第8話『引越初夜』

 午後九時過ぎ。

 食事が思った以上に長引き、二十分くらい前に終わった。

 今は優奈が風呂に入っているところだ。食休みを兼ねて俺はリビングで奏ちゃんと二人きりでゆっくりとしていた。

「夕飯、とても美味しかったです」

「それは良かった」

 俺は奏ちゃんと並んでソファーに座っている。俺の右側に奏ちゃんの笑顔がある。

「あのはまぐりのお吸い物は隼人さんが作ったんですよね?」

「ああ、そうだけど」

「とても美味しかったです、その……今度、作り方教えていただけませんか?」

「いいけど、どうして?」

「そ、その……恥ずかしい話ではありますが、隼人さんにお作りしたいなって……」

「照れるな。俺はそんなにたいしたことをしたつもりはないんだけど」

 俺は笑いながら言った。

 それに対して返事をするかのように奏ちゃんはくすっ、と笑う。

 しかし、今の会話も端から見ればまるで女子同士の会話のように感じられるな。料理は好きだけど、よくよく考えると女っぽい。優奈が全然料理できないから、尚更自分が女っぽく感じてしまう。……幾分悲しい。

「四人で食事をするのは初めてでした」

「奏ちゃんには兄弟はいないの?」

「ええ、私だけです。なので、普段も平日はお母さんと二人で食事をしていました。あっ、でも土日は家族三人で食べていましたよ」

「そういう家庭もあるよね」

「なので、四人で食べるのは初めてなんです。優奈ちゃんが羨ましいです」

「うちだって、奏ちゃんが来るまで三人の食事だったよ? 父さんも数年前に海外転勤しちゃったし」

「でも、やっぱり……」

 奏ちゃんは俺の方を向き、奏ちゃんの左手が俺の右の太ももに触れる。

「隼人さんがいるなんて、羨ましい……。だって、優しいじゃないですか」

「奏ちゃん……」

 なんて可愛らしい子なんだろう。

 一度で良いから優奈にそんなことを言われてみたいよ。シスコンって思われるかもしれないけれど。兄である以上、一度は言われてみたいものなんだよ。

「兄弟が欲しいなんて思ったことはなかったんですけど、今日初めて欲しいって本気で思っちゃいました」

「そうか」

 確かに、一人っ子でも兄弟の多い友達を持つとそれを羨ましがる子供もいるからな。そう思うと兄弟の存在は大きいのかもしれない。

「あー、気持ちよかった」

 リビングに寝間着姿で登場する優奈。バスタオルを首に掛けている

「奏、お風呂空いたから好きな時間に入ってね」

「うん」

「俺のことは気にしなくていいから、優奈の言う通り好きな時間に入って良いよ」

「分かりました。でも、私、引越しで疲れてしまったので今すぐに入ります。お先に入ってもいいですか?」

「いいよ。俺のことは気にしないでいいから、ゆっくり入ってきて」

 まあ、男よりも前に入りたいよな。俺は普段から最後に入ってるのでそこの所は大丈夫だ。

 奏ちゃんは立ち上がってリビングを出て行った。夕飯の後、すぐに優奈が家の中を案内したので多分大丈夫だと思う。

 優奈は冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出し、ガラスのコップに並々と注いだ。半分くらい飲んだところでソファーに来て、俺の隣に座った。

 あまり拭いていないのか、優奈の髪には水滴が多少付いている。触れてしまえば俺の肌にも水分が伝わってきそうだ。

「奏に変なことしなかった?」

「……してないよ」

「怪しいなぁ」

 なんでそんなに面白げな顔をしてくるんだよ。

「そういえば、クラスメイトが家に住むことになるってどういう感覚だ?」

「そうだね……。不思議な感覚かな」

「不思議、か」

「今日、家に帰ってくるまではただのクラスメイトだったのが、急に家族みたいになって……正直、とまどってる」

「たぶん、それは奏ちゃんも同じだと思うな」

「先生に奏が家に引っ越してくるって聞いたときは嘘でしょ? って思った」

「俺なんて教えてくれなかったぜ……」

「先生、お兄ちゃんのことあんまり気に入ってないんじゃない?」

 いいや、訳あって言えないけど俺は気に入られているんだよ。

 しかも、それを俺に言うために二人きりになったほどだ。だからかもしれないけど、俺は一切引っ越しのことは言われずに奏ちゃんと出会った。

「ていうか、随分と酷いことを言ってくれるな」

「ごめんごめん。だから今日は部活、ストレッチと少し練習したら帰ってきちゃった」

「なるほどな。だから今日は早めだったのか」

「うん」

 まあ、家にクラスメイトが来るとなれば当たり前なのかな。

「俺にとって今日という日は、今年で一番印象に残る一日になりそうだ」

「私も、かな……」

「少しくらいは俺たちに前から言っておいてくれれば良かったのにな」

「それは私も同感」

 はあっ、と深呼吸をして、身体を伸ばす。

 本当に今日は色々とあった一日だった。久しぶりに充実して……いや、充実しすぎて疲れた一日であった。先生には禁断の告白をされ、後輩の女子が家に引っ越し。たぶん今度一切、これらに匹敵することが同じ日に起こることはないだろうね。

