第3話


 巨大な階層移動エレベーターの第四層出口にその男は立っていた。

 男はダークスーツを着こみ、顔にはりつくようなウェアラブル・サングラスをしている。

 ほりの深い顔には、所々奇妙な傷がはしっていた。

 整った顔をしているだけに、他人に陰惨な印象を与える顔だ。

 その男が、二人の方をじっと見ていた。

 近くにいた男女数人が、男の顔を見るなり歩調を変えて足早に去っていく。

「ミ・ラ」

 男が短く言葉をはいた。

 ランスの右腕に、ミラの震えが伝わってきた。

 彼女の掌がじっとりと汗ばんでくる。

「誰だこの男は」

 男の酷薄な声がする。

「お医者さんよ、ヴァン。『第四層病院』の……」

「ほう、最近は医者とデートしながら診察をやるのか」

「ちょっと待ってください。あなたはミラの友人ですか?」

 ランスに聞かれ、ヴァンと呼ばれた男は、そこにランスがいるのを今気がついたとでもいうように彼の方を向いた。

「友人だと!」

 突然ヴァンが笑い出した。

 渇いた、無感動な笑い方だ。

「何がおかしい」

 男の態度にランスが怒りのまじった声をだす。

「これは、失礼した。いや、なかなか楽しい冗談だと思ってね。どうやら知らないようなのでお教えしよう、ミラは私のペットさ」

「ペット?」

「そうだ……君は他人のペットに手を出してしまった。これは犯罪だよ、君」

 最後の言葉と同時に、ヴァンが右手をあげた。

 ゴッ。

 ふいに、ランスの後方から現われた拳が、彼の左顔面を直撃した。

 ランスが真横へとふきとばされる。よける間のない一撃だ。

「やめて!」

 ミラが叫ぶとともに、ランスに近づく。

 ランスは抱き起こされながら、彼を殴った物体を見つめた。

 いつのまに近づいたのか、ランスのそばに巨大な肉塊が立っていた。

 その身長は2メートルをかるくこえている。何度も血を流して固めたぶ厚いゴムのような顔面には下卑た笑みがへばりついている。

「ミラ、よく聞いてくれ」

 ランスは、ずたずたに切れた口を押えるようにして、小声でミラに話しかけた。

「僕が逃げろといったら、後ろへ向かって走るんだ」

 ミラが小さくうなずく。

「ミラ。こっちへこい。後の楽しい時間が台無しになる」

「逃げろ!」

 ランスが叫ぶと同時に、何かを巨人に向かって投げた。

 閃光の爆発。

 あたりが白い闇に塗り潰される。

「グアァアァァー!」

 巨人の叫びを後ろに、二人はすばやく走り出した。


 第四層のアパートメント街の路地裏。

 ランスとミラは二匹の小動物を思わせるすばやさで駆けていた。

 このあたりまでくると途中ですれちがう人影はほとんどなくなり、ハイになって意味不明の言葉をわめきつづけるジャンキーをみかけるぐらいだ。

「ここよ!」

 ミラがメタリックな外壁を持つキューブ・ハウスの前で叫んだ。

 入り口の頑丈そうな扉の横にある電子ロックにパスワードを打ちこみ、細長いスリットへとIDカードすべりこませる。

 乾いた音をたてて扉が開く。

 二人は扉が開ききらないうちに中に入ると、急いで扉を閉めた。

 歩調をゆるめながら、ランスとミラはホームセキュリティのディスプレイへ視線を向けた。

 表示はオール・グリーン。不法侵入者および各階に異常無しの文字が光っている。

「よし、ミラ、もう大丈夫だよ」

「う、うん」

 肩をはずませながら、ミラが応える。

「ねぇランス、さっきは何を投げたの」

「護身用のフラッシュ・ボムだよ。この前アキバ・ジャンクストリートの店先にでていたんで、ためしに買ってみたんだ。ところで、あいつらは何者なんだ。ミラ」

「ヴァン・ラングレン。この第四層を支配しているジャパニーズ・マフィアのナンバー2よ。日本とオーストラリアのハーフ」

 ミラの部屋の前にたどりつき、二人の歩みがとまる。深く息をつき、ランスはミラをまっすぐに見つめた。

「君にも聞いておくが、彼と君の関係は何なんだ」

「どうしてそんなことを聞くの」

 ミラが、さも不思議そうな顔をする。

「私は彼のペットよ。さっき、そう聞いたでしょう」

「ミラ、どうして人間の君がペットなんだよ」

「でもランス、ここは第四層なのよ。私は第一層や二層、三層の人たちとは違うわ。ほら、IDカードだってあなたのようなプラチナじゃなくて、ブロンズでしょ。でも、私なんかまだいい方だわ、IDカードさえない不法侵入者だってたくさんいるもの」

