第10話『詮索』
今日も空は快晴だ。うららかな日差しが降り注いでいる。
弁当を持って外に出ると優しい温もりが身を包み始める。
「三人ともいってらっしゃい」
母さんは手を振りながらそう言った。
『行ってきます』
三人で声を合わせて返事をした。そして、学校へ向かって歩き出す。
平日の朝のこの時間帯は車の交通量も少なく、三人横に並んで歩くことが出来る。ちなみに右から奏ちゃん、優奈、俺という並び方だ。
「だいたい家から学校までどのくらいなんですか?」
「ゆっくり歩いて十分ちょっとかな。だから、もう少し遅く家を出ても大丈夫なんだよ」
「私の家はもう少し近かったかな……」
「たしか、駅の近くだったよね。俺、昨日は駅の近くの本屋に寄ってから帰ってきたからね」
「そうです。私の家はこの住宅街の玄関口みたいな場所にありましたから」
「……ってことはこの辺の道は知らないってことだよね」
「そうですね。ここら辺は昨日が初めてです」
閑静な住宅街のいいところは文字通り、閑静であるところ。高級住宅街であり、その中には自然もあってか雰囲気はなかなかいい。
この時間にはあまりいないが、ご近所さん同士でお話という光景も見られる。
そして、悪いところ。知らない道に入ってしまったら、自分がどこにいるのか分かりづらくなるところだ。幸い、駅の周りの高いビルがこの住宅街の大抵の所からは見えるため、方向自体は見失いにくいらしいのだが、住宅街の中にある家に行きたいときには、知らない人だけでは辛いこともある。
「じゃあ、今日は一緒に帰ろうか」
「まったくお兄ちゃんは気が早いなぁ……」
「いや、きっと道が分からないだろうから一緒に帰った方がいいかと思って」
「それはそっか」
「ここら辺の道、慣れればどうってことないけど初めての人にはけっこう迷路じゃん」
「まあ、そうだね……。道は広いけど」
「優奈は先週一週間で大丈夫だっただろ?」
「私は別にこの近所のことは分かってるから。高校の近くでは少し不安だっただけどね」
優奈も納得してくれたらしい。
まあ、本当にここら辺の道は知らない人にとっては出口のない迷路のようなものだから。優奈もまだまだ高校までの道は慣れていないようだし、俺がしっかりとしないとな。
「ということで、奏ちゃん。帰りはそれでいいかな?」
「はい、ぜひお願いします」
「分かった。じゃあ、放課後に奏ちゃんの教室に迎えに行くから……ね」
「隼人さん、どうしましたか?」
「……い、いや……ちょっと寒気がしただけだよ」
「今朝はちょっと寒かったですからね」
いや、天気とか気温とかの問題じゃなくて……遠くから徐々に見えてくる幼なじみの姿で何故か身体に震えが来たんだよ。何故だ? 嫌な予感しかしない。
しかし、近くに迂回路はないし忘れ物と嘘をついて帰ってしまっても、後々あいつに何か言われるだろうし。
しょうがない、このまま行くしかないか。
俺はあいつ……彩音の距離まで少しずつ近づいていく。
もちろん、優奈と奏ちゃんは俺の今の心境を知ることはないので普通に歩いていく。
そして、彩音が俺達に気づいた。元気に手を振ってくる。
それに対して優奈は元気良く手を振るが、俺はそんな気にもなれず……。軽く右手を挙げたところで彩音の家の前に着いた。
「おはよう、隼人、優奈ちゃん」
「おはよう! 彩音ちゃん!」
「……お、おはよう。彩音」
俺はできるだけ彩音から眼を逸らす。
「……? あれ?」
当たり前であるが彩音は奏ちゃんのことに気づき、奏ちゃんの前に立つ。そして、俺に訊いてきた。
「……ねえこの女の子、だれ? 優奈ちゃんの知り合いの子?」
まあ、普通はそう思うだろう。あと、奏ちゃんに指を指して訊くな。
「あのさ、色々と事情があって昨日から一緒に住むことになったんだよ」
「……えっ?」
「……えっと、奏ちゃん。こいつは俺の幼なじみの水越彩音。それで、彩音。この子の名前は桐谷奏ちゃん。見た通りうちの高校の生徒だ」
「へ、へえ、そうなんだ……」
どうやら、彩音は目の前の現実をまだ理解できていないらしい。その証拠に奏ちゃんのことを何か疑っているように凝視している。
しかし、そんな状況でも奏ちゃんは、
「えっと、は、は、は……初めましてっ! 新垣さんのお宅で住まわせてもらうことになりました桐谷奏と申しますっ! クラスは優奈ちゃんと同じで一年二組ですっ!」
俺の時と同じようにぎこちなく、大きな声で自己紹介をした。何だか初々しくて可愛らしいな。
「ご、ご丁寧にどうも。私は水越彩音。隼人との関係は言われた通り、小さい頃からの幼なじみ。私のことは奏ちゃんの言いやすい呼び方でいいよ」
