かなで

桜庭かなめ

プロローグ『いつもの朝』

 ――いったい何を楽しみに生きているんだろう?


 恋をすることかもしれない。

 部活に熱中することかもしれない。

 勉学に励むことかもしれない。


 たくさんある。その人数分だけ楽しみがある。


 そんなことを思いながら今日を精一杯生きている。



「じゃ、学校行ってくる」

 玄関を開けると柔らかな日差しが俺を包み込んだ。

 朝から晴れる日は何ともいい気分になれる。

「いってらっしゃい!」

 母親の声が聞こえたところで玄関を閉め前へと踏み出す。家の門を開き、道路に出ると近所の方と目が合ったので会釈をする。何ともよくある光景だ。

家から少し離れたとき、あまり見かけない光景が後ろから迫ってくる。

「ちょっと待ってよ! お兄ちゃん!」

「ん?」

 元気で可愛らしい声が俺に向けられて発せられる。

 振り返ると、赤髪のロングヘアの妹がこちらに向かって走ってきた。

「もぅ、なんで早く家出ちゃうかなぁ……」

 妹は不機嫌そうな表情をしながらそう言った。

「知らねえって。つか、俺は優奈と一緒に学校に行こうなんて思ってない」

「お兄ちゃんが早いからツインテールにできなかった。どうしてくれるの?」

「自分で結ぼうという気はないのか?」

「私を置いていってその言い方はないんじゃない?」

 自分勝手な奴だなぁ。

 ここまで自己中心的な発言をされると、さすがに怒っていいのかもしれない。

 でも、朝から気分を悪くさせるようなことをしてはいけないな。今日はせっかくお日様も覗いているわけだし。ここはぐっとこらえよう。

 俺は小さくため息をつく。

「……しょうがないな、まだ時間あるし。手鏡持ってるだろ? 俺が結んでやるからちょっと落ち着いて」

 落ち着いてくれないと何にもできないからな。

 妹が落ち着いたところで、妹の柔らかくて長い髪をツインテールにしていく。

 どんな場所でも、妹の髪をスムーズに結べてしまう自分が何だか悲しい。

「ほら、できたぞ」

「ありがとう」

 妹はにこっ、と微笑んだ。こういう可愛いところがあるから憎めない。

「明日からはもう少し早く起きろよ」

「うるさいわね! そ、それにね……私は別にお兄ちゃんに髪を結んで欲しいからって、慌てて家を出たわけじゃないんだからね!」

 これは所謂ツンデレというやつですか?