 彼女は、何を今さらといった表情を浮かべている。

「ランス、あなたには帰ることのできる家や家族がある、だから分かってもらえないのかもしれない」

「そんなことは……」

 ない、と言おうとしたランスの言葉が急にとだえる。

 ミラがドレスを脱ぎ始めたのだ。

 薄明りの中、彼女の体が照らしだされていく。

 背中のジッパーを引き下げ、ミラはか細い線で形作られた上半身をあらわにした。

「見て」

 ランスはどこか遠い場所からミラの声が響いてくる気がした。

 まだ少女のような体に、ふくらみはじめた胸。少女から成熟した女になるまでの、危うい時期に現われるはかない妖艶さ、そんなものが彼女の体にあらわれている。

 だがランスの目をひいたのは、彼女の妖精を想わせる肢体のことではなかった。

 彼女の体に刻まれた無数の生傷や青黒い打撲の跡であった。

 ミラは右の乳房にくっきりと残っている歯形のあとを指でなぞっている。

「ヴァンはね……サディストなの。そして、彼が私の主人で、私は彼のペット」

「それでも彼を愛しているのかい」

 しばらくの沈黙のあと、ミラはゆっくりと首を横にふった。

「でも、彼は私を愛していると思う。もちろんペットとしてだけど」

「ミラ。君は、誰を……」

 ふいに、ミラの唇がランスの次の言葉をふさいだ。

 ゆっくりと唇を離しながらミラが答える。

「ランス。大好きよ」

 次の瞬間、彼女は背を向けるとドアの中へ消えていった。

 唇の感触が無くなるまでのしばらくの間、ランスはその場に立ちつくしていた。




 翌日の朝、ランスは自宅のベッドの上で目覚めようとしていた。

 ベッドとテーブル以外、ほとんど家具のない寒々とした部屋。

 無味乾燥とした部屋の中、ミラからもらった花が花瓶にいけられ、テーブルの上にのっている。

 名前を知らない黄色い花を眺めながら、ランスはミラの唇を思い出していた。

 ルルルルル

 ヴィジホンがけたたましい音をたてた。

 ランスは起き抜けの眠たげな顔でディスプレイに写し出されるバリーの姿を見ていた。

 彼の声を聞くうちにランスの目蓋が次第に見開いていく。

 数分後、ランスは家を飛び出していた。


「バリー!ミラ、ミラは大丈夫なんですか!」

 苦い顔をしたバリーがランスを迎えた。

 その顔は苦渋に満ちていた。

「ついてこい」

 一言だけ声をかけると、バリーが先になって歩きだす。

 やがて二人は、集中治療室にやってきた。

 ミラのまわりで、様々な生命維持装置がせわしく働いていた。

 ミラを直視したとき、ランスがくぐもった声をあげた。

 彼女の体のほとんどを、止血帯が覆っていたのだ。

「バリー、彼女はどうなんですか」

「命は大丈夫だ。傷が完治するかどうかは分からんがな」

「外傷の内容は」

「陰部に裂傷……裂けていた。さらに全身にひどい打撲の跡、そして残念なことだが……」

 バリーが、ランスからミラへと視線を移す。

「声帯が潰れている。たとえ最新の人工声帯に変えても、以前のような彼女の歌は聞けないだろう」

 ランスの体が細かく震えていた。

「奴だ」

「ランス、聞いてくれ」

「ヴァン・ラングレン、あいつに決まっている」

(人を殺したことがある?)

 ミラの声が聞こえる。ミラ……君は……。

「ランス!」

 バリーが野太い声を張り上げる。

「いいか、へんな気を起こすなよ。相手はマフィアだ。この病院ごと吹き飛ばされかねん」

 短い沈黙が二人の間にながれた。

「そんな理由でマフィア幹部のオモチャになっている子供の治療を続けていたんですか?ミラになんて言ってあげてたんです?これがお前の運命だとでも?」

 青ざめた表情のランスがバリーをにらむ。

「貴様に何がわかる!子供は毎日やってくるんだぞ!せめて治療をする医者がいなければ……」

 バリーの話が終わらないうちに、ランスは部屋を飛び出していた。

 慌ててバリーが通路にでてみると、ランスの姿は見あたらなかった。

「くそっ!ガキが!」

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