第1話『2年3組』

 私立陽山高等学校。

 風見市にある県内有数の私立高校だ。進学率、部活実績、立地条件などの好条件が揃い、生徒数が千人を超えるマンモス校になった。俺や優奈、彩音のように地元の学生もいれば、電車を使い市外から通ってくる生徒も少なくない。

 正門をくぐると、正面に校章と『陽山高等学校』と文字が打ち付けられている高い建物がそびえ立っている。これがA館。三年生の教室や理科実験室、調理室など特別教室が揃っている十階建て。もはや高層ビルだ。

 A館の左側に見える奥に長い四階建ての建物がB館。主に一、二年生の教室がある。生徒や先生の間では教室棟と呼ばれている。

 そして、このB館とA館を大胆に繋ぐ左右に長い建物がC館。主に職員室や面談室、進路指導室などが集まっている。構造の関係か、このC館は二階からになっている。

 この建物の奥に、体育館やテニスコート、屋内プールなど運動施設が充実している。また、多くの部活があるため、部室が集まる部活棟もある。

 学校全体の敷地が東京ドームの二個分の広さに匹敵するらしい。高校ってレベルじゃないだろ。

 俺と彩音は昇降口で上履きに履き替える。

 正面にエレベーターが一つあるが、この朝の人の多さじゃ到底乗れない。なので、俺達のクラスの教室がある四階まで上る。

「一度でいいからエレベーターで上ってみたいよね」

「ああ、そうだな」

「それも多くの人を押しのけて」

「武力行使してまで俺はエレベーターに乗りたくない」

「私が本当にそんなことをすると思う?」

「……彩音ならできるんじゃないか?」

「むぅ。いや、あたしが思っているのはね、みんな私が来るとエレベーターまでの道を通してくれるの。人の溢れるあのエレベーターの前が一瞬にして!」

 あまりにも非現実的過ぎて返答に困る。何て言えばいいのか。

「……そ、それってまるでお嬢様みたいだなぁ」

「そうだね」

「でも、エレベーターはみんなのものだ。そんな夢を抱くぐらいなら並べ」

「現実はそうだよねぇ」

 幼なじみの夢は儚く散ってしまったとさ。いや、散らせたとさ。

「ほら、あともう少しだから頑張ろう」

「うん」

 疲れている彩音の身体を引っ張り上げるように、俺は彩音の手を掴む。彩音の手は少し汗ばんでいるように思えた。

 本当にあと少しだった。五段くらいだろうか。

 あっという間に四階までたどり着いた。

 実際問題、こうして誰かと話しながら上ったりすれば、気づけば四階までたどり着いていることが多い。全力で駆け上がらない限りはそんなにきつくはないだろう。

 俺と彩音のクラス、二年三組は階段を上がって左側にある。

 ようやく自分たちの教室に入った。

 新年度になってまだ日にちがあまり経っていないからか、座席は出席番号順になっている。俺の席は名前のせいか出席番号一番で窓側の一番前の席だ。

「ふう、何だか落ち着くな」

 左側にある窓からはA館とC館、そして風見市の景色が一望できる。これは四階の教室で良かったと思う点だな。

 日光が温もりをもたらしてくれる。朝礼の時間まで少し寝ようか。この暖かさならすんなりと眠れそうだ。おやすみなさい。

 …………。

 ……。


「あ~ら~が~き~く~~ん!」


 耳に入ってくる、俺を呼ぶ声。

 きっと俺の夢は悪夢なんだ。悪夢でもいいから夢であってくれ。

 しかし、悪夢なんかではない。この声は現実の物なのだから。

「何だよ、朝っぱらから」

 叩き起こされたような感覚なので、とても眠くてイライラする。眼をこすりながらゆっくりと開こうとすると、日光のような光で視界を奪われた。

「寝起きの写真いただきましたぁ~! いいねいいね、寝起きの顔最高だよ~」

 テンションMAXだと一発で分かる高い声で言う。

「撮るんじゃない。ったく、毎日何回か写真撮ってるけど……おまえ、何に使おうとしてんだよ」

「それは……企業秘密だ!」

「企業秘密と言えるような企業をお前が設立できると思ってない。そして、今撮った画像の記録を消去しなさい。これは命令です」

「もう、ひどいなぁ。これは個人の範囲で楽しんでるので全く問題ありません!」

 だったら企業秘密なんて言うんじゃねえよ。

 こんな状況が何日も続いているし、今更何を言ったってしょうがないか。