 せっかく笑顔を見せてくれたのに、不機嫌な表情に戻って妹は歩き出した。

「やっぱり高校生活はまだ慣れてないか?」

 新年度になって間もないこの時期特有の話題を振ると、妹は俺の方を向いて、

「まだよく分からないな。授業も昨日から始まったばっかりだし」

 と、答えた。

「あと一、二週間もすれば慣れる」

「高校の授業って難しいのかな……ちょっと不安」

「最初の方は簡単だけどな。だからって気を抜いたら赤点に苦しむことになる。まあ、ほどほどに頑張れ」

 実際に去年のクラスメイトにそんなヤツがいたから。特に友達という訳ではなかったので進級できたのかは知らない。ただ、かなり苦しんでいたのは覚えている。

 まあ、兄としては妹にあいつと同じ目に遭わせたくないのが本望だ。

「ほどほどにって、そんな風に言わないでよ」

「とにかく、当たり前だけれど勉強は中学よりも難しくなる。だからそうだな……今まで以上に勉強頑張れよ」

「え~、せっかく受験終わったのに……」

「それが普通の反応、だよな。まあ、せっかく高校生になったんだから、部活とか好きなことに打ち込んだ方がいいと思う」

「その言葉を待っていたの」

 妹は可愛い笑顔を浮かべている。何時かは恋に走り出すのかねぇ。

 新入生の妹にとって、高校っていうのは楽しくて希望に溢れている所なのかな。俺はそんな風に思ったことはなかったけど。

 ああ、眩しいな。これからの高校生活を楽しみに歩いている妹が。

 それからは特に妹に対して話すこともなく、通学路をただ黙々と歩いて行く。

 二、三分ほど歩くと、ポニーテールにしている水色の髪の女子が、俺と妹の方を見て待ち受けていた。

「おはよう、隼人。優奈ちゃん」

「おう、おはよう。彩音」

「おはよう! 彩音ちゃん!」

「どう? 優奈ちゃん。学校には慣れてきた?」

「……それ、お兄ちゃんにも同じこと聞かれたんだけど。うん、まだ授業始まったばっかりだし、部活もまだ本格的に始まった訳じゃないから」

「そっか。何部だったっけ?」

「テニス部。人、結構いたなぁ……」

 これはまた楽しそうな表情で、女子同士の会話が盛り上がっている。

 俺、新垣隼人あらがきはやとと妹の優奈ゆな、そして近所に住んでいる俺の幼なじみの水越彩音みずこしあやねが通う、私立陽山ひやま高等学校はとにかくテニス部の人気が高い。特に女子テニス部は去年、シングルスで全国大会に出場した選手がいるだけあって、地元である風見市の女子中学生の憧れの的になっている。

 優奈が中学の時に所属していた部活はテニス部だった。なので、陽山高校に入学したらテニス部に入部したいと思っていた典型的な女子生徒だ。

 妹がテニス部に入ったことを知った彩音は腕を組んで、

「テニス部かぁ。やっぱり、今年もあそこが新入生をたくさん引き込むか」

 はあっ、と唸っている。

 二年生になったので、自分の所属する部活に多くの後輩を入部させたいのだろう。

「バレー部には新入生がそこまで入ってこないのか?」

「まあ、入ってきたことは入ってきたけどさ。うちの学年よりも人数少ないんだよね。公式戦に出るのには全然問題ないけど」

 彩音はバレー部に所属している。去年は県大会で健闘したんだが、テニス部の全国大会出場ですっかりと陰となってしまったのだろうか。

「でもさ、一人でも人数が多い方がいいの。だから隼人、バレー部に入ってくれない? 女顔だしきっと人気出ると思うよ?」

「……あれは“女子”バレー部だったと思うけど? それにこの顔は好きでこうなったわけじゃない」

「そういう怒った顔、けっこう可愛いな」

「……全く嬉しくないから」

 そう、俺の顔は世間でいう童顔らしい。俺の友人曰く「女子よりも女子らしい」顔立ちなのだとか。言われる度に褒めてないだろう、と心の中でつっこんでいる。

 おまけに、俺の声は一度も声変わりをしなかった。なので、声がかなり高い。電話に出ると大抵は女性と間違われる。電話だけならまだ我慢はできるけれど、今みたいに俺が男物の服装をしているのにも関わらず女子と間違われたときにはもう……。怒るというよりも虚しさで胸がいっぱいになる。

