暗闇こそ僕らの故郷

森村直也

聖地

 ――カラン、コロン……。

 教会が鳴らす鐘の音を泣きたい気持ちで聞いた。足元にはまだ三つも箱が残っていて、目の前の葉陰にはぴかぴか明灯を反射するトマトがまだたくさんついていた。

「はぁ、終わったわ」

「お疲れさん」

「お先に」

 ぽんと大きな手で肩が叩かれた。後で同じようにトマトを収穫していたアバさんだった。

「まだ残ってるじゃない。今日も行くの? ……おばちゃん、感心しないわ」

 首に巻いたタオルで汗を拭いながら、シワの出始めた目元を歪めてちょっと困った顔をしてみせる。足元の箱には粒のそろった宝石のようなトマトがつぶれることなく並んでいた。

「でも、僕たちの役目だから」

 トマトを箱に収めて、向きなおる。胸元の黒い星形のペンダントは教会派の証。僕たちのしていることが面白くないんだろう。教会派の人たちの言いたい事も分かる。でも僕は、必要だと思っていた。

「……いつか魔物に食べられてしまうわよ?」

「アバ、終わったのか?」

 まだ文句を言いたそうだったアバさんは、仕方がないという顔に変わって箱をよいせと持ち上げた。ふらつくこともなく、入り口の方へ向きなおる。

「あいよ! ……ほどほどにおしよ」

「アバさん、お疲れさまです」

 悠長に手を止めている時間はなかった。後ろ姿を見送って、思わず漏れる溜息と共に収穫作業を再開する。潰さないように気を付けてヘタを切る。落っことしたりしないように箱に詰める。重ならないように平べったく横にばかり広い箱がいっぱいになったら、入り口脇の集積所まで運ぶ。それをあと二回、繰り返す。

「ゆっくりでいいぞ。潰すなよ」

「はい」

 一昨日、僕は箱を落とした。通路で足をもつれさせた。熟れきる間近のトマトがいくつもつぶれた。

 僕だってそう何度も潰したいわけじゃない。箱を置いてできる限り急いで戻る。できる限り丁寧にできる限りのスピードで、残りのトマトを収穫する。

 ふらふらになりそうな足元に気をつけて、ようやく最後の箱を運び出した。汗だくになって、半刻も時間を過ぎてしまった。けれど、そろった鮮やかなトマトの赤が『お疲れさま』と言っているようだった。

 育てている時収穫している時には厄介なものでも、こうして並んでいれば……まだたった一月だったけど、苦労が全部吹っ飛んだような気がする。誇らしい。僕の初めての収穫物。まだ手伝い程度しかできてはいないけれど、それでも僕が作ったトマト。

「お疲れさん。……また、頼めるか?」

「はい。大丈夫です」

 慎重に聞いてきたカラエクさんに笑って返した。頼むなら少し早めに帰してくれればいいのにと、少しだけ思いながら。

「じゃぁ、頼むよ。……肥料の配給もあるかもしれないしな」

「配給?」

「タルフは初めてだったか? 聖地が明るくなるとな、教会が肥料を配る事があるんだ……ほい、もっていけ」

「わ……ありがとうございます!」

 カラエクさんが差し出してきた紙袋を、ありがたく受け取った。お給料とは別に、よくつぶれたトマトや、折れたキュウリや、形の変なニンジンをくれる。ハウスの中で一番年下の僕を心配してくれてるのが分かる。情けないけど、ありがたかった。僕のお給料はまだまだ安くて、やっぱり厳しかったから。

「しっかり喰って、頼むぞ。アバの言う事は気にするな」

「……はい! 失礼しますっ」

 ぽんぽんと頭に手が置かれる。子供扱いも良いところだった。けれど僕は実際子供だったし、元気づけてくれているつもりなのも分かったから、何も言わずに頭を下げた。袋を潰さないように気を付けて明るいハウスを後にする。市場通りへ続く道を横断すると明灯の届かない草むらに向かった。袋を潰さないよう気を付けながら、腰に吊した竜視眼鏡を頭に回す。

