鏡をかけたままどんどんと扉を叩いた。返事を聞く前に取っ手を回す。やっぱり鍵が掛かっている。頭を振って落ちてくる水をはねとばして、眼鏡を押し上げた。窓は今度は、ほんのり明るい。

 かちんと、小さな音がして、ほんの少しだけドアが開いた。明灯の光が細く漏れだし、見知った大きな影が部屋の中を精一杯見せないように、僕の視線を通せんぼした。

「誰だ……あぁ、タルフ。遅かったな」

 今度こそ、ドクは僕のために扉を大きく開けてくれた。ぴょんがさっと飛び降りたのを感じながらドクの脇をすり抜けるように入り込んだ僕は、緑と青の鮮やかな瞳に迎えられた。呆れたようなヒレルと、カップを持ったまま不安そうに眉根を寄せた女の子……レベッカだった。

「なんで、鍵なんて、かけるんだよ」

 口に出してみて驚いた。気付けば足がもつれてくる。びしょびしょのまま床に座り込んだ僕に、バスタオルが降ってきた。

 かちんと後で音がした。ドクがまた、鍵をかけたのだ。

「何息切らしてんだ」

「……だって……」

 聖地から走り通しだった。見つかったら叱られる。それだけの筈なのに、なんだか立ち止まれなくて、泥だらけの姿を誰にも見られてはいけない気がして、村の外を走り通した。今になって手が震える。

「『瓦礫山』に沢山人がいたんだ。みんな、教会の研究所の服を着ていて」

「お前、行ったのかよ」

「だって、袋とか起きっぱなしにしちゃったし、気になったし」

「そんなのいつだって良いだろ」

「見つかっちゃったかも、しれなくて」

「おい」

 びくっと知らず肩が震えた。怒った証拠の低い声に、僕はぎゅっと目を閉じた。

 とんと軽い音がして、暖かい香りが漂ってきた。僕はそろそろと目を開けた。柔らかく湯気の立つスープがテーブルの上に置かれていた。

「いきなりそれはないだろう。レベッカも怯えとる。……私たちも聖地の様子が知りたかったんだ。ゆっくり何があったか、聞かせてくれるか」

 そろそろと目を上げれば、ヒレルは気まずそうに目を逸らした。レベッカはヒレルと僕とドクを交互に見ていた。ドクはスプーンを僕に持たせた。

 そっとスープを一口掬う。カタマリがすっと喉の奥を通って、胃に落ちていくのが分かった。暖かかった。

「What did he do?」

「……It only failed」

 レベッカの言葉に、ヒレルがぼそっと返していた。どちらも知らない言葉だった。そっとドクを伺えば、にっと笑われ、がしがし頭を揺さぶるようにタオルと一緒に撫でられた。

 古代語だと、ドクは言っていた。初等学校には古代語の授業はなく、僕には何を話しているのかさっぱり分からなかった。

「But,seems cry」

「let things go」

 ちらりと青い目と合った。もう一口スープを飲んでようやく肩の力が抜けた。僕は少しずつ話し始めた。


 ぽつぽつ話す僕の声と、ぼそぼそレベッカに伝えるドクの声、そして、雨と風の音。レベッカは僕とドクを見て、時々首をかしげながらうんうんと頷いていた。

 最初呆れたような顔をしていたヒレルは、いつの間にか腕を組んで目を閉じていた。寝ているようにも見えるけどそれは考え込む時のクセで、ぱっと目を開けるのはいつも何かを決めた時だと、知っていた。

「俺、行くわ」

 ぱっと目を開けたと思えば、もう、ヒレルは立ち上がっていた。上着を取り、単車の鍵を確かめる。

「日が落ちるよ。灯りもないのに」

「来れたんだから、帰れるさ。じゃな」

 言うが早いか足はもうドアに向かっている。取っ手に手をかけ鍵を外す。

「……気を付けろ」

「ドク?」

 思ったよりも厳しい雰囲気にドクの顔を覗いてみれば、もうドクはヒレルから目を離して大鍋に向かおうとしていた。慌ててヒレルに戻ってみれば、こちらはもうドアを薄く開けていた。雨の音が強くなり、少し冷えた風がひゅうと一筋入り込む。ちらりと見ると、レベッカはきょとんとドクとヒレルを交互に見ていた。

「じゃな。Rebecca,learn language」

「……Si」

 鍵を外すとあっという間にヒレルは雨の中に消えていった。しばらくして遠くてエンジンの音が一つ響いて、すぐに遠ざかっていった。

 僕にはおかわりを、レベッカとドク自身には新しいカップで、スープを注いでくれた。鍵をかけ直すと、バケットを取り出して僕たちの前に置く。もう、夕飯の時間だった。

「食べてけ。どうせ、野菜しかないだろ」

「うん。ありがと」

 改めてスープに向かう。バケットのパンを一つとって、スープに浸しながらかじった。パンはふかふか柔らかく、どこか暖かく、なにより香ばしかった。

 ちらりとレベッカを見やった。ドクに促されてスプーンを取ると、一口スープを口へ運ぶ。ふっと頬が緩んだように見えた。視線に気付いたのか、ふと目が合った。僕は慌ててスープに目を落とした。視界の隅で、レベッカの細い指はパンを一切れそっと取ると、ちぎって口元へ運んだ。