 そうだ、奏ちゃんのいない間にあのことについて話しておいた方がいいかな。

「優奈、今のうちに話しておきたいことがあるんだ」

「なに?」

「……奏ちゃんのことなんだけど」

「うん」

「……え、ええと……」

 と、自分から言っておいて言葉が詰まってしまう。

 ――このことを優奈に言ってしまっていいのだろうか。

 いや、でも一緒に住む人のことなんだからちゃんと言うべきだろう。

「奏ちゃんは……病気を持っている」

「えええっ!」

「大きい声を出すな、奏ちゃんに気づかれる」

「ど、どういうこと? もしかして死んじゃうの?」

「おいおい、何を泣こうとしてるんだ! 大丈夫、死ぬ病気じゃないから。奏ちゃんは医者でも診断できない未知の病を持っているらしい」

「未知の病、って相当危ないんじゃ?」

 まあ、それは妥当な意見なんだろうけど。

「……俺にもよく分からない。なんせ、未知の病だからな。どんな症状を引き起こすかも分からないし、それが起きるきっかけも兆候もはっきりとは分からないらしい」

「でも、奏……何か病気を抱えるなんて思えないよ」

「ああ。だから、優奈もこのことについては頭に入れて欲しいと思って言っただけだよ」

「でも、その病気の症状が現れると奏はどうなっちゃうの?」

 優奈は上目遣いをして俺に訊いてくる。気付けば、さっきの奏ちゃんよりも体を密着している。

「ごめん、俺には何も言えない。何もかもが未知の病なんだ。ただ分かっているのは、精神的なものであるだけで」

「そんな……」

「でもな、優奈。奏ちゃんは病人としてではなく、普通の女の子として接して欲しい。あと、学校でもこのことは話さないで欲しい」

「話したら奏に迷惑かかっちゃうもんね……」

 優奈は心配そうな表情をしながらも、しっかりと頷いている。

「終礼までは優奈が奏ちゃんのことを気に掛けてあげてくれ」

「うん、分かった」

「俺もその……通学路に慣れるまでは帰りは一緒に帰るようにするから。部活はちゃんと参加してこい」

「う、うん……」

 今の返事から分かる通り、優奈も少なからずとまどっているようだ。そうだよな、一緒に住み始める人間が医者でも分からない病を持っているなんて、さ。

 しかし、優奈が奏ちゃんと同じクラスで本当に良かった。授業の時はさすがに俺が気にかけられるわけじゃないからな。

「……」

 今、優奈の心には思いがけない重圧がかかっているのだろう。それは特別強く。風呂から出たばかりなのに、表情が青ざめている。

 俺は優奈をゆっくりと抱きしめた。ただ、安心させようとするだけで他意はない。

「大丈夫だよ、大丈夫だから」

「お兄ちゃん……」

「奏ちゃんが家に来て確かにとまどっただろうけど、それよりも嬉しかった気持ちの方がずっと大きいだろ?」

「当たり前、だよ……」

「だったらその気持ちで明日からは臨めばいいから、な?」

「うん」

 もちろん、大きくなってから優奈を抱きしめるなんて事はほとんどなかった。久しぶりに抱いて、優奈の温かさや匂いとか……色々と懐かしかった。

「ていうか、急に抱きつかれちゃうと困るんだけど……」

「ご、ごめん」

「でも、別にいいよ。お兄ちゃんだから」

「……大きくなったな」

 ふとそんな言葉をこぼしていた。

「毎日見てるでしょ? 何バカなこと言ってるの?」

「触れないと分からないもんって、あると思うんだけどな……」

 自然と俺にくっついてしまっているため、優奈の吐息が俺の胸元にかかる。あと、風呂を出たばかりなのか優奈の心臓の鼓動が俺にも伝わってくる。心なしか、かなりテンポが速く感じられる。