 僕のうちも村の外れで、道に沿うより草むらを突っ切った方が断然早かった。市場に用のない時はいつもそうしていて、遅刻確実な今は市場に寄ってるヒマなんてなかった。

 ゴーグル型の眼鏡をかけて、目を開ける。明灯の光が何処かへ消え、代わりに最初に見えるのは、白。世界を覆う白っぽい色。明灯がなければ何も見えない世界に光が生まれ、色が付く。淡い灰水色の空。風にそよぐ草色の堅い草。日が暮れかかった今は、地平線が少し赤っぽく見える。

 一日何度も味わう感覚だったけど、僕はこの瞬間が好きだった。


 ざりざりと音をたてる草原を駆け抜けると、村の本当のはじっこにくたびれた小屋が見えてくる。大きな嵐が来たら吹っ飛んでしまいそうだけど、幸い今日まで壊れた事はない。僕の小さな住処だった。体当たりしたら吹っ飛んでしまいそうな扉を引き開けて、薄暗い部屋に入っていく。やっぱり西にも窓が欲しい。

「ただいま!」

 ドアを入って一歩のテーブルに紙袋を置いた。椅子にかけっぱなしの袖無しシャツを引っかけて、ドアの裏にかけたままの土袋を取る。

 ……あれ? ついでにテーブルの下を覗いてみた。

「ぴょんー?」

 ぴょんがいない。大抵夕方にはこの辺で寝てるのに。ご飯でも食べているんだろうか。けど、のんびりと探している時間もない。急いで部屋を出て裏手に回る。立てかけた板の下から台車を引っ張り出して、土袋を引っかけた。

 西の空に赤が増えてる。完全に日が落ちたら、眼鏡があっても何も見えない。急がなくては。

「ぴょん、行っちゃうよー」

 チチチ。台車の奥から薄緑の毛玉が飛び出してきた。毛玉はとことこ駆け寄ると一気に足を登って、肩まで上がる。毛玉からぴょこんと突き出た耳とそこだけ毛が短い鼻面を僕の頬に押しつけた。ふかふかした感触はいつ触っても気持ちいい。少しだけ匂う金臭さは堅い草がつぶれたもので、食事中だったみたいだ。

 ぴょんはどこにでもいる小さい動物、ラディグだった。父さん母さんが生きてる頃に生まれたてで落ちていたところを拾って以来の僕の家族だった。ぴょんの家族がどうしているのか僕は知らない。ただ、ぴょんにとっても多分僕だけが家族だった。

「もう良い? じゃ、行こう。エリヤヴィが待ちくたびれてる」

 ぴょんを肩に乗せたまま、台車を押して走り出す。ちくっとした感触は、半袖の薄いシャツを通して感じるぴょんのツメ。振り落とされないようにする、ぴょんの健気な努力だ。

 少しだけ迷って、結局市場通りを目指した。遠くに見える明灯は、眼鏡の中だと白い点。点が集まったその奥の市場を突っ切った先が待ち合わせ場所だった。

 うちに続くだけの獣道を突っ切って、喧噪の中に飛び込んだ。市場通りはハウスの中のように明るい。所々に設置された明灯に加え、所狭しと並んだ店の軒先にも例外なく明灯がある。今日最後の売り上げに、どの店も必死だ。

 光があたってぴょんは少し身じろぎした。鼻先のちょっと冷たい感触が、後の方に動いていく。ごめんねと僕は口の中で呟いた。

 村の中では眼鏡は要らない。通りを外れても家々の軒先に必ず明灯があったから、眼鏡がなくても不自由しない。眼鏡を押し上げ、足を引かないように気を付けながら人波を駆け抜ける。