「Rebecca,delicious」

「Grazie」

 ふと、レベッカは微笑んだ。明灯の下だとはっきり分かる収穫直前の小麦のような頬が、ほんのり赤くなった。蒼い瞳が細められ、ドクを見上げている。

「……何て言ったの?」

 ドクの袖を引っ張った。レベッカはまたスープとパンに目を戻していた。ドクはそっと内緒話でもするように教えてくれた。

「美味しいって言ったんだ。そしたら、ありがとうって。……パンはレベッカが焼いたんだよ」

「……ほんとう? レベッカ、スゴイや。美味しいよ、このパン」

 僕の言葉が分かったわけじゃないだろう。けれど、レベッカは僕を見て、少し恥ずかしそうに、得意そうに、にこっと笑った。

 なんだか、僕も嬉しかった。

「タルフ、食事が終わったら帰りなさい。レベッカを連れて」

「うん」

 ドクが診療に出ている間に、焼いたんだろう。……母さんがまだ生きている時に食べたくらい、それ以上に、暖かいパンは美味しくて、その香ばしさが移ったようにスープまで……美味しかった。

「Goes and does,with Talf」

「Me?」

「Yeah」

 名前を呼ばれた気がして、顔を上げた。青い瞳を零しそうにしながら、レベッカが僕を見てた。

「どうしたの?」

「いやなに、少し驚いたんだろ」

「だから……え?」

「タルフの家なら静かだし、ベッドはどうにかなるだろう。毛布もあるし」

 レベッカと一緒にと、ようやく、意味が届いた。

 それはレベッカだって焦る。僕は古代語なんてしゃべれないし、レベッカも……どうしてなのかはさっぱり分からなかったけど、古代語以外分からないらしかった。言葉も通じない僕たちがあんな狭い……小屋といっても差し支えないくらいの家で一晩すごせだなんて。レベッカだって困るだろうし、僕だって困る。僕だって、その、一応、男だし、レベッカは女の子だ。

「ちょっと待ってよ、僕の家なんて狭いし、汚いし、暗いし、あんな外れだし……」

「うちは何かとせわしいからな。夜は日が落ちてから家に連れてくるように。言葉を覚えなきゃならん。昼間は私は相手してやれないしな……そうだ、仕事はしばらく休ませてもらいなさい。私の手伝いをするとでも言っておけば良いだろう」

「んな、勝手に言われたって……」

「収穫もそろそろ終わりだろう? タルフ一人抜けたって大したことない。それより、レベッカを……そうだな、水海に連れて行ったり、夕日を見に行ったり、連れて行ってやると言い。眼鏡もヒレルの置いていったのがあるしな」

「ドク……」

 さらっと言われた。結構気にしていたのに。恨めしげに見上げてみても、ドクは僕なんて見ていなかった。

「……そうだ、今、私が言ってこよう。カラエクだったな」

「え、あ、僕が行くっ。そんなドクが行くだなんてっ」

「いいから、お前はここにいろ。私が出たら鍵を締めて、私が帰るまで開けるんじゃないぞ」

 ドクはもう、上着に袖を通していた。僕が立とうとすると、僕の肩を椅子の背もたれに押しつけた。鍵を外し、戸を開ける。

「ドクーっ」

 僕の非難なんて聞きもしなかった。一瞬追いかけようと思い取っ手に手をかけた。けれど、ちょっとだけ振り返ったレベッカの蒼い目をみて、鍵をかけた。

 もうすぐ成人の歳になるというのに、親代わりのドクに出て行かれるのは恥ずかしかったけど、一人前の男として……不安そうな女の子を置いていくのも、違うと思った。

「か、勝手なんだよね。いっつも大人ってさ」

 僕の言う事を理解できてるとは思えなかったけど、言わずにはいられなかった。音をたてて椅子に座れば、もうあとは、雨の音しか聞こえない。

「もう甘えるなとか、一人立ちしなくちゃなとか言っておいてさ、仕事だってようやく慣れてきたんだ。まだトマト落っことすし、キュウリ折ったりするけど、少ないけどお給料だってもらったんだ。なのに仕事するなって、しかも、レ……レベッカがいるから、なんて、な、何か変じゃない? さっぱりわかんないよ。ヒレルだってさ、この一年こんな村に何て寄りつきもしなかったのに、いきなり帰ってくるしさ、エリヤの家に挨拶にも行かないでさ、わけわかんないよ」

 言う間、僕は板目とか、使い古した皿のちょこっとだけ欠けた角とか、パンの断面のキメの細かさとか、スープに浮いた溶けかけたニンジンとか、そういうものばかりを目で追っていた。なんとなく、レベッカの視線を感じながら。

「Talf,Fasti……たるふ、めい、わく?」

「そんなんじゃないよ、僕は……え?」

 一生懸命、レベッカは僕たちの言葉を紡いだ。きっと、覚え立ての言葉を。思い出しながら。そして、ぶんぶんと首をふった僕を見て、ふっと不安そうな表情が緩んだ。

「あり……がと」

 にこっと、僕へ、笑いかけた。

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