吉兆の猫 其ノ漆

 その後、嵯峨野屋さがのやの春日太夫は御開帳ごかいちょうの初客に身請けされて、吉原から引かされたという。

 これから売り出すつもりだった花魁の身請けには、さすがに嵯峨野屋の女将も大いに渋って難色を示したが……看板花魁の皐月の説得と馴染み客のお殿さまに所望されて、しぶしぶ春日太夫を手放した。

 身請金は千両だとも二千両だとも噂が流れた。

「酔狂なお客もいたもんだよ」

「よほど、その花魁が気に入ったんだね」

「御開帳のお客に身請けされるなんて、幸せな女郎もいるんだねぇー」

 そんな噂が吉原中で飛び交っていた――。

 苦界に身を落とした女郎たちにとって、それはお伽噺のような夢の出来事だった。


 そして身請けされたお春だが、殿さまの懇意にしている商家に養女として引き取られた。

 姉女郎の皐月はその後も看板花魁として活躍していたが、嵯峨野屋の女将が病気になり、伊豆の湯治場とうじばに長く逗留することになったので、身内のいない女将は一番信頼する皐月に御見世や身代を全て譲って、隠居してしまった。吉原の老舗妓楼、嵯峨野屋の新しい女将は皐月太夫になった。

 やがて月日が移り変わり、花街から春日太夫のことは忘れ去られていった。



 ――三年後。

 深川のお堀沿いの路地を入ったところに、こじんまりとした小間物屋が一軒ある。

 店先には櫛やかんざし、鹿の子など綺麗な小物が並べられて、まだ若い女房が店番をしている。奥では飾り職人の亭主が細かい細工ものを作っていて、それを売っていた。

 小さなお店だが、愛想の好い美しい女房と腕の良い亭主の作った簪が評判となり、江戸中から町娘たちが深川まで買いにやってくる。

 そして、時々は夫婦ふたりで吉原の老舗妓楼にも小間物を持って商いに行っているらしい。

 看板には『白猫屋しろねこや』と掲げてあり、店先の縁台にはいつも猫が看板代わりに座っている。

「ゆき、魚のあらだよ、お食べ」

 にゃーとひと声鳴いて、伸びをすると猫は縁台から飛び降り、無心に餌を食べる。それは金眼銀目の美しい白猫であった。


 ――その姿を眺めるお春の顔は幸せそうに輝いていた。



                 ― 完 ―

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