「おや、タルフ」

「まーた、聖地あさりか!」

「悪さも程々にしなよな!」

「光の悪魔に喰われちまわないようにね!」

 がたんごとんとたてる音に、顔なじみのおばさんも幼なじみも屋台のおじさんも振り返った。肩を叩いて手を振って、時には頭を小突かれる。

「やぁ、マイジン!」「あさってないよ!」「シュロもね!」「うん、気を付けるよ」

 眼鏡をかけない人たちの明灯の下の笑顔に返した。手を振り返し市場通りを通り過ぎて、人気がぱたりと途絶える頃に、ようやくぴょんは前を向いた。

 まだ所々に落ちる光を避けながら、さらに先を目指す。落ち着いた家並みが並ぶあたりには、どこからともなく暖かい香りが漂い出ていた。その香りが途絶えるあたりからは、今度は何処までも終わりがないかのように塀が続く。村一番の大きな建物は教会のもので、その塀が途絶えるその向こうの闇を従えた一際大きな明灯の下が、待ち合わせ場所だった。

「遅いぞ」

「ごめん、仕事が終わんなくて」

 明灯から背中を離して僕の目の前にすくりと立つ。ひょろっと背が高いエリヤヴィがそうすると、僕は完全に見下ろされてしまう。

 エリヤヴィは鐘の前には授業を終えたはずだった。授業は教会の中で行われていて、一旦家に帰ったとしても、エリヤヴィの家は教会のすぐ横だった。

「日が暮れちまうだろ」

「ごめんってば」

 しかめっ面を作って見せていたエリヤヴィは、ぷっと吹き出して笑顔になった。こんと僕の頭を小突く。

「嘘だよ、行こう」

「……うん」

 歩き出して光の輪を出て、僕は眼鏡をかけ直した。エリヤヴィも倣うように眼鏡をかける。目の前に明灯に遮られて見えなかった大きな壁が現れた。壁の上は眼鏡がなくてもほの明るく見えるはずで、その下はすでに暗くて見えにくくなっていた。思ったより遅くなってしまった。日が落ちかけている。

「終わんないって、どうしたんだよ」

「何でもないよ。僕の仕事が遅いだけだから」

 草原に出て、光が途絶えたのだろう、ぴょんが僅かに身じろぎした。

「すぐに早くなるよ」

「……エリヤヴィが満点取るより先だといいな」

「言ったな! タルフには負けないからな!」

「僕だって!」

 腰のあたりまで伸びた草をかき分け黒々とそびえる壁へ近寄っていく。壁そのものは僕の頭くらいから始まっていて、その下は、まるで壁を支えるようにびっしりと土を覆うコケと、コケを覆い隠そうとばかりに伸びまくった硬い草で埋まっていた。この辺を通るのは今は僕やエリヤヴィくらいで、獣道すらほとんどない。野生動物もわざわざこんな面倒な場所は避けて通るのだろう。

 壁まで近寄ると青臭いにおいがつんと鼻を突いた。コケはやわらかい草と同じようなものだろうと、においを嗅ぐたびいつも思う。

 壁際を少し進めば草にすっぽり覆い隠れてしまう窪地がぽっこり顔を出した。ヒザほどの深さのある窪地を降りれば、目の前には『穴』。僕たちがこっそり壁を越える時に使う抜け穴だった。

 穴がいつできたのかなんて僕は知らない。エリヤヴィもきっと知らない。何十年ももしかしたら何百年も前の最初の子供がいたずら半分で掘ったのかもしれないし、元からあったのかもしれない。穴はすっかり固まった土でできていて、ずっと昔から使われていたんだと想像するくらいしかできなかった。

 ためらう素振りもなく穴の縁を掴んで身体を引き入れたエリヤヴィは、そこだけ切り取られたような闇の中へ消えていく。頭の中で十数えてから、同じように穴へ入った。眼鏡越しでも真っ暗な穴を、そのまま突き当たるまで這い進む。突き当りまで進めば『光』が上から落ち込みちらちら影をゆらしていた。

 ひょいと立ち上がるとそこはもう聖地の中で、柔らかい草の感触が手のひらをくすぐった。顔をだせば渡る風はどこか青臭く、そして埃臭かった。

 ひゅるひゅると石の隙間を通り抜ける風の音しかない事を確認して一気に身体を引き上げると、ぴょんはまた怯えるように身じろぎして後を向いた。見上げたエリヤヴィは眼鏡を外して見上げていた。