「は、はいっ! その、宜しくお願いしますっ!」
初対面の人なので奏ちゃんは顔を赤くしながら彩音と握手している。
良かった、彩音も快く迎えてくれているようだ。まあ、緊張した所為で出てしまった奏ちゃんの大きな声に少し驚いているようであるけど。
「そっか、優奈ちゃんと同じクラスなんだね」
「そうです」
「そんなことって本当にあるのね……まるで漫画みたい。私、友達の家に住むことなんて想像したこともないよ」
いや、普通は想像しませんって。それに、普通はそんなことはありませんって。
「奏ちゃん、隼人に変なこととかされてない?」
「いきなり何を訊いてるんだよ、俺は何も変なことはしてない」
「いくら女の子みたいな顔立ちしてるからって、年下の女の子が家に来たら何か疚しいことでもしてやろうって考えてるんじゃないの?」
「今の言葉の全てが俺にとって耳障りな言葉だな……」
俺にとっては何だか『後輩』が家に来たって感覚があるからな……。同じ部活とか委員会とかで関わっている訳じゃないんだけど。あと、優奈と同じクラスだっていうのが更に『後輩』というイメージに拍車をかけている。
彩音のそんな失礼な質問に……おいおい、何でそこで少し恥ずかしそうな表情をしているんですか、奏さん。可愛いから別にいいんだけれど。
「そ、その……し、下着を見られそうになったくらいです!」
『なっ……!』
俺と彩音がそう叫んでしまう。
ていうか、奏ちゃん。君はどうして勘違いされるようなことを言ってしまうんだ。現に、俺は彩音に胸倉を締め上げられているし。
「どういうこと? し、下着を見られそうになったって……。は、隼人でもやっていいことと悪いことがあるんだよ!」
俺はバレー部で培ったであろう両腕の力で身体が揺らされる。
「ちょっと待て! 彩音の想像しているそのシーンは実際にはないことだ! 俺はただ昨日……奏ちゃんの引っ越しの手伝いをしていて、荷物を開けたらたまたま下着の入っていた箱が当たってしまったわけで。そうだよね? 奏ちゃん」
「は、はいっ! 隼人さんは全然悪くありません!」
奏ちゃんは俺の前に立って必死に言ってくれた。
ああ、本当に奏ちゃんはいい子だな。頭でも撫でてあげたい気分だ。
「……優奈ちゃん、今のって本当?」
「本当だよ、私もその場にいたから。むしろお兄ちゃんは見える寸前に気づいたみたいで私たちに渡したくらいだから」
「……だったらいいけど」
俺はようやく彩音から解放され、彩音の家の前から歩き出す。
冷や汗を掻いてしまったし、ある意味で清々しい朝になったな。
「隼人に何か変なことをされたら遠慮なく私に言ってね! その時は容赦なく隼人のことを調教してやるから」
「は、はい。その時は喜んで。隼人さんには必要ないと思いますけど」
「おい、俺はもはや動物扱いか」
「だって、今の話が本当だったら調教してあげようと思ったもん」
「……知りたくもないけど、ちなみにその調教ってやつはどんな感じなんだ?」
俺が彩音にそう訊くと、彩音は急に頬をかあっ、と赤くさせて、
「そ、そ、そんなの教えられるわけないでしょ! 何で訊くかなぁ……」
と、叫んだ。心なしか彩音の歩く速度も少し速くなった。
「……すみませんでした」
つうか、既に何かをやらかしてしまった体で話してしまっている。俺は特に何もしてないからな。
「それでも、この時期に引っ越しなんてね。きっと急な転勤でもあったんだね。お父さんやお母さんと離れて寂しくない?」
「え、えっと……」
彩音の奴め、奏ちゃんに何てことを言うんだ。まあ、そういう風に言っちゃうのはわかるけどさ。奏ちゃんの持っている例の『未知の病』について知っている人間としてはこのような類の話題を振らせたくなかった。
奏ちゃんは少し悲しそうな表情をしながら、
「寂しいですけど……優奈ちゃんや隼人さんがいますから」
と、言った。でも、俺や優奈を見るときの顔は微笑んでいるように思えた。
「そっか……」
「お父さんとお母さん海外転勤でニューヨークに行ったんです」
「おっ、それは俺も初耳だな」
俺の父さんもアメリカのニューヨークの方で単身赴任している。ということは桐谷さん夫婦と向こうで会っている可能性もあるのか。
「ニュ、ニューヨークって凄くない?」
「一応、うちの父親も海外へ単身赴任しているんだが」
「でもやっぱりすごいよ。今は海外に進出する時代だもんね」
「それで、私のお父さんが昔から、隼人さんと優奈ちゃんのお父さんは信頼できる人だって言っていたので、この度住まわせてもらうことに……」