 だから、男らしくいられるように自分の事を『俺』と呼んでいる。せめても、心だけは女っぽくならないようにしているんだ。

 俺だって努力してるんだよ。実る気配は全くなさそうだけど。

 今日も俺は一日に一回は男子から視線を感じている。まったく、そんなアイドル気質の人間じゃないと言える機会を設けてほしい。

「優奈ちゃんもそう思わない?」

「……別に、可愛くなんかない」

「やっぱり、妹目線で見ると隼人も立派な男の子に見えるのかな?」

「まあ、その……お兄ちゃんだとは思ってる」

「その答え方ってどうなんだ。それに、どうして一瞬口ごもった?」

「別にいいじゃん、お兄ちゃんだって思ってるんだから」

 ごめん、全く分からない。

 どうやら、妹にはちゃんと男として見られているようだ。せめてもの救いだな。まあ、妹に女の子だと思われていたら、本気で女になる決意をしたかもしれない。

 そんなこんなで、気付けば陽山高校の校舎が見え始めていた。

 現在、午前八時過ぎ。

 登校時間真っ只中だからか、陽山高校の生徒の姿がたくさん見える。

「ほらほら、隼人。今日も人気者だね!」

「別に嬉しくねえって」

「あっちの人も、こっちの人も!」

「見つけなくていいから。なんだ? 彩音も人に見られたいのか?」

「あたしは別に隼人さえ見ててくれれば、いいから……」

 さっきまでのはつらつさとは裏腹に、今度はおしとやかな雰囲気を醸し出し、彩音は俺のことを上目遣いで見てくる。

「今更何言ってるんだよ。彩音のことくらい幾らでも見てやるって」

「……はうっ」

「幼馴染なんだし、何時も彩音のことは見てるだろ」

「……そうだよね。そういう意味だよね」

 何をがっかりしているんだか。

 元気のない彩音の頭を優しく撫でる。優奈とは違う髪の柔らかさだ。

「部活の話に戻るけど、隼人はどこか部活に入る気はないの?」

「まあ、文化系の部活でも、入部するタイミングはこの時期がいいのは分かってる」

「隼人、運動神経いいんだから、運動部でもやっていけるんじゃない? 何だったらぜひ女子バレー部に!」

「さっき断ったばかりだろうが。あと、俺が男だって事も忘れてないか?」

「だって、隼人が入ったらきっとエースになれるって」

「煽てたって無駄だぞ。それに、俺は球技が苦手なんだよ。運動は走ること以外は全くダメなんだ」

「優奈ちゃんも賛成だよね、隼人がバレー部に入るの」

 俺の意見に聞き耳を立てるようなことはしない、か。

 俺と彩音で話が盛り上がってしまったからか、優奈は携帯を開いていた。こりゃ、俺達の話を全く聞いてないようだな。

 だけど、優奈はこちらをちらりとも見ずに一言、

「いいんじゃない? 人生経験にもなるし」

 と、淡々と呟いた。

 優奈さん、せめて男としての人生経験させてくれませんか?

 妹から放たれた一言に、軽く絶望した。

「お兄ちゃん。友達が待ってるから先に行くね」

「……ああ、またな」

「うん、じゃあね」

 そう話している間にも、陽山高校の正門が見える。

 優奈はたくさんいる生徒の中を走っていき、彩音と同じようなポニーテールの髪の子の前で立ち止まり、その女子と一緒に校舎へ入っていった。

「優奈ちゃんがうちの高校に入ってくるなんてね……」

「テニス部に憧れて入ったんだよ、きっと」

「でもまあ、こうして三人で登校できるのはやっぱり嬉しいね!」

 彩音は無邪気な笑顔で俺にそんなことを言ってくる。まあ、人が多いことに越したことはない。

「ねえねえ」

「何だよ、腕なんか強く引っ張って」

「……あの子、凄く可愛くない?」

「ん?」

 彩音の指さす先にいたのはセミロングの黒髪の少女。彩音と同じ制服を着ているということはうちの生徒なのか。

「確かに可愛いな。ああいう女子がタイプな男子はきっといると思う」

「あの物静かな感じ……きっとどこかのお嬢様な気がするね」

 その少女は無表情で少し俯いている。このまま動かなければ「お人形さんみたい」と言われるような容姿だな。

 俺の横にいる人を指さすような人間よりかはお嬢様らしい感じだ。

「って、痛いな。つねるなって」

「何だか今、隼人に変なことを言われた気がしたから……」

「言ってねえって!」

「どうせ、あたしなんてお嬢様気質じゃないって思ってたんでしょ?」

 凄いな、俺の心まで読めるとは。さすがは幼馴染。

「こうなったら彼に頼んで隼人には女装してもらうんだから!」

「……ごめんなさい」

 彩音の言う『彼』というのは……まあ、いずれ出てくるだろうからここでは言わないでおこう。面倒な奴なので。

 こんな感じで、今日は普段よりも俺の言われ用が酷いけど、三人でいつも通りに登校した。

 だけどどうしてなのだろうか。

 いつも通りの朝。

 いつも通りの日常。

 何も変わり映えのない、だけども何だか安心できる日々。

 そう、こんな風に三人で登校するってことが、もうできない気がした……。

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