「……今日はやけに明るいな」

「なんだろ、久しぶりだね」

「……明るいのは助かるな」

 いつも薄明るい壁の中だったけど、今日はいつも以上に明るかった。崩れきった壁の残骸が落とす影がやたらと濃い。眼鏡を外せば、一瞬くらりとするほどに光は強かった。

 並んで背伸びをしてみた。聖地の中心、『瓦礫山』の上『光』の中に何か見えるだろうか……。

「今日は」

 かろうじて崩れてない壁の脇に置いておいた台車をエリヤヴィが引っ張り出す。僕も背伸びをやめて、台車の下のスコップを持った。結局何も見えなかった。

「カラエクさんが新しいハウスを造りたいんだって」

「んじゃ、『庭園』か」

 呟くように言うと、エリヤヴィはもう走り出していた。壁の中は明るいけど、帰る頃には外は真っ暗になっているだろう。僕も遅れないように袋とスコップを抱えて走り出した。

 がたんがたんと台車の音が響き渡る。たすたすと、僕とエリヤヴィの足音がその合間に聞こえてくる。それ以外には時折吹き抜ける風が石の隙間をひゅるひゅると吹き抜けるだけで、静かだった。

 聖地の中は道と建物と広場と、枯れた井戸と、それらをかつて構成していた石で出来ていた。石はいつ見ても白くて、もともと白い石を使っているんだろうといつかエリヤヴィは言っていた。僕たちの住むこのあたりには、明灯の下でも白い石なんてどこにもない。だから余計、変な気がするのだろう。

 時をどこかに置いてきたようだと、いつも思う。

 先を行くエリヤヴィは大きな通りを突っ切った。通りを右に折れれば『屋敷』へ続き、左に折れれば『広場』に向かう。直進した先には『庭園』があって、その先には『瓦礫山』があった。

 『庭園』『広場』『屋敷』『運動場』に『瓦礫山』。名前は全部、代々受け継がれているもので、誰が付けたのか僕は知らなかった。大人になってこの作業を卒業する時に、その時一番大きい子供が跡を継ぐ。僕も今や立派なハウス主になったアシジが卒業する時に始めて、エリヤヴィから教わった。僕たちの誰もその場所の本当の名前も役割も知らなかったし、本当の姿も知らなかった。それどころか、村のだれも、ヘタをすると教会の連中でさえ、知らないかもしれない。

 僕たちが知っている事などほんの少ししかなかった。聖地の土は新たな農地確保に必要なものであるということ、ぐるりと輪を描く壁の中心、聖地の中心の空は、眼鏡なしでもいつもどこか薄明るいということ、そして本来は教会が封じている場所であること。たった、それだけだった。

 目的地に近づくほど、『瓦礫山』の側に寄るほど、ふわふわしてくるようないつもの感覚を味わいながら、エリヤヴィの後を追う。通りを横断し、細い路地を進み、その先の拓けた空間が『庭園』だった。

 通路の先には崩れた石で申し訳程度に作られた三段ほどの階段があった。台車は階段の上に置いておく。通路と同じ高さの石造りの溝の周りはくまなく丁寧に掘られ続けて、僕のヒザほどの高さになっていた。かつては段差などなかったらしいと、やっぱりエリヤヴィから聞いていた。

 『庭園』を回り込めば、すぐに『瓦礫山』に出る。見上げればすぐそこに『光』があった。

「さすがに眩しいな」

「ぴょん、大丈夫?」

 階段を下りて『光』を見上げるエリヤヴィの手にスコップの柄を押しつけた。もぞもぞ動いたぴょんは、一向に落ち着く様子もなくもぞもぞと動き回っている。……多分、逃げたいんだ。

「袋の中にでも入れておくか?」

「やだよ。エリヤヴィ、そのまま土入れるんだもん」

「そりゃ、やるだろ」

「いじわる」

 エリヤヴィはにやりと笑った。笑いながらスコップの先を使って、張り付くように壁に生えたコケを器用にはがして小さな袋に納めると、改めて向きなおった。

 本気ではない事くらいわかるけど、袋に入れたら多分やる。いくら穴を掘って住む動物とはいっても、可哀想だ。やらない。

 首の後にしっかり隠れたのを確認して土袋の口を大きく開けた。ざくと小気味いい音を立ててスコップを土に突き立てると、ほいとばかりに袋に一盛り放り込む。下がった地面はこうやってで少しずつできたもので、聖地あさりと呼ばれる所以でもあった。

