第5話『未知の病』
俺がいるからこそ、奏ちゃんをここに住まわせる理由。
利明さんはバッグからファイルを取り出した。中には何か書類だろうか。紙が数枚挟まれているように見える。
ファイルの中から一枚の用紙を俺の前に差し出された。A4サイズだけれど……なになに。
――し、診断書?
意外すぎる代物だな、これは。
「診断書って俺はどこも悪くないですよ」
「おいおい、隼人君は冗談が上手いんだな」
それ、さっきも言われました。
「患者名の所をよく見なさい」
「はいはい、ええと……『桐谷奏』って書いてありますけど。彼女、何か持病があったりするんですか?」
「病名の所に書いてあるはずだが」
俺は利明さんの言われた通りに病名の欄を見る。しかし、
「病名……って言いますけど、『不明』って書いてあるじゃないですか」
「いわば未知の病とも言えるな。精神的なものであるのは分かっているのだが」
未知の病と呼ばれる病気って、な……おい。
そんなことを言っても奏ちゃん、凄く元気そうじゃないか。
確かに緊張しすぎておどおどしている部分もあるけど、未知の病を持っているなんて微塵にも思わなかった。単に、恥ずかしがり屋なのかと思っていた。
「それってうつ病とかではないですよね。奏ちゃんの雰囲気を見ていると」
「ああ。でも、私達の前だからああいう風にしているだけかもしれないし。それは……私からは何とも言えないのだよ」
「未知の病と言っても病気を持っているということは、通院とかはしているんですか?」
「通院はしていない」
利明さんはきっぱりと言ってきた。それは俺にとっては意外だった。
「えっ、どういうことですか?」
思わず俺はそう訊き返してしまう。
「……通院をしても意味がないんだよ」
利明さんは無表情で淡々とそう言った。
それにしても、今の言い方はないだろ。まるで、自分の娘の病気のことをどうでもいいって思っているように感じ取れるぞ。
段々と怒りの念がこみ上げてくる。
「それってどういう意味ですか」
「奏の症状は普通じゃないってことなんだ。医者がどうにもできないほどの」
「だったら、せめてご両親であるあなたたちが側にいてあげるべきじゃないですか。俺、よく分かりませんけど……精神的に患っているなら、きっと寂しさを与えてはいけないんだと思うんです」
「でも、急な海外転勤を断るわけには……」
「ふざけないでくださいっ!」
本気で怒ったの、いつ以来だろう。
さっき知り合ったばかりの女の子のことで、どうしてここまで怒ってるんだろう。
俺は今の怒りの気持ちに任せ、思っていることをそのままぶつける。
「何で病気の娘を一人日本に置いてこうとしているんですか! そんなに海外転勤が大事な事なんですか? 本当に娘のことを思ってるなら、仕事よりも娘を優先するべきじゃないんですか! それでもあなたは親なんですか? 父親として娘を一人にさせる考えなんですか!」
立ち上がり、手振りまで付けて。言っていくうちに熱くなってしまい、ついには我をも見失ってしまった。
でも、そんな言葉をぶつけた後にやってくる、どこから来たのか分からないこの寒気はここから逃げ出したい気分になってしまう。
利明さんは俺がかっとなったことに最初は驚いていたが、黙ってずっと聞いていた。特に怒ることもなく。それは隣に座っている可奈子さんも同じだった。
少しの間、三人の居る空間に何も変化がない。
俺は間違ったことを言ったつもりはない。
同時に俺はなんてことを言ってしまったんだと後悔している。そこに穴があるなら入りたい気分だ。
不穏な空気の中、利明さんの口がゆっくりと開いた。
「私だって分かっているよ。あの時……秀昭は何も言わなかったが、彼も隼人君と同じことを思っていたと思うよ」
「……でも、精神的に患っているなら尚更ですよ。両親がいないっていうのは、きっと彼女にとって不安になることだと思うんです」
「ああ、私たちも辛い」
「……聞き忘れていましたが、俺の存在が奏ちゃんにとって必要なんですか?」
「ああ。……その通りだ」
なぜ、ここまで自信を持って言えるんだろう。この人は。
「それはその……未知の病に関わっていることですか?」
「……おそらくね。それは、私や妻よりも奏と同年代の男子が一番良いと思って。万が一、症状が出たとしても隼人君が一番対処しやすいと思っているからね。それに、隼人君みたいな人間が一人でもいれば奏にとっても普段から心強いだろう」
「……そうですか」
確かに、利明さんの言っていることは正しい。同い年の男子がいれば女子にとっては心強い。あと、同じクラスメイトの優奈という存在もかなり大きいんだと思う。そういう意味では、利明さんも父親としてそれなりに考えて、今回の引っ越しを決断したんだろうな。
「なあに、いずれ分かることだよ」
「……」
なんだ? 今、利明さんが見せた一瞬の笑みは?
いずれ分かる?
とにかく、奏ちゃんは医者でも説明できない未知の病を持っている。それだけはちゃんと覚えておこう。
とりあえず、このことは後で優奈にも教えておかないと。学校ではクラスメイトのあいつの方が接する時間が長いんだし。
「隼人君、奏のことは宜しく頼んだよ」
「私からも宜しくお願いいたします」
奏ちゃんの御両親からここまで深く頭を下げられては、俺も頷かない訳にはいかない。
「はい……分かりました」
俺がそう言うと、二人とも穏やかな笑みを浮かべた。それは、子供を想う親だけが見せることのできる穏やかで温かな笑みだった。
「では、奏と優奈さんを呼んできてくれるかな。私達は八時の飛行機で成田を発つことになっているから」
「そうですか、向こうでも仕事頑張ってください」
「ありがとう、隼人君」
利明さんは俺に握手を求める。
何だかさっきのことがあってか握手しづらいのだが……しないわけにはいかないので俺は軽く握手を交わした。
その後、優奈と奏ちゃんを呼んで……奏ちゃんと利明さん、可奈子さんはしばしの別れをした。
両親を心配させないようにするためか、奏ちゃんは精一杯の笑顔を見せようと努力していた。自分でも病気の存在を分かっていて、それを表に出さないようにしているのだろうか。二人が家を出ると、少し悲しそうな表情をしていた。
でも、奏ちゃんとだったらきっとやっていける。
俺は素直にそう思った。
だって、俺と会ったときに見せてくれた笑顔は本物だったから。
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