「……もういいや、勝手にしてくれ」

 ため息しか出ない。

 俺にデジカメを向けてくるメガネの男。その名は松木恵介まつきけいすけ。灰色の長髪が特徴的な奴だ。

 向こうは俺を友達だと思っているが、俺はクラスメイトだとしか思っていない。

 この男は大の漫画やアニメ好きでいわゆるオタクである。

 行動が色々と酷い松木であっても、俺にオススメの漫画を貸してくれたり、アニメ作品を教えてくれたりするので、根が腐っている奴じゃないとは思うけど……。

「じゃあ好き勝手に撮っていいなら、今の服装も好き勝手にしてもらうよ! まずはこのセーラー服を着て……ぐはっ!」

 今のはさすがに我慢ならないので、腹部に一発拳を入れてみたりする。

「せっかく、新垣君の女装姿を見てブヒろうと思ったのに……ぐふっ」

「女装させられるのが嫌だっていうのは、普段の俺を見れば分かるだろうが!」

「嫌なことをあえてするところに萌えるんじゃないか! 分からないのか?」

「一生分かりたくないね!」

 やれやれ。『こいつの快感、俺の不快感』ってところか。

 松木は二次元の女の子よりも、その……何て言うんだろうな。女の子みたいな容姿の男の子が好きらしい。世間ではそれを『男の娘』と呼ぶとか。

 二年になって初めてこいつと同じクラスになったけど、始業式の日に俺の姿を見つけてはいきなり、

『男のあなたでいいので結婚してください』

 と、人生初の男からの告白をされ、もちろん俺は断ったのだが携帯の番号とメアドを交換する羽目になった。

 根はいい奴だと言ったのは本当だ。携帯のメアドを交換しても、学校以外の時間ではあまりメールをしてこない。プライベートに深く介入することはしないと分かった。

 だから、多少の写真を撮られることは我慢しているのだが……。

「何が何でも女装だけは絶対しないからな」

「ええ、してくれたっていいじゃない。きっとボク以外にも需要はあると思うから! ボク以外にもきっとブヒってくれると思うから!」

「需要供給の問題じゃなくて、まずは俺のことを考えてくれ」

「新垣君の事を考えると世の中のみんなが喜ばない結果になるんだよ。だって、三次元の女子よりも絶対に可愛くて魅力的だって!」

「……別に俺は今から松木のデジカメをぶっ壊してもいいんだぞ?」

「えっ?」

「別に、お前自身からぶっ壊しても構わないけど、どうする?」

 俺がそう言うと松木の顔から汗が出まくっている。冗談で言ったんだけどなぁ。

 松木は一歩、二歩と後ずさりをしていく。

「新垣君に叩かれるのは本望ではあるけれど……。まあ、寝起きの貴重な写真が撮れたから今日のところはいいかな!」

「是非そうしてくれ」

 ちなみに、俺は寝てないけどな。あと、「今日のところは」ってどういうことだ。

「じゃあ、また明日もよろしく!」

「明日も撮るのかよ……」

 今日はもうないからいいか。というか、何だか今の松木とのやりとりに疲れて、さらに眠気が襲ってきた。ああ、眠い。

 そして周りのクラスメイトの注目を集めてしまったらしい。松木は少し避けられ気味ではあるが。大分登校してくる人も多くなってきた。

「それにしてもまったく……松木の奴は。俺のことが好きだったら俺の寝る邪魔しないで欲しいよな……」

 そんな文句を垂らしつつも、気分を変えて寝ようとする。が、

「よう、新垣」

「お、おう……海堂か。おはよう」

 またしても眠れなかった。もう寝るのは諦めるべきなのか。

「何か廊下歩いてたら、松木が絶叫しながらこっちに走ってきたんだが……何かあったのか?」

「ああ、思い出したくないから訊かないでくれ。というか、そこは察してくれ」

「松木のことだから大方の想像はつくけどな……」

 俺の目の前に立つ、松木よりも常識人であるこいつの名前は海堂翼かいどうつばさ。高校生になってから出会ったけれど、今ではすっかりと親友になっている。

 海堂は男子バスケ部に所属している。持ち前の背の高さと並外れた技術で、エースの座を獲得した。そして、かなりイケメンということで女子からの人気がかなり高い。男子にしては髪が長く、青い髪の色も彼の雰囲気に合っている。

 漫画にもよく出てきそうなスポーツで青春している奴だ。こいつをモデルにして漫画やドラマにでもできるんじゃないか?

