怪談 時雨番傘
「おや、こな所で雨宿りでありんすか」
いきなり
男は薬の行商を生業にする者で、山を越えて街道沿いの宿場まで商いに行った帰りであった。客の家で商いの話しが終わると膳が出されて、酒を呑み交わし寛いでいたら、すっかり遅くなってしまった。
山道を帰る途中で陽が沈み、あたりは真っ暗闇になった。折からの
往生しながら闇雲に山道を歩いて行くと、遠くの方で微かに灯りが漏れている。すわ、民家があったと近づいて行くと、石灯籠が灯った小さなお堂であった。
雨は止みそうにもない――道に迷った男は夜が明けるまで、このお堂の中で雨宿りをすることにした。
扉を開けて中に入ったら、突然、暗がりから女の声がした。
「おや、こな所で雨宿りでありんすか」
男は腰を抜かしそうなほど驚いた。
こんな人里離れた場所で若い女の声がする。――さては狐か狸か、もののけかと男は震えあがった。
「そんなに青い顔をして震えなくても、わっちはなもしんせんよ」
もののけと喋ると精魂を抜かれるやも知れぬ。
男は押し黙っていた。この暗闇では逃げだそうにも走れば木々にぶつかり、下手をすれば谷底に落ちるやも知れぬ……。怖ろしいが、ここは
「こな雨の夕暮れは、寂しいのでわっちの話を聞いてくんなまし……」
女は花魁言葉で話かけてくる。
はて、どこかの遊郭の花魁だろうか? 怖くて闇から聴こえてくる声の方を男は振り向くことができない。
肝っ玉の小さい男は必死で念仏を唱えていた。
「わっちが生まれたのは吉原の廓でありんすぇ。母も花魁でありんした。器量よしの母は廓の主人の手がついてわっちが生まれんした。でも、わっちが七つの時にはやり病で死にんした」
男のことを気にする風もなく、女はひとりで喋り始めた。唄うような凛とした美しい声である。
「母が死んでから、わっちを邪魔者扱いしていた義理のお母さんに、
ふっーと女の溜息とも笑い声とも知れぬ声がした。
「わっちは吉原でも由緒ある妓楼の花魁でありんすぇ。盛りの頃には売れっ子でありんした。
女は昔を回想しているのか、懐かしいそうに感慨深い声だった。
「けれども花の盛りは短きもの。花魁の命も短きものなんでありんすぇ。二十歳も半ばを過ぎると、めっきり衰えて……若い花魁たちに客を奪われるようになりんした。お見世もお客もわっちを大事にしてはくれなくなってきんした。悲しいことに……」
どんなに美しい花魁も、やがて容貌が衰えてくれば客足は遠のいていく。
廓は女郎同士客の奪い合いで
「
女郎が生きて
そんな苦界から、生きて娑婆に出られた女郎は
「生まれ育った吉原からでるのではなかった!」
いきなり大声で女は叫んだ。
「娑婆の暮らしは退屈でおもしろうありんせん。年寄りの相手も嫌でありんした。毎日、手伝いの
――やはり廓育ちの女だ。
ひとりの男だけを守り抜くという
「わっちは馴染めない娑婆の暮らしが耐えられなかったぇ。その内、庭師のことが
ややっ! 人を
「
この女から逃げ出したいと思ったが、どうしたことか男の身体は石を抱いているように重く動かない。
「わっちは隠居の手文庫から
いったん話しを止めて、女は
「逃げていた途中で、こなたのお堂で……首を絞めて……わっちを
やはり! この女はこの世の者ではなかったのだ。
殺された怨念で成仏できず
「首を絞められる時、わっちは男の顔を見ていた。息絶えるまでずっと……鬼の
絞り出すような声で言う。
「しょせん、わっちは遊女、男の玩具でありんすぇ。 ――男に殺されるなんて、なんとまあ、女郎冥利に尽きることよ」
くくくっ……と、自嘲的に幽霊が嗤う。
やがて、その声はすすり泣きに変わっていった、自分の死にざまを覚えているという女は、さぞや恨めしかろ……それじゃあ、死んでからも浮かばれる筈がないなあ、と男は思った。
「おや、ずいぶん白んできたぇ。もうすぐ夜が明ける」
お堂の隙間から薄っすらと陽が差してきた。
女が殺されたというお堂の中は、狭くて所々床が抜け落ち朽ち果てている。
「わっちの話しを聞いてくれてありがとう。ぬし恩に着るよ。――さあ、もう行ってくんなまし」
女がそう言った瞬間、男のからだが急に軽くなった。さっきまで動けなかったのは女の妖術のせいだったのか?
男は振り返らず、ここから立ち去ろうとしたら、背後から白いものがすっと伸びて、男の腕をぐいっ掴んだ。それは雪のように白く、氷のように冷たい女の手だった。
「まだ雨が降ってる。これを持っていってくんなまし」
一本の番傘を幽霊に渡された。
ぎゃっ、と叫んで男は
傘も差さずに転がり落ちるようにして山を下って里に帰りついた。怖ろしい体験をした男は二、三日発熱し寝込んだが、やがて回復した。幽霊に渡された番傘は捨てるわけにもいかず、お寺に持っていきお祓いをして貰った。
その番傘は遊郭などで使われていたものらしく〔多治見屋
それが、あの幽霊の正体かも知れない。
吉原に詳しい者に訊いたところ、十数年前に『
男は後日、花魁の霊を弔ってやろうと線香とお供えを持って、山の中、あの古いお堂を探したが見つからなかった。あれは、やはり狐か狸に化かされたのかも知れぬ。
……だが、夜半からの雨の日は、女のすすり泣く声が番傘から聴こえてくる。
― 完 ―
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます