第15話『豹変の理由』

「お、お兄ちゃん……? 何やってるの?」

「優奈こそ、何しに来たんだ?」

 最悪のタイミングで部屋に入ってきたな。まあ、そのおかげで奏ちゃんが眠ってくれたんだけどさ。

「お兄ちゃんと奏が話している声が聞こえたから何なのかな……と思って。べ、別に二人の話が気になった訳じゃないんだからね!」

「そうかい」

「……ところで、どうしてお兄ちゃんはそんな格好で奏を抱いているのかしら?」

「えっ?」

 本当だ、気づいたら俺は奏ちゃんのことを抱いていた。仰向けのままで。

「ど、どうしてなんだろうな……?」

 とにかくこの体勢のままだとまずいので、奏ちゃんの身体を持ち上げ、ベッドの上に仰向けで寝かせる。

「……!」

 奏ちゃんは自分で服を脱ぎかけた状態で意識を失った。だから、今見えるように奏ちゃんの寝間着の第三ボタンまで開いており、危うく胸が見えてしまうところだ。おまけに、俺の着ているワイシャツも第三ボタンまで開いている。

 当然、この状況を見た優奈は黙っておらず、

「お兄ちゃんのばかっ! 奏にそんなことをするなんて許せない!」

 当たり前の台詞を俺にぶつけてくる。

 俺の意志でやったのなら何も反論しないけれど、これは奏ちゃんの方からしてきたことだ。理由を話さないわけにはいかない。

「ちょっと待て、これは俺がやったんじゃない」

「それって『やった』って言ってるのと同じなの!」

「いや、普通に違うだろ」

「……だって、じゃあ……何で奏がそんな姿になってるのよ!」

「訳を話すと長くなる。信じてくれるか分からないけどな」

「訳って……ちゃんとした理由があるわけ?」

「あるよ。とにかく、奏ちゃんを部屋のベッドまで運んでくる。大丈夫、変なことは絶対にしないから」

「……あっそ。聞かせてもらおうじゃない」

 信じてくれなそうで不安だよ。あの奏ちゃんが俺を襲ってきたなんて。俺だって信じたくないけれど。

 俺は奏ちゃんの寝間着のボタンを閉め、彼女の身体をお嬢様抱っこで持ち上げる。そして、彼女の部屋のベッドまで運ぶ。

 住み始めて間もないためか、奏ちゃんの部屋の中は整理されていて綺麗だった。奏ちゃんをベッドの上に寝かせて、布団を掛ける。

「そういえば、奏ちゃんの寝顔って初めて見たな」

 初めて奏ちゃんの姿を見たとき、彩音はお人形のように可愛いと言っていたけど……今、俺の目の前で寝ている奏ちゃんは紛れもなく、一人の可愛い普通の女の子だった。人形は眠らないからな。

 この優しい寝顔からはさっきの出来事がまるで想像できない。月明かりに照らされる奏ちゃんを見てそう思った。

 あまり長居してもしょうがないと思ったので、部屋を出ようとしたのだが俺の足下に何かが当たった気がした。

「ん?」

 足元を見るとくしゃくしゃに丸められた一つの紙くずがあった。何が書いてあるのかとその紙くずを開くと、


『消えて』


 何だよ……このメモは。

 クラスの女子がよく授業中にメモを回すところの場面を見るが、明らかにこれはそんなことの内容じゃない。

 他にも同じような事が書いてある紙くずがないか調べてみようと思い、真っ先にゴミ箱をあさると案の定出てきた。床にあった紙くずと同じ紙だ。


『あなたなんてこのクラスにいなければいい』

『クラスメイトと一緒に住んでるからって調子に乗るな』


 見つけた二つとも、心ない言葉が書かれていた。

 まさか、奏ちゃんは虐めを受けているのか?

 しかも、優奈と一緒に住んでいることを攻めている。ということは、これを書いた人は俺たちの同居のことを知っているのか。

 すぐさまに奏ちゃんの寝顔を見た。月明かりだけでは分かりにくいけど、目元は赤く泣いた跡があった。さっきは、性格の変わった奏ちゃんが信じられなくて……顔なんてまじまじと見ることもできなかった。

 俺は拾った紙くずを力強く握りしめた。ああ、悔しくてたまらない。

 奏ちゃんはきっと悩んでいたのに、俺は……そんな時に頼られるほどの人間じゃなかったように感じた。それが凄く悔しい。

 俺は必死に思い出そうとしていた。奏ちゃんが自分の今の気持ちを表すサインを出していたんじゃないかと。必死に伝えようとしたんじゃないかと。

 そして、今……ようやく思い出し、あの時の言葉が分かった。

『奏ちゃんこそ、元気がないように思えるけど……何かあった?』

『……別に、何もありません。でも、ただ……寂しいなって』

 そう、あれは昨日の夕方、莉奈先生と一緒に部室棟に行く前に奏ちゃんに電話をかけたときのことだ。

 あの時は俺と帰れないことに対して寂しいのかと思っていたけど、もうその時は既に虐めを受けていたんだ。

 寂しいって思ったのは、『クラスメイトと一緒に住んでるからって調子にのんな』っていうメモからそう思ったんだろう。もしかしたら、俺や優奈もこのメモ通りのことを思っていて、自分から離れてしまうかもしれないって思ったから。

「そんなこと、あるわけないだろ。俺も優奈も奏ちゃんの側にいる」

 少しずつ一緒の生活に慣れてきたときだっていうのに。奏ちゃんがいない方がいいなんてお思うはずがないだろう。優奈だってきっと同じだ。

 俺は寝ている奏ちゃんの頭を優しく撫でて、

「奏ちゃん。俺が守るから、安心して」

 できればこの言葉を……もう少し早く言えれば良かったな。できれば昨日の夜、奏ちゃんの泣いている声を聞いたときに。

 でも、後悔してもしょうがない。俺の握るこの事実は消すことも変えることもできない。

 俺は奏ちゃんの部屋を出て、俺の部屋で待っている優奈のもとに戻った。



「随分と遅かったじゃない」

 腕を組んで先ほどよりも若干、不機嫌の度合いが増しているようだ。まあ、このくらい元気ならこのことを言っても大丈夫か。

「それで、話を聞かせてもらおうじゃない」

「ああ。じゃあ……とりあえずこれを見て欲しい」

 奏ちゃんの部屋で拾った紙くずを優奈に渡した。

「……お兄ちゃん、そんなこと思ってたわけ?」

「もちろん違う。だから、離してくれ……」

 紙くずを見た瞬間に眼を鋭くさせて胸倉を締め上げてきたからな……。少しだけでも優奈のこの部分を奏ちゃんに分けてあげて欲しいところだ。

「じゃあ、これは一体どういうこと?」

「……これが今回の一件の発端だったかもしれないんだ」

「てことは、この紙くずは……奏が渡された物なの?」

「その通りだ。奏ちゃんは誰かに虐めを受けている」

「嘘、でしょ……?」

 さすがに優奈もさっきまでの威勢の良さがなくなり、ただただ紙くずを何度も見直す。特にとある一枚の紙くずを。

「『クラスメイトと一緒に住んでるって』ことは……これを書いたのって、奏がこの家に住んでいることを知っている人なの?」

「ああ、俺もそう思ったよ。誰かにこのことは言ったか?」

「二、三人くらいしか話してないよ。先生も言わないし。でも、そういう話って誰か一人に伝わると本当に広がるのが早いから……。特に女子の間では」

「ということは、優奈のクラスでこのことを知っている人は……?」

「たぶん、結構いると思う……」

「今のところで誰がやったのかは特定できないな」

「でも、この紙くずがどうしてさっきの状況に繋がることになるの?」

 俺はずっと考えていた。

 突然変わってしまった奏ちゃんの人格。大人しい彼女から、まるで逆になってしまった自己中心的な彼女。それはもしかしたら、例の『未知の病』の症状じゃないかと。

「多分、その紙くずによって精神的な苦痛を受けたんだろうな」

「じゃあ、私がお兄ちゃんの部屋から聞こえた話し声は……」

「既に人格が変わっていたことになる」

「そんな……」

「今回の出来事は例の『未知の病』に関係していることかもしれない。症状はきっと、突然人格が変わってしまうこと」

「人格が変わる……」

「そして、その原因。それは奏ちゃんに襲いかかる精神的なダメージだろう。今回はその紙くずに書かれていた言葉が引き金になったわけだ」

 どんな気持ちで書いたのかは分からないけどさ。でも、手書きだと書かれている言葉の力が強く感じられる。

「でも、信じられないよ……」

「俺だって信じられない。普段の奏ちゃんは優しくて、どちらかと言えば穏やかな性格だ。でも、人格が変わった奏ちゃんはどちらかと言えば自己中心的な感じだ。そして、多少強引にでも自分の欲求を満たそうとしたがっていたんだ」

 そう、それが自分の肌を俺に触らせたこと。

 それも、きっと奏ちゃんの抱いている欲求の一部だとしたら。人格が変わった奏ちゃんのことを責めることはできない。

 その前に、彼女が泣いているのを知っていたから。

 もし、誰か怒るべき人間がいるだとしたらそれは奏ちゃんじゃなくて、俺自身だ。どうして、あの時に声を掛けてやれなかったんだと。

 でも、起こってしまったことを今からどうすることもできない。

「今、俺達にできることは、とにかく奏ちゃんの不安をすぐに取り除いてあげることだ」

 そうだ、それが俺達にできることだ。

「でも、どうやって……?」

「分からない。でも、たぶん一番の近道は奏ちゃんを虐める人を探すことじゃないかな」

「分かった。私……奏のために頑張る!」

 しかし、その眼には涙を浮かんでいた。

 もしかしたら、自分が奏ちゃんと住み始めたことを言ってしまったからこうなったんじゃないか、という罪悪感があるのかもしれないな。

「あと、明日は土曜日だから家に帰るまでなるべく奏ちゃんのことを気にかけて、どうにかして誰かからこの紙くずのことまで近づけられないか?」

「それって凄く難しいこと思うけど?」

 確かに、優奈の言う通りそれは難しいことだ。でも、クラスの中で奏ちゃんのことを一番に想っているのは間違いなく、優奈だ。俺は四六時中奏ちゃんの見えるところに居ることは出来ない。奏ちゃんのことをずっと見守ることができるのは優奈しかいない。

 不安に思っている優奈の両肩を俺はそっと押さえる。

「大丈夫、何かあったら俺にメールしてこい。俺も授業が終わったら真っ先に二人の所に行くから」

「うん、私……頑張ってみるよ」

「ああ、頼む」

 だが、優奈はその場を動こうとせず俺の方をじろじろと見ながら、

「お兄ちゃん」

「……どうした?」

「変なこと訊くけど、さ……。もし、私が奏と同じ立場になったら、お兄ちゃんは私のことを同じように助けようとしてくれる?」

 さっきまで浮かべていた涙を流しながら、優奈はそんなことを訊いてくる。たぶん、自分にかかっている重圧に負けそうになっているのかもしれない。

 俺はそんな妹を安心させるために、少し笑いながら、

「何言ってるんだよ、当たり前だろ」

「そっか、良かった」

「……もう大分遅くなったな。明日も学校あるから、そろそろ寝よう」

「うん、分かった。おやすみ、お兄ちゃん」

「ああ、おやすみ」

 優奈が部屋を出て一人になった瞬間に、どっと疲れが俺を襲ってきた。何だか今日は肉体的にも精神的にもタフな一日だった。

 やはり高校でも虐めはあるものなのかと思い知らされる。ないことに越したことはないけれど、人同士のことだからそれは無理なんだよな。

 入浴をすると一段と眠気が増してくる。

 俺はすぐに歯を磨き、部屋に戻ってベッドに寝転がると、そのまま眠りについたのだった。

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