「今日も朝練か?」

「当たり前だ。平日は基本朝練有りだ。だから毎日早起きしなきゃいけなくて辛いんだよな……。特に休み明けとか」

「でも、それを一年間もやってきているんだから慣れるもんじゃないのか?」

「普通はそうなんだろうけどな、どうも朝は弱いんだよ。フル稼働するまでに時間がかかるっていうか……」

「朝からフルじゃなくたっていいだろ。スロースタートな奴だっていると思うぜ」

「そうだな、納得だ!」

 と、海堂は右手の親指を立てた。

 毎日朝練をして放課後にも練習があるんだから、さぞかしお疲れなのだろう。たくさん寝ないとやっていけないだろうし。

 そういえば去年、こいつは学力的な意味で進級が危ぶまれていた。その時俺は手助けをしたのだが、原因はやっぱり部活で忙しかったからなのかな。

 それでもちゃんと努力し続け、エースとして活躍し始めたこいつは尊敬できる。今年度の目標はインターハイ出場らしい。頑張ってほしいな。

「なに、新垣君に指なんて立ててるのよ」

「美月か。おっす」

「さっきの話聞いてたけどね、私だって大変なんだから。きっと翼よりも筋肉使ってると思うな」

「嘘つけ、だったら何で最近太り気味なんだよ」

「えっ、ふっ、太り気味……? ど、どこがっ!」

「下っ腹が少したるんできてる気がするぞ?」

 海堂に話しかけてきた女子はそう言われるや否や、俺の方を向いてYシャツを少しめくった。特にたるんでいるようには思えない彼女の下腹部が見えてしまう。

「別にたるんでないじゃない!」

「……そうか? 俺の見間違いだったか?」

「ぐぬぬっ……でも、最近家でお菓子作って食べるのが多くなったから、本当にそうかもしれないわ」

「な、自分で心当たりあるだろ? ということは俺の言うことは正しいことになるってことだ。新垣もそう思うだろ?」

「俺に訊かれても困る。それに、た、小鳥遊さん……俺の目の前でその、言いにくいけど普通に下腹部見せるのを止めてくれないかな?」

「ん? 別に新垣君だったら私、気にしないから」

「えっ、あっ……」

 俺はどう返事をすればいいんだ。

 それに、今の小鳥遊さんのその答えって、俺を女として見ているように思える。

「それに小鳥遊さんなんてかしこまらなくていいから。別に翼みたいに美月って呼んでくれていいんだから、気にしないで」

「じゃあ……小鳥遊にする。そっちの方が俺としてはしっくりくるから」

「そう? じゃあそれで決定ね!」

 小鳥遊はそう言うと俺に右手の親指を立てる。海堂みたいな奴だな。

 ショートヘアの似合う金髪のこの女子の名前は小鳥遊美月たかなしみづき。一年の時は別のクラスで、今年度になって初めて同じクラスメイトになった。

 何故かは分からないが、海堂経由でこんな感じで……クラスの女子の中ではけっこう話す方に入っている。気さくな性格というのもあると思うが。

 そんな彼女は吹奏楽部でクラリネットを担当している。吹奏楽部も朝練のある日は多いから、運動部並みに大変だろう。金管楽器を担当していると、肺活量をかなりつけることができるらしい。