「お兄ちゃん、奏に絶対にこんなことしないでよね」

「え?」

「……だから、不要にスキンシップするなってこと」

「端からする気はない」

「それに、その……こんなことしていいのは私だけなんだからね!」

 こういう風に言うのも、妹特有の甘えなのだろうか。もしそうだとしたら、とても可愛い妹です。

「はいはい、分かったよ」

「ならよろしい」

 そして、いつまで俺の胸の中にいるのかね。

 こんな姿を奏ちゃんとかに見られたらどうするんだっていうんだ。優奈のことを早く俺から離さないと――。


「優奈、ちゃん……?」


 遅かったみたいだ。

 優奈の方に向けていた視線を声の主の方へと向けると、そこには風呂上がりの奏ちゃんが真顔で立っていた。

「優奈ちゃん、寝てしまっているんですか?」

「……いや、別に……って、いててっ!」

 腕をつねられた!

 多分、これは優奈が寝ていると思い込んでいるのを利用した方がいいという合図だろう。随分と荒手だが。

「だ、大丈夫ですか?」

「いや、ちょっと足を捻っちゃっただけだよ、ははは……」

「だったら良かったです。何だか凄く痛そうなので……」

「たまに大して痛くないのに無駄に叫んじゃうときがあるんだ。それだけさ」

「そうですか。足、捻っちゃうと痛いですよね」

「うんうん」

 本当はもの凄く痛かったんだよ。

「優奈ちゃんは寝てしまっているのですか?」

「ああ、風呂から出て冷たい物飲んだら……。きっと、今日の疲れが溜まっちゃってたんだろうな」

「……私のせいでしょうか?」

 心配そうな表情をして、奏ちゃんは優奈のことを見る。

「そんなことないよ。今日は色々な事があっただけだよ。優奈も率先して奏ちゃんの引っ越しの手伝いをしてくれていたから」

「……そうですか」

「奏ちゃんも今日は早めに寝な。明日も普通に学校があるんだから」

「分かりました」

「じゃあ、俺は優奈を部屋まで運ばなきゃいけないから……いててっ!」

 またつねったな、さっきよりも痛いぞ。

「また捻っちゃいましたか?」

「……捻っちゃいました」

 奏ちゃんは可愛らしく笑い、リビングから出ようとしていた。

「それでは、隼人さん。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 そして、奏ちゃんは俺の方にやってきて優奈の耳元で、

「優奈ちゃん、おやすみ。今日はありがとう」

 と、静かに呟き、俺に一礼して二階へと上がっていった。

 二階の奏ちゃんの部屋の扉が閉まる音を確認して、優奈のことを素早く離す。

「まったく、空気読みなさいよね!」

「あまり大きい声出すな。奏ちゃんに気づかれる」

「……まあ、上手くやり過ごせたけど。あと、私を本気で部屋まで運ぼうとしたの?」

「別に、俺は奏ちゃんが部屋に戻ると分かって言っただけだ」

「本当に? 怪しいんだけど……」

「兄を信じろ。仮に本当に運ぶ羽目になってもお前に変なことをするつもりはない」

「……まったくもう」

「それはこっちの台詞だ、二回も腕をつねりやがって。痛かったんだからな」

「ご、ごめん」

「まあ、だからこそ何事もなくやり過ごせたから許してやるよ。ほら、優奈も疲れてるだろ?」

「うん、もう本当に寝ちゃおうかって思った」

「……寝たいなら自分の部屋で寝ろよ。奏ちゃんにも言ったけど、明日も普通に学校はあるんだからな」

「はいはい」

「俺も疲れた、風呂入ったら早めに寝るか」

「じゃあお兄ちゃん、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 優奈は駆け足でリビングから出て行った。

 これでようやく一人の時間になった。まあ、あとは風呂に入って寝るだけだが。

 俺は急にどっと来た疲れを少しでも晴らすために風呂を長めに入り、出たら時計は既に午後十時を回っており……早く寝るにはいい時間になっていた。

 まだ授業開始して間もないから宿題も特にないし、何もせずに寝ても全然問題ないな。普段なら漫画とかラノベを読む時間だけど、今日はもうその気にもなれない。俺は部屋に戻ったら電気を消してすぐにベッドに身を投げた。

 仰向けになり、天上をただただ眺める。

 目を瞑ると、今日起こった出来事がまるで走馬燈のように蘇り、鮮明に映し出される。

 綾瀬先生には告白されるわ、奏ちゃんが引っ越してくるわ……。この先の人生、これほどに大きな出来事が重なる日はそうそうないと思う。

「疲れた、寝るか」。

 今日は何だかいつもよりも寝床という存在がとても有り難くて。そして凄く気持ち良くて。何よりも優しい感じがして。

 長い長いとある春の一日はこうして終わりを告げた。

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