第2話

 ランスはバリーの経営している『第四層病院』に戻ると、形だけの院長室へと足を向けた。

 IDカードをドアのロックに、すっと滑らせる。

 渇いた音をたててドアが開くと、部屋にはバリーの姿があった。

 その巨体は部屋の中での唯一の高級品、総皮張りの椅子に沈みこんでいる。

「院長、お聞きしたいことがあるんですが」

「院長? ランス、バリーでかまわんと言っているだろうが。どのみち、この病院に勤務しているのは俺とおまえ、ほかに二・三人だけだ」

「ミラの事ですが、どうして私が彼女につきあわなければならないんですか」

「彼女は週に一度、ここに健康診断のため訪れることになっている。十六歳のときに頭に怪我をしてな、外科的治療も試みたが……、今のところ結果待ちといった所か」

「それじゃあ、どうして」

 さらに言いつのろうとするランスを、バリーは手を上げて止めるしぐさをした。

「まあ実際のところ、最近は彼女の気晴らしのための診察さ。俺が今までは相手していたんだが、なんといっても歳だ。やっぱり若い者同志の方が、話も合っていいだろうと思ってな」

 ランスは内心、嘘をつけとつぶやいた。

 バリーはミラのおもりが嫌で自分におしつけたのに決まっている。

「彼女の両親は何をやっているんですか」

 何気ないランスの質問に、バリーは躊躇したあと重たげな口をひらいた。

「ミラは孤児だ。不思議な子さ、いつの間にかあの店、『タナトス』にいついちまった。多分、大陸からやってきたミッシング・チャイルドだと思うんだが、どこから逃げてきたのかは、わしにも分からん」

 ランスの顔がしかめられる。孤児の彼女の前で、家族の事を長々と話していた自分を思いだしたのだ。そしてランスは、彼女が自分を見つめていた視線が羨望の眼差しだということに気がついた。

「ミッシング・チャイルド……幼児誘拐ですか」

「そうだ。ここにやってきた子供たちは、いろんな教育を施される。酔っ払いの相手からキディ・ポルノまで、ハーレム街へ行けばいくらでも目にはいる事件さ」

「彼女も、ミラもそんな所にいたんですか」

「ランス、彼女は幼いといっても四層の女だ。友達以上の感情は持つなよ。おまえには荷が重すぎる。それと最後にこれだけは言っておくからしっかり覚えておけ、ここは東京でもなければフロートシティ『ナイオン』でもない。第四層なんだ」