「それで? 新垣君はどう思う?」

「え? 何のこと?」

「私のお腹がたるんでいるかたるんでないか! 私のお腹見たんでしょ?」

 ニヤニヤしながら訊いてこないで欲しいな。

 横にいる海堂は何か言いたそうにしているけど、小鳥遊が俺の方に視線を固定してしまっていて他には何も受け付けていないようだ。

「いや、見たくて見たわけじゃないから……」

「じゃあもう一回見せてあげよっか?」

「男子に対してその答えはどうかと思うぞ! 小鳥遊がたとえ良くても、倫理的に俺は死ぬ羽目になるんだ!」

「う~ん。でも、私がいいならいいよ。新垣君は特別なの」

 それって、絶対に俺が女っぽい容姿だからとかそういう理由だろ? 分かってるだよ、俺はもう……。

「じゃあ、分かった。答えるから、ちゃんと答えるから」

「うん」

 女子の下腹をもう一度見せられるくらいなら、ちゃんと答えた方がマシだと思いそう言ってしまった。でも、どう言えばいいのか悩む。

 小鳥遊さん、期待の眼でこちらを見ないで欲しいな。半ば強制みたいな感じだし。

「そうだな、俺は……特に太ってたようには見えなかったな」

 小鳥遊の下腹部という疚しい記憶を辿りながらそう言った。

「……ほんと?」

 小鳥遊は甘えるような猫なで声でそう言ってくる。

「別に気にするほどじゃないよ。少なくとも俺は気にしない」

「そっかそっか。翼が変に言いすぎたんだよね?」

「その俺の言葉にあっさりと信じ込んで新垣に下っ腹見せたのはどこのどいつだよ」

「それはそれ、これはこれ」

「まあいいや。本当はぱっと見で分かるほどじゃなかったし」

「でもね、女子っていうのは見た目じゃ分からない変化でも気にするものだからね。男子にはたぶん分からないと思うけどさ」

「……何だと?」

 海堂がイライラし始めている。たぶん、小鳥遊は俺達を馬鹿にして言っているわけじゃないと思うが。

 でも、女子には見ただけじゃ分からない悩みはあるというのは、決して間違っていないだろう。

 海堂と小鳥遊の口論が俺の目の前で起こっている。仲がいいんだな、この二人は。俺は巻き込まれなくて済みそうだ。

「新垣君はそう思うよね?」

「……はい?」

 俺に火の粉が降りかかろうしている。さあ、どうする。

「少しでも太ったらこれは悩みに入るよね?」

「あ、ああ……その人次第だろうけど、悩む人は悩むんじゃないかな」

「ほら、新垣君は分かってるよ」

 良かった。浴びずに済んだ。

「その位、一日か二日バスケすりゃ大丈夫だと思うんだけどな……」

「私、吹奏楽部だから!」

 新年度になってこのような口論を何回か見たことがある。まあ、その場限りのことで次の日には普通に話しているから今回も大丈夫だろう。

 そんなこんなで朝礼のチャイムが鳴った。

「莉奈ちゃん来ないな」

「あ、ああ……遅いね」

「もしかして休みとか!?」

「少しくらい遅れたって何にもおかしくないだろ……」

 海堂は俺の隣の席なので、担任が来るまでそんな雑談をする。

 海堂の言う「莉奈ちゃん」とは二年三組の担任の名前で、本名は綾瀬莉奈あやせりな。海堂が「莉奈ちゃん」と呼ぶくらいなのだからそんな感じの人なのだ。

 チャイムが鳴って三分。たしかに、これは海堂の言うとおり休みの可能性も出始める時間ではあるな。

 だが、その時だった!


「ごめんねっ! 職員会議が長引いちゃって……きゃあっ!」


 可愛い声を上げながら盛大にこけた。

 焦っていたのか、床と教壇の高さが違うことに気づいていなかったらしい。

「いたたっ……ごめんね」

 泣きそうになっているが、先生にとって泣くことは生徒の前でしてはならないことだと思っているそうで。必死に堪えている。

 そして俺たち生徒も笑うことはなく、先生のことをただ見ていた。

 だが、半数以上の男子がその光景に興奮している。……何故だ?

「それじゃ、ホームルーム始めるよ!」

『はーい!』

 興奮していた男子が返事をする。やれやれ。

 教壇に立った、制服を着てしまえば女子高生に間違えられるこのスーツを着た女性こそが担任・綾瀬莉奈だ。ミディアムの茶髪で、花柄のヘアピンをしているところが、高校生のように見えてしまう。新任教師でまだまだ慣れていないことが多いのだとか……。だから盛大にあそこでこけたのかもしれない。

 ちなみに教えている担当教科は国語。大学で現代文を専攻していたらし)。俺たちの現代文と古文の授業は綾瀬先生が担当だ。

「昨日から授業が始まっているけど気を抜かないでね!」

『はーい!』

「あと、部活に入っている人は、入部希望の新入生が優しく接してあげること! 引きずり込みたいなら尚更のこと!」

『はーい!』

 いや、最後のはおかしいだろ。

 それでも過半数の男子が返事をする。その中にはどこの部活にも入っていない生徒もいるけれど。

「それじゃ、今日も頑張ってね!」

『はーい!』

 あれ、言うことはこれだけなのか? 職員会議が長引いたとか言ってたけど……まあ、生徒に伝えるようなことじゃないんだろうな。

 そして綾瀬先生はちらっと俺の方を見た。俺との視線が合うと先生は口元に笑みを浮かべて、さっさと教室を出て行った。

 実はこれは昨日もあったこと。いや、思い返せばこのクラスになってからずっとだ。

 何かあるのだろうかと思いつつも俺は一時限目の準備をした。

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