俺と優奈がいるからか、奏ちゃんは急にかしこまって話した。別に父さんがそこまで凄い人とも思えないんだけどな。単に、海外へ単身赴任してることを除けば普通の父親だと思う。
「なるほどね……」
「奏ちゃんの言った通りだ。これから、俺達は毎日三人で来ることになる」
「ふうん、そっかぁ……」
彩音は妙に軽く返事をした。まあ、新垣家の住人が一人増えたところで、彩音にとってはそこまで代わり映えしない生活だからな。
「ねえ、奏ちゃん」
彩音は奏ちゃんに呼びかける。
「はい、なんでしょう?」
「もし、運動が好きならうちのバレー部に来てみて。それで、入った暁には一緒に隼人が入部してくれるように頑張ろうね」
「えっ、えっ……?」
いきなり訳の分からない勧誘をされたからか、奏ちゃんは戸惑っている。
「つうか、何で最終目的が俺を勧誘することなんだよ。普通は全国大会に出場するとかそういう感じだろ?」
「私……一度も隼人のこと諦めたつもりはないんだよ?」
まったくこいつは。
よりによって奏ちゃんの前でそんなことを言わなくたっていいだろうが。奏ちゃんが悪ノリしてそっち方向へ本気になってしまったらどうするんだ。
「は、隼人さんっ!」
「ん? どうかしたの?」
「隼人さんはだ、男性ですよね? その……本当に失礼なことを訊いてしまってすみません。女の子みたいに可愛らしい顔立ちをされているな、と初めて会ったときからずっと思っていたので」
奏ちゃんは本当に申し訳なさそうにそう言ってきた。
おいおい、何だか奏ちゃんまでに言われると、一気に男として生きていく自信が消失するよ。俺、そんなに女子っぽいのかな。
「……俺はれっきとした男の『子』だから。確かに、男っぽくはない顔立ちだっていうのは自覚してたけど、さ……」
「あ、あううっ……! 隼人さん、本当にごめんなさい!」
「ううん、いいんだよ。俺もそういう事を言われるのは慣れてるし。とにかく、彩音の勧誘はきっぱりと断っても良いんだからね」
俺がそうアドバイスをすると、奏ちゃんは少し速く頷いて、
「あ、彩音さん! 私はその……運動があまり得意ではないので、きっと入部しても足を引っ張るだけになってしまうだけだと思いますし、その……文芸部に入ろうと思っているので、その……ごめんなさい」
丁寧に彩音の誘いを断った。あくまでも自分を低い立場にして。
そんな奏ちゃんの断りの弁に、彩音は気を悪くしてはいなそうだった。
「まあ、入りたい部活がもうあるならそれに入った方がいいよ。あと、隼人って奏ちゃんの頼みなら訊いてくれそうだから、隼人を女子バレー部に入部させるのを手伝ってくれない?」
「えっと、その……」
「おい、奏ちゃんが困ってるだろ。冗談はこのくらいにして……」
「隼人、冗談なのは隼人自身なんじゃないの?」
「俺をどうしても女子として振る舞わせたいのかあんたは!」
やれやれ……今日もある意味でガールズトークは繰り広げられることになった。奏ちゃんはくすくす、と笑っている。
「さすがにお兄ちゃんが可哀想になってきた」
「ゆ、優奈……」
「別に私はお兄ちゃんのことが好きだとかそういうことじゃないよ? だけど、その……やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんのままがいい」
やっぱりというところが気になるが、妹ってこういうことを言ってくれるから心強い。何だか泣きたくなってくるな。
「まあ、優奈ちゃんに免じて許してあげようかな」
「……俺、何か悪いことした?」
「まあ、入ってくれないのは分かってことだし」
「俺が男だって分かっているなら、普通は分かることだけどな」
「誰か強い人入ってくれないかな……」
俺の言葉には聞き耳を立ててくれないようだな。
「ていうか、強い生徒を入れるんじゃなくて、入ってきた生徒を彩音が強い選手に育てていけばいいんじゃないか?」
「隼人……」
「バレーボールは複数人でやる種目だし、それが先輩としての役目なんじゃないか? まあ、自分の実力を上げるのが第一だとは思うけど」
「そうだよね……」
「バレーやりたい人間がいたら自然に部活に来るって。それでいいじゃないか」
男の俺なんて誘わないでさ。彩音のいるところは女の園なんだし。
彩音の歩く速さが少し遅くなり、後ろから小さい声で何やら言っているように思えるけど、何を言っているのかははっきりとは分からない。
それもだいたいは想像付くけど。まあ……ここはそよ風がどこかへ持ち去ってしまったということで何も言わないでおこう。
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