第16話『悩みゴト』

 土曜日の朝。昨日とは打って変わって空が青い。

 俺はいつも通り顔を洗い、歯を磨き、制服に着替える。リビングで朝食を食べようとしたが、今日は俺の正面にいるはずの奏ちゃんの姿がない。

「あら、今日は奏ちゃん遅いのね……」

 さすがの母さんも心配そうにしている。まあ、昨日の夜も元気がなかったし。

「そうだな、いつも俺よりも早いのに」

「ちょっと様子を見てきてくれない?」

「え、俺が? 着替え中だったらどうするんだよ」

「……大丈夫よ、きっと」

 何を根拠にして言っているのか問いたいところだな。

 まあいいや。朝食を食べようと思ったけど奏ちゃんの様子を確認してくるか。

 二階に上がって奏ちゃんの部屋の前に立つ。

「奏ちゃん、起きてる?」

 そう言って扉にノックを何回かしても、奏ちゃんからの返事はなかった。まだ寝ていたりしているのかな?

 ゆっくりと静かに扉を開けて中に入ると、ベッドで横になっている奏ちゃんがいた。可愛い寝顔だな。

 俺は奏ちゃんの側まで近寄る。

「奏ちゃん、朝だよ」

 優しく囁いてみると、小さく寝息を立てていた奏ちゃんの眼が開いて、

「あっ、隼人さんですか。あの、ちょっと熱っぽい気がして。その……確かめてもらえませんか?」

「ああ、分かった」

 俺は奏ちゃんの前髪をたくし上げ、額を奏ちゃんの額にそっと当てる。

「は、隼人さん……!」

「ちょっと熱いね。熱があるかもしれない。喉や鼻の調子が悪いってことはない?」

 額を奏ちゃんから離すと、奏ちゃんの頬が赤くなっている。引っ越しの疲れや、もしかしたら例のことで身体が堪えてしまっているのかな。

「……大丈夫です。ちょっと咳が出るだけで」

「そっか。じゃあ、今日は大事をとって休んだ方がいいね。無理はしちゃいけないよ」

「ごめんなさい」

「……どうして謝るんだ?」

 できるだけ優しく訊いたつもりなのだが、奏ちゃんは眼を逸らしてしまう。

「隼人さんと優奈ちゃんに迷惑をかけてしまいますから……」

「そんなことないよ」

「だって、今もお食事の合間を縫って私の所に来てくれたんですよね?」

「あははっ、違うよ。朝ご飯を食べようと思ったけど、いつもみたいに奏ちゃんがいないからこうして様子を見に来ただけだって」

「……私なんかのために、そこまでしなくていいですよ」

 体調が悪いせいか、その声も弱々しい。

 しかし、奏ちゃんは優しい子なのはいいけれど優しすぎるな。自分の事を貶しているようにも思える今の一言には俺も思わずため息が出てしまう。

「……まったく。俺は奏ちゃん『なんか』って思ってないから。ほら、風邪を引いたときはゆっくりと身体を休めるのが一番だよ。分かったら大人しく寝てなさい」

「はい……」

 うん、こういう風に素直に返事ができるからよしとしよう。

 俺は奏ちゃんが寝るまでずっとそばにいた。

 風邪を引いたくらいで家族に迷惑をかけたなんて思ったことがあっただろうか。でも、俺も奏ちゃんの立場だったらそう思うのだろうか。自問しても俺にはよく分からない。この感覚を味わったことがないから。

 部屋に差し込んでくる光が奏ちゃんの顔に届いている。俺はカーテンを閉める。

 薄暗い部屋の中、奏ちゃんは再び寝始めた。寝る時は不安なことも一切考えなくていいのか、安心しきった表情になっている。うん、可愛いな。頬を触ってみると柔らかい。

 そんなことをしていたら時間が大分経ってしまって、朝食をゆっくり食べられる時間はなかった。今日は流石に髪のことは優奈自身でやってもらおう。

 リビングに戻ると俺の隣の席で優奈が朝食を食べていた。

「奏は風邪引いてるの?」

「ああ、微熱程度だけど……あと、咳もちょっと出てる。大事をとって今日は休ませることにしたよ」

「そっか。早く治るといいな」

「それに……優奈、これで色々と話が訊きやすくなるな」

「大分ね」

 奏ちゃんの身体のことも大事だけど、あの一件を解決しようと決めた俺と優奈にとって、奏ちゃんには学校を休んでもらった方ががやりやすい。

「優奈、誰がやったのか分かっても自分で解決しようとするなよ。とにかく、俺に情報を伝えて欲しい」

「分かってるわよ」

「何故だか分からないけど、俺にも何だか原因がありそうでしょうがないんだ……」

「そんなことあるわけないじゃん」

 こいつめ、何を笑いながら言ってるんだ。

「いや、分かんないぞ? だってクラスメイトと住んでるってことを知ってたら、俺と住んでるってことも知ってるかもしれない」

「まあ、友達なら私にお兄ちゃんがいることは知ってるから、確かにそれも否定できないけど……。ああもうっ! 私が頑張って調べるんだから、私の報告を受けるまではお兄ちゃんは何もしなくていいんだからね!」

