第9話『奏のいる朝』
いつも同じ朝の日差しがカーテンの隙間から差し込む。
目を開けると部屋の中はうっすらと明るくなってきている。
時計を見ると午前七時五分前。家を出るまでゆっくりしたいならそろそろ起きた方がいい時間だろう。
「起きるか……」
身体を起こし、ゆっくりと伸ばす。
昨日の疲れはだいぶ取れたみたいだ。九時間くらい寝たから体力はほどほどに回復している。
カーテンを開けると日差しと共に青空が目の前いっぱいに広がる。閑静な住宅街であるため、窓を開けると小鳥のさえずり良いBGMとなって爽やかである。
自分の部屋を出て洗面所に向かうと、そこには昨日まで見られなかった光景があった。
そう、そこには顔を洗い始めようとしていた奏ちゃんがいた。
「奏ちゃん、おはよう」
「隼人さん、おはようございます」
「けっこう早いね。いつもこのくらいの時間に起きるの?」
「ええ。あと、昨日は緊張しちゃって寝るまでに時間かかっちゃいました」
「引っ越した日の夜ってなかなか眠れないよね」
「もうすぐで終わるので……待っていてもらえますか?」
「ああ、分かった」
俺は洗面所の外に出る。
それから一分ぐらい経っただろうか。中から奏ちゃんが出てきた。
「お待たせしました」
「眠気は覚めた?」
「ええ。今の時期はまだ水がけっこう冷たいので……一気に覚めちゃいました」
「そっか、たしかにスッキリしてるように見える」
「うふふっ、隼人さんどうぞ」
「ああ」
俺は洗面所で顔を洗い出す。確かにこの時期の朝の水は冷たい。奏ちゃんも一気に眠気が覚めるのは分かるな。
「冷てぇな……」
この冷たさだと洗いたくなくなるな。手が凄く痛い。
お湯にしてから洗えば良かったと微妙に後悔する。
「よし、スッキリした」
でも、痛いほどの冷たさを乗り切ったおかげで気分も思いの外スッキリとなって。
さあ顔でも拭きましょうか、と思った。
洗面台の横にかかっているタオルを手に取る。しかし、そのタオルは少し水分を含んでいるように思える。
「もしかして、さっき奏ちゃんが……?」
そうか、このタオルで奏ちゃんが濡れた顔を拭いたんだな。
そのタオルで顔を拭くとなると少しだけ抵抗感が湧いてしまう。優奈だったら別に躊躇なく拭くところなのだが……。
ちらっ、と後ろに振り返って誰もいないのを確認して、俺はそっと顔をそのタオルで拭く。うん、奏ちゃんが拭いたからって、普段と特別違うことはありませんでした。
その後歯磨きをして、これで口の中もスッキリした。うん、清々しいな。
「変に意識しすぎか」
俺はそう割り切って自分の部屋に戻り、制服に着替える。
ズボンとワイシャツを着たところで再び自分の部屋から出ると、起きたての優奈とばったりと出会う。
「むにゃっ……お兄ちゃん。おはよう……ふああっ……」
「お、おう……おはよう。なんだ? 眠れなかったのか?」
「ううん? 違うよ。まだ寝足りない……」
「昨日はあれからすぐに寝なかったのか?」
「ちゃんと寝たんだよ……? やっぱり荷物の整理した疲れが残ってるのかな。ふああっ……お兄ちゃん、今日もよろしくねっ……」
「後半部分が納得いかな――」
「してくれるよね……?」
優奈は俺の話を遮りやがった。
しかし、俺まで眠気が移ってきそうな表情の優奈から悪気は全く感じない。というか、悪気とかそれ以前の問題だろうけど。きっと寝ぼけてるんだろうな。
というよりも昨日髪を結んであげてしまったのがまずかったのだろうか。下手するとそれが当たり前になってしまう。
まあ、自分の優奈に対する甘さが全て悪いのだと結論づけて、
「しょうがないな、今日だけはやってやるから。とにかく顔洗ってこいよ。奏ちゃんはもう起きてるぞ。俺は先に朝飯食ってるから」
「うん、分かった……」
優奈はここまで朝の弱い人間だっただろうか? まあ、高校生活とテニス部の練習にまだ身体が慣れていないんだろうな。
そういや奏ちゃんって何か部活に入るつもりなのかな。ピアノじゃ吹奏楽部で演奏できないからなぁ。
まあ、一年生は仮入部の期間でもあるし、中には転々と部活を渡り歩く生徒もいる。俺は去年そんなことはしなかったが。
俺も何か部活に入った方がいいのかと時々思うことがある。まだ二年の初めだし、文化部のどこかなら入っても大丈夫な気がする。まあ、その気になったら考えてみることにしよう。
リビングに行くと既に朝食の配膳がされていた。あとは御飯と味噌汁をよそうだけになっている。これは毎日同じだ。