 僕たちは皆、ハウスで育てた植物を食べていた。ハウスの中に敷かれているのは聖地の土か、要らない野菜を加工して作る土だった。加工土は次の年の野菜作りのための肥料でもあって、さほど余裕はない。だから、新しいハウスを造る時にはこうして僕たちが取りに来る。アバさんのように熱心な信徒である教会派の人たちには、快く思われてはいなかった。けれど、僕たちの村では黙認されているのが現状で……草原でも野菜が育てば良いんだけどとは、エリヤヴィの言葉だった。

 袋の中へ黒々とした土を放り込めば、スコップはまた地面に戻る。ザクと音をたててつきたてば、その一角を切り取って持ち上がる。生え始めていた小さな草を優しく掘り出し袋の中へ納めて、またその場所をざくりと削った。

 草食動物であるはずの首筋のぴょんは、壁の中の柔らかい草には見向きもしない。そして僕たちは、ハウスで育てた以外の堅い草や木や動物を食べる事ができなかった。

 なぜだろうと、いつも思う。トマトを育て、土を運び、ぴょんの食事を眺める中で。

「ぼーっとしてんなよ」

「あ、うん」

 既に一つ目の袋はいっぱいになっていた。二つ目の袋の口を開けると、すかさず土が投げ込まれる。

 あれ目を瞬いた。往復するスコップと土。反射する『光』とその下の影。

「エリヤヴィ、今……」

「ん?」

 エリヤヴィは手を止め、空を見上げた。開いた手のひらで目を覆う。僕も立ち上がり空を見上げた。瓦礫山の上の『光』を。

 ……何か、違うモノを見た気がして。

「!?」

「うわっ」

 冷たさより痛みを感じた。背中に走った激痛に息がとまり、ガンと音を聞いた気がして、目の前は真っ暗になった。


 ちらちらと動く影に気がついた。チチチと聞き慣れた声が頭の上を行ったり来たりで、落ち着かない。

「……ぴょん?」

 目が合うとぴょんはもう一声鳴いて、顔から降りた。目が痛い。影はすっかりなくなっていた。光はまるで刺すようで、目を閉じても焼け付くようだった。目だけじゃない。顔や腕やら首筋やら、光の当たる膚そのもので光を感じていた。

 掴める石を探して起きあがる。どこから来たのだろう、地面は水浸しだった。頭を振れば雫がいくつも落ちてきた。

 手をかざして、おそるおそる目を開けた、肉眼で見る世界は真っ白で、徐々に色が現れた。黒々とした土。ごろごろと落ちている白い石。白い石から伸びる影。白い石はそのまま伸びて壁に……。

「あ……」

 『庭園』の反対側、『瓦礫山』との境の壁はすっかりなくなっていた。新しい断面を見せる石が『庭園』にまで散らばり、そして、素通しになった『瓦礫山』の上で僕の視線は止まった。

 『光』の中に何かが見えた。見た事もないものだった。立ち上がって背伸びした。まだ足りない。一歩、踏み出した。ちゃぷんと小さな音がした。もう一歩踏み出した。溝に当たった。溝に上って、色が、見えた。

 駆けるように、『瓦礫山』へ向かった。溝を飛び降り石を踏む。崩れる前に蹴って進む。倒れそうになれば石を掴み、踏み、跨ぐ。踏み出すごとに頼りなくなるような足元に、瓦礫の一角を掴み身体を引き上げる。身体が軽い。一歩瓦礫を踏むごとに、一つ瓦礫を掴むたびに、地面から逃れるように軽くなっていく。もう瓦礫は崩れなかった。積み重なって支え合って形作る、その法則を忘れたように。