「ああ、分かったよ。頑張ってくれ、期待してるからな」

 朝食をさっさと食べ終え不機嫌に行く支度をする妹が、とても頼もしく見えるのであった。



 高校に着くと、優奈は真っ先に昇降口へと駆け出した。彩音は女子バレー部の朝練があるので、今は一人だ。

 奏ちゃんが学校にいない今日、俺がすることは優奈の報告を待つだけだ。何もできることがないので、そこは割り切って昨日の分を取り返すくらいに今日は授業に取り組もうと心に決める。

「今日も写真を撮るね! あぁ……今日も可愛いね! 君が何も言わないならボク、勝手に撮っちゃうからね。いや、何を言われても意地で撮っちゃうけどね!」

 ――勝手な欲望のための被写体になることにも気にせず、

「ねえ、新垣君。今、先生が書こうとしてるのはね……」

 自分の思い描く物語のことを話されることにも気にせず、

「新垣君、聞いてよ! 昨日、翼がね……」

「いや、それは美月も悪いところはあっただろ」

 まるで痴話喧嘩にも聞こえる話にも気にすることはなかった。

 人間、集中しようと思えば意外とできるものだな。今日の授業は全て物にした感じだ。昨日とは大違い。特に何事もなく過ごすことが出来た。

 携帯電話のメールを逐一確認するが、優奈からの報告のメールは入ってきていない。

「……今日の新垣は非常に淡泊だった気がする」

 全ての授業が終わって身体を伸ばしていると、隣の席から海堂がそう言ってきた。

「そうか?」

「まあ、今週の新垣は毎日違った気がするな。俺にとっては。何かに悩んでいるように見えたぞ」

「……その察しはいい線行ってると思うぞ」

 やはりこの男。何かを持ってるな。何だろう、バスケで何か人の心を読む力でも身に付けられるのだろうか。バスケだって球技だけど人を相手にしてるわけだから。

「なんだ、後輩の女の子が一緒に住むことになって何か悩み事でも出来たのか?」

「……その子の悩み事をどうにかしようと思ってるだけだ」

「そうか」

「でもさ、悩んでいるんだ」

「何を、だ?」

 こいつだったら、相談してみてもいいかな。

「助けて欲しいなんて直接言われたわけでもないのに、そんなことをするなんて……本人にとっては迷惑なんじゃないかって」

 奏ちゃんを守ろうと決めてから、一つだけ悩んでいたことがあった。それが、今言ったことだ。本人から直接助けて欲しいなんて言われただけでもなく、犯人捜しのようなことをすると……返ってまた本人に辛い目に遭わせてしまいそうで怖かった。だからこそ、バスケ部のエースである彼の答えが欲しかった。

 海堂もその言葉には言葉を詰まらせたが、ゆっくりと口を開く。

「俺はそう思わないけどな。どんな悩み事なのかは分かんないけど、影で支えるっていうかなんていうか。そんな存在は凄くその子にとっては心強いものだと、俺は思う」

「影で支える、か……」

「それをしてる新垣は、俺は凄いと思うぜ。悩むことなんかないじゃんか」

「そうか」

「どうだ? 悩み事は解決したか?」

「……ああ、バスケ部のエースに頼んで良かったよ」

「そんなことねえって!」

 そして、エースは俺の背中に平手打ちを一発。

 痛かったけれど色々とシャキっとできた気がするので、今の一発は有り難い気持ちで受け取っておこう……。

「痛がっている新垣君の姿も捨てがたいね!」

 ――カシャ。

 この空気をぶち壊した松木に敵意を抱く。

「……撮るな」

「ちょ、ボクのデジカメ取らないでよ!」

「ドMならそこは喜ぶべきじゃないのか?」

「それとこれとは話は別なんだって。そのデジカメには新垣君の写真のメモリーがたくさん入ってるんだから!」

「だったら尚更返すべきじゃないな」

「返してくれないと、ボクね……実力行使しちゃうよ。ぐへへっ……」

 別に何も恐くないのだが、松木の雰囲気が気持ち悪く感じたので素直に返した。

 撮った写真が何に使われているのか、この先どこかで確かめる必要があるな。松木は今までで一番気持ち悪い笑みを浮かべながらその場を静かに去った。

 三次元の女子に興味はないらしいが、絶対に奏ちゃんを松木の視野には入れたくない。改めてそう思った。

 その後すぐに、莉奈先生が教室に来て終礼となった。

 本当に今週は長かった気がした。信じられない事が色々とありすぎて。

 最後の掃除当番も終わって、俺は一人で家に帰った

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