しかし、食卓を見て普段と違うのは四人分の配膳がされていることだ。夕飯だけならまだ現実味が帯びていない感じだったが、朝食もそうだと本当に奏ちゃんが引っ越してきたのだと実感する。
「隼人、奏ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「おはよう」
奏ちゃんも下りてきたようで、優奈には悪いが先に朝食を取ることにする。母さんが俺と奏ちゃんに御飯と味噌汁をよそう。
「ありがとうございます」
ご丁寧に奏ちゃんは礼を言っている。そして、奏ちゃんが俺の正面に座ることはもう決定したみたいだな。彼女は軽く微笑み朝食を食べ始めた。
「美味しいですね、隼人さん」
「あ、ああ……美味しいね」
夕飯に美味しいという言葉を言うことはあるけど、思えば朝食に美味しいと言ったことなんて最近あっただろうか。
俺はこの朝食を食べることが当たり前になっている。
だけど、奏ちゃんにとってはこの朝食も、そして今日からの多くが新しいことなんだ。だから、奏ちゃんは俺達にとってありきたりなことでも有り難く思い、それが自然と言葉に出るのかもしれない。
朝食を食べている間に、奏ちゃんにさっき訊きたいと思っていたあのことについて言ってみよう。
「奏ちゃん」
「はいっ、なんですか?」
「そういえば、奏ちゃんって何か部活に入る予定なの?」
「ええと、文芸部の方に……」
「文芸部か……たしかに本棚に小説もあったよね」
「ええ。軽音楽部にも入ろうかと思ったのですが……やはり本を読む方が好きなので」
「そうか。でも、軽音楽部ならキーボードでバンド参加もできるんじゃないか? まあ、ピアノとはまた違うのかもしれないけど……」
「それも考えたのですけど……」
そう言うと、奏ちゃんは口ごもってしまった。
しまった、何か言いづらいようなことでも訊いてしまったか?
「まあ、自分の好きな所に入るのが一番だよな。変なこと訊いてごめんね」
俺が少し笑いながらそう陳謝すると、奏ちゃんはやんわりと笑みを浮かべてくれた。
「いえいえ、隼人さんは悪くないですよ」
「……ありがとう。そういえば、文芸部って今日の放課後にあるの?」
「今日はありません。週に二回活動があるみたいで……」
「ああ、確かに文化部だと週に一、二回の部活は多いね。あとは何かを創る部活だったら家で自主活動っていう所もあるんだ」
「文芸部は文化祭を中心に会誌を出すみたいです。最初は二・三年生なのですが、少しずつ一年生の書いたお話を載せるらしくて……」
何だか、『お話』って言うところが奏ちゃんらしいな。
陽山高校では文芸部の発行した会誌が部活棟の入り口に置かれている。規模もそれなり大きいため、会誌の発行する機会を増やし、一人でも多くの部員に会誌に参加させる機会を設けているらしい。
その会誌もなくなってしまうことはないものの、毎回九割程度は生徒の手に渡っていることもあって、この体制が難なくすることができるのだとか。
そんな実績のある文芸部は、いわば文学少年や文学少女の憧れの場である。陽山高校の隠れた人気の部活とも言われている。
「だから、私も入ったらお話を書くことになるのですが……」
「そうか。会誌だから短い話を書くんだろうね」
「私なんかにお話を書くことができるのでしょうか……」
「そ、そうだね……」
思わず箸が止まってしまう。
果たしてどう言えばいいんだ? 俺は小説なんて現代文の授業で短編を書かされた以外では書いたことないぞ。
その時のことを必死に思い出してみるけど、苦労したことしか覚えてない。いざ書こうとすると、意外と書けないんだよなぁ。
「でも、本を読むことが好きなんだからきっと書けると思うよ」
「そうでしょうか?」
「本が嫌いな人よりもきっと書ける。それは断言する」
「ちょっと強引な気がしますけど」
ごもっともなことを言われた。俺もそう思っているよ。
「でも、隼人さんがそう言うのですから、きっとそうだと思います」
奏ちゃんは優しく微笑みながらそう言った。素直で可愛いなぁ。優奈も奏ちゃんのこういうところを見習ってほしいくらいだ。
そんなことを思っていると、当の本人である優奈が制服姿でリビングに入ってきて、俺の左隣の椅子に座った。さっきの約束があるためか髪は整っていない。
母さんは手早く優奈に御飯、味噌汁、そして麦茶を出し、優奈も朝食を食べ始めた。
「……美味しい」
優奈はそう静かに呟く。
「お兄ちゃん、あとで髪……ちゃんとやってよね」
「分かってるって」
俺は妹の使用人か。自分でできることは自分でやればいいのに。