 息が切れるのも忘れて『瓦礫山』の上に立てば『光』はもう掴めそうなほども近い。伸ばしたその手のすぐ上に、『蒼』が見えた。

 ――光の向こうには、人間の故郷があるんだ。

 父さんの言葉だった。

 思い出す時はいつも、父さんもはどこか遠くを見つめていた。僕を見て欲しくて袖を何度も引いた。何度も。何度も。

 ……いつからだろう。同じモノを探すようになったのは。

 一際大きな瓦礫を蹴った。伸ばした腕が、『光』の中でひやりとした知らない空気を……。

「タルフ!」

「……あっ」

 反射的に腕を引いた。勢いのまま、バランスが崩れた。まるでそれがスイッチだったかのように蒼が薄くなっていく。僕の目の前から遠ざかっていく。慌てて伸ばした僕の腕は、ただ、空を切った。

 つま先がこつんと瓦礫にあたった。ゆっくりと尻餅をつくように落ちていく。僕のあとを追うように山の上から少しずつ、からからとさらに崩れていく音が始まった。

 重さが戻ってきた。『光』が急速に薄くなっていく様子を、ぴちゃんとたてた音とひやりと伝わる冷たさの中で見ていた。やがていつもの『光』が上空に漂うのみとなる頃、エリヤヴィの足音が近づいてきた。

 チチチ。エリヤヴィの足にまとわりつくようにやってきたぴょんが、水をまとわりつかせたまま顔に飛びつく。僕はぴょんを肩に回しながら、すぐ側で止まったエリヤヴィを見上げた。

「……光の向こうに『蒼』があったんだ」

「え?」

 飛び起きるついでに背伸びをして、怪訝そうなエリヤヴィの薄い色の瞳をほのかな光の下でのぞき込んだ。

「伝説は本当だったんだ!」

 ゴトン。遙か遠くで僅かに響いた音には反射的に振り返った。音の聞こえたのは『瓦礫山』の向こう。音は、重車両が石を砕いた音に聞こえた。

「行こう」

「う、うん」

 車両なんてものを持ち、さらに『聖地』に入り込むことができる人たちは限られていた。『光』は壁の外からでも見える。異変に気付いたのだろう。

 見つかる前に立ち去らなくてはと振り向き走り出そうとした僕は、すぐに足を止めた。崩れ去った壁際に、うつぶせのまま水に浸かっている人影を見て。

「え……」

「大丈夫!?」

 エリヤヴィの脇をすり抜けて近寄り、肩を掴んで仰向けた。思いの外柔らかい感触に、濡れて張り付き形を顕わにした胸元に、思わずびくりと手を離した。

 女の子だった。淡い光の中で、黒っぽい肌をしていた。トマトのようになめらかに張った頬。整った顔立ち。瞳は固く閉じられていたが、規則的に上下する胸は、確かに人間のモノで。

「タルフ!」

「う、うん……」

 構っている間はなかった。ごとんがたんと、音はだんだん近づいてくる。女の子を置いて、エリヤヴィの後を追おうとして、やっぱり、できなかった。

「見つかるぞ!?」

「わかってるよ。でも……」

 エリヤヴィが振り返り、自動車の音は近づいてくる。もう、その、エンジン音まで、聞こえていた。

「……置いてけないよ!」

 自動車に乗るのは教会の連中だろう。教会の本部は首都……僕たちの村の反対側にあって、『聖地』への門も教会の中にあった。始まりの地であり、希望の地であり、復讐の始まりとなるという地を閉ざし、管理している。立ち入る事を禁じ、厳しく見張っているという。

 女の子が何者であれ、見捨てる事などできなかった。

「おぶってく。僕がやる」

「……俺は、手伝えないからな」

 ぷいとエリヤヴィは振り返り歩き始めた。左手を押さえながら。珍しく手を貸してくれなかったエリヤヴィ。僅かに見える頬は、血の気が引いているように見えた。

 女の子を乱暴ながらも座らせて、腕を肩に回した。立ち上がりざま、前屈みに体重を乗せる。急いで女の子を背負いあげると、今度こそエリヤヴィの後を追った。

「エリヤ、腕……」

「……急ぐぞ」

 角を曲がったところで、急に影が濃くなった。

 投明器の光だと、しばらくして気付いた。

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