 ランスが『ナイオン』にきて二ヶ月が過ぎた。

 「第四層病院」において、バリーの助手を勤める一方、自分の研究にも熱心に取り組んでいた。

 研究内容は、大脳量子工学上における諸問題点というものであった。

 もちろんその間も、ランスはミラの相手を強いられていた。

 ディープダイビングや、ミスト・クラブハウス、ありとあらゆる場所を、まるで地方からやってきた田舎くさい観光客のように見てまわった。

 日が経つにつれ、二人がバリーに内密で会う回数は増えていった。

 今日は、彼女と第三層にある海洋展望台を見にいくことになっている。

 ランスはいつもの調子で、普段着に黒のハーフ・コートをはおると、バリーがいないのを確認して、そそくさとミラを連れだって出ていった。

 彼女は服を黄色と黒でまとめており、まるで小さなパンジーの花のようだった。

 ミラはランスに近寄っていくと、そっと腕をからませた。

 二人は、一時間ほどをかけて海洋展望所までやってきた。

 巨大なアクリルガラスの壁面が視界を覆っている。

 ダークブルーの深海。

 このあたりまでくると海上の光は届かないので、やわらかな照明が荒涼とした海底の風景を照らし出している。

 遠くでは海洋牧場で働いているディープダイバーたちのかすかな光が瞬いていた。

 目の前では名前の知れない奇妙な形状をした深海生物たちが悠然と泳いでいる。

「休みは何をしているの」

 ミラが視線を前にむけたまま聞いてきた。

「昼間はバリーと共同研究の仕事をしたり、夜は自分の仕事をしたりかな。最近はチャンバーに入る観光客が多いんで休みもあんまりないけど」

「仕事ばっかりね」

「ああ、けっこう忙しいかな」

「もう四層の暮らしには慣れた?」

「最近は慣れたよ。こうやって休みの日にはミラと息抜きできるしね」

 ミラとつないだ手の指をからませる。

「ね、個人的なこと聞いていい?」

 暗くおさえた間接照明のなか、となりでミラがつぶやいた。

「いいよ」

「人を殴ったことある」

「人を?」

「そう。他人を」

「人かぁ、ないなぁ。父親と子供のころはケンカしたこともあったけど、十八からはそんなこともなくなったし、まして他人となると皆無かな」

「カイム?」

「まったく、ないってこと」

「それじゃあ……人を……」

 ミラが低い声でささやいた。

 驚きを含んだ沈黙のあとランスが口をひらく。

「何かあったのか」

 ミラを見つめるが、彼女は視線を前に向けたままだ。

「ううん。何にもないよ。いつもどおりの毎日」

「質問の答えだけど…今まで、一度もないよ」

「そうだよね。ランスって平和主義者だもんね。ごめんね、変なこと聞いて」

「ま、いいけど、何かあるんだったら教えてくれよ」

「うん。オ・シ・エ・テ・ア・ゲ・ル、ね」

 明るくふざけた調子でミラが返事をする。

 ふいに、BGMがやみ、海中音に切りかわった。

 生物の鳴き声がする。

 ……いや、歌なのだろうか?

「来るぞ!」

 ランスが言い終えないうちに、巨大な生物が舞い降りてきた。

 鯨だった。

 海洋牧場で飼育されている数頭の鯨が餌としてまかれた魚を狩りたてるために潜ってきたのだ。

 子供の頃、何度も見たはずの風景だがランスはその姿に再び圧倒される思いがした。

 踊りを舞うように美しい螺旋を描いて、魚の群れを追いこんでいく鯨たち。

 魚の群れが一箇所に集まると、巨大な狩人たちはその巨躯をうならせ獲物へむかい突進していく。

 饗宴が始まった。

 鯨たちの開かれた下顎へと魚が飲みこまれていく。

 しばらくすると、海底での食事に満足したのか、鯨たちが海面へ向かって上昇しはじめた。

「ワァッ!」

 ミラの歓声が聞こえた。

 突然、眼前のアクリルガラスを黒い物体が覆い尽くした。

 一匹の鯨が上昇するために海底からせまってきたのだ。

 きりもみ状に回転している途中、鯨の瞳がみえた。

 歳を経た、賢者の瞳。

 人間とは異質の知性を持った瞳だ。

 ランスは声にはださず、胸のうちでつぶやいた。

「鯨たちとも話しができるといいのにな、そしたらミラの歌を教えてあげるんだ」

 ミラが無邪気に話している。

 視線を上に向けると鯨たちの姿はすでに消え去っていた。

「ねぇ、ミラと一緒にいると疲れる?」

 考えに沈むランスへと、ミラが声をかける。

「ミラ、あと半年経ったらまとまったお金が入るから二人で旅行にでも行かないか?」

 ミラの質問には答えず、ランスがミラに聞いた。

「旅行にいくの?」

「うん。しばらく忙しかったからのんびり温泉とかかな」

「えっ温泉なの!?」

「嫌いなの?」

「いやじゃないけど……行きたいところがあるの!」

「どこ?」

「月!」

 目を輝かせてミラが言う。

「だめだ!」

 ランスが即答した。

「どうして?」

 ミラがむくれた表情をみせる。

「今はテロリストがいて危険だ」

 そう言われミラは落胆した表情をみせた。

 だが、急に何かを思いついた様子でランスから少し離れた場所で振り返ると歌い始めた。

 ランスが苦笑いを浮かべる。曲名は「Fly Me to the Moon」だった。

 通り掛かった人々が立ち止まり、二人の周囲に人垣が作られる。

 最後のワンフレーズを歌いきり、ミラが頭を下げると拍手が沸き起こった。

 喝采の中、ミラはランスに瞳で聞いた。

「僕の負けだ。すぐには無理だけど……」

 ミラは聞き終えないうちにランスに飛びつくと、はじけるような笑みを浮かべた。

「約束してね」

「あぁ約束する。一緒に月へ行こう」

 さらに沸き起こった拍手の中を二人は手をつないで抜け出した。

「あ、そうそう。ミラと一緒にいると疲れるかって質問だけど最近は慣れたよ。まぁ四層の仕事に比べたら慣れるのに時間がかかったかな」

「あ、ひどーい」

 笑いながらの会話のあと、帰ろうということになり、二人はそろって歩き始めた。

 今までより、ミラはこころもちランスに体を寄せ、ランスの腕は、なぜかしらミラの体温をより強く感じていた。

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