まあ、俺が優奈の髪をどう整えても、文句をあまり言わないところは嬉しいんだけどな。だから、俺は髪を結ぶこと自体は嫌だとも思っていない。
「だったらちょっと早めに食べ終われよ」
「分かったわよ」
その途端、優奈は朝食をがつがつ食べ始めた。
おいおい、そこまで早く食べろとは言ってないだろ。あと、女子としての恥じらいを知ってくれ。奏ちゃんも驚いてるだろうが。
下手したら俺よりも先に食べ終わってしまいそうな勢いだった。女子高生限定の早食い競争でもあればなかなかいい線行くかもしれない。
「って、感心してる場合じゃない。俺が食べ終わらなきゃ結んでやれないな」
「別にお兄ちゃんは食べ終わってようが別にいいの」
「……自分勝手な奴だな。お前は頼んでる身だっていうのに」
「お兄ちゃんは私のことを考えてくれてると思ったんだけどなぁ……」
今までは許してやっていたが段々と許せなくなってきた。
妹の髪を結んでやってくれる兄貴なんてそうはいないだろ。俺は優奈のことを考えて髪を整えているつもりなんだぞ。
と、声に出せたらいいのだが朝から喧嘩はしたくないし……それに、奏ちゃんの前でそんなことをしてはいけない。と、思ったのだが、
「あの、喧嘩はその……い、いけないと思いますっ!」
勇気を振り絞って奏ちゃんは言ったのだろうか。その声は震えていた。しかも、ちょっと泣きそうになってるぞ。
「け、喧嘩なんてしてないよな、優奈」
俺は優奈の顔をちらっと見て、眼で合図を送る。
「……うん。別に……私はその、お兄ちゃんが結んでくれるならそれでいいから、その……ごめん」
「……結んでやるから、早く食べろよ」
俺達三人の箸がそれぞれゆっくりと動く。
その後、優奈も奏ちゃんも話しづらい空気の中で朝食を食べ続けていた。……奏ちゃんには悪いことをしてしまったな。
朝食を食べ終えてリビングの時計を見てみると、家を出るまで思ったよりも時間があった。
俺は優奈に連れられて優奈の部屋に入る。鏡を見ながらドレッサーの前に座っている優奈の髪を整える。
「今日も部活はあるのか?」
「うん。平日の放課後は結構あるかな。まあ、遅くまでは練習はしないんだけどね」
「そっか。……ところで優奈。テニスをするときにこの長い髪って邪魔になったりしないのか? ボール打ってるときとかに結構邪魔そうな気がして」
「別に腰くらいまで伸びてるわけじゃないし。全然平気だよ」
「たまにさ、長い髪が邪魔だからってポニーテールに結ぶ女子とかいるだろ。優奈もポニーテールにしたいのかなって思って」
俺がそう言うと、優奈は軽く首を横に振った。
「……ううん、それはしないつもり」
「どうしてだ?」
「だって、この髪型気に入ってるから」
「毎日同じような髪型だぞ」
「別にいいじゃん。だって、それにお兄ちゃんがせっかく結んでくれているんだもん、崩したくなんかないよ」
優奈は鏡越しに微笑みかけてきた。
うん、今以上に妹が可愛いと思えたことはない。何だか普段から今くらいに素直だったらいいのに、と思う。
でもそうか、この髪型が気に入ってるのか。ちなみに普段から優奈の髪型はツインテールだ。もちろんこれは俺の趣味云々ではなく優奈自身が自分で考え、いいと思った髪型らしい。なので、俺はそれに準拠している。
髪を櫛でとかしているのだが、本当に優奈の髪は柔らかいな。確かに、この長い髪を切りたくもないだろう。
そして、妹の髪型をツインテールにしたところで、
「よし、これでいいか?」
「ありがとう、お兄ちゃん」
俺は両手で優奈の両肩をポン、と一回軽く叩きゆっくりと立ち上がった。
「今日からは三人で出発するんだね」
「そうだな」
「じゃあ、行こっか?」
「そろそろいい時間だな、行くか」
優奈の部屋の時計を確認すると八時手前だった。
俺は優奈と部屋を出て、自分の部屋から鞄を持ってくると奏ちゃんは部屋を出てきたところだった。
「隼人さん、そろそろ学校に行きますか?」
「ああ、もうすぐ行こうって話だったんだ。優奈の髪のセットも終わったことだし」
「優奈ちゃん、可愛いね!」
「そ、そう?」
「俺のおかげだな」
「……まあ、別に認めてあげないわけじゃないけどね」
嘘つけ、それなりに認めてるだろ。
奏ちゃんはそんな俺達のやり取りに笑みを浮かべており、俺と優奈もそれにつられて自然と笑顔が浮かぶ。
これは昨日までじゃできないことだったな。
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