吉兆の猫 其ノ陸

 帰り際に挨拶に出たきた嵯峨野屋さがのやの女将に「この花魁がたいそう気に入ったので、決しての客を取らせてはならぬ!」と念を押して帰っていった。

 女将も上得意の客の頼みなので無碍ぬげにもできず、春日太夫に他の客を取らせませんと約束をした。


 翌日、皐月姉さんの部屋の禿かむろが姉さんが呼んでいます、と伝えにきた。

 昨夜の顛末てんまつをどう説明すれば良いのか? せっかくの姉さんの心使いを無駄にしてしまった。お春は皐月の合わせる顔がない。

 どうしたものかと……ぐずぐずしていると、突然、皐月の方からやってきて、「お春、一緒に湯屋へ行くよ」と、こざっぱりした着物に着替えた姉女郎が誘いにきた。

「ほらほら、早く支度をおしよ!」

 せっつかれ支度をして、湯屋へふたりで向かったが、御見世から五軒ほど歩いたところで、「湯屋に行く前におしるこでも食べようか」と、後ろからしょんぼりと歩くお春に告げると、馴染みの茶屋の縄のれんを皐月はくぐった。

 その後をお春も続いて入るが、いつもと違う皐月の態度にお春はびくびくしていた。

 昨夜の武士が帰り際に、お春に他の客を取らすなと言ったことで……もしや皐月姉さんが嫉妬して怒っているのかも知れない。だったらどうしよう、昨夜の話をして果たして信じて貰えるだろうか? 大好きな皐月を悲しませることだけはしたくなかった。

 ここにきて、死ねなかったことを後悔するお春だったが――にゃーと耳の奥でゆきの鳴き声が聴こえたような気がした。


「おじさん、二階の座敷は空いてるかい?」

「へい」

「上がらせて貰うよ」

 茶屋の主人にそう言うと、さっさと二階の梯子段はしごだんをのぼっていく皐月。

 二階は小さな小部屋になっていて、そこは女郎たちが間夫まぶと逢引をしたり、馴染み客と御見世を通さずに商売するときに使っている。

 もちろん、お春は二階へ上がるのは初めてである。薄暗い小部屋は畳六畳たたみろくじょうほどで、布団がひと組と行燈あんどん、煙草盆が置かれていた。小さな格子窓からわずかな光が差し込む、いかにも男と女の隠れ宿といった風情であった。

「そこへお座りよ」

「……はい」

 煙管に火を付け旨そうに一服吸った皐月が、しょんぼりと突っ立っている、お春に声をかけた。

 座るなり、お春は……、「皐月姉さん、ごめんなさい……」畳に額を擦りつけて謝った。昨夜のことで姉さんの顔をつぶしてしまったからだ。謝って許されることではないことは分かっているが、しかし……。

「どうか、どうか、姉さんお許しください」


 いつまでも頭を畳に擦りつけ謝り続ける、お春だった。

「あははっ」

 皐月の笑い声が聴こえた。

「お春、なにを米つき飛蝗ばったみたいにぺこぺこしているんだい」

「…………」

 その明るい声に、恐る恐る顔を上げると……そこには皐月姉さんの笑顔があった。

「なにを謝っているんだい、あちきが何も知らないとでも思ってるのかい」

「あ、あ、あのう……」

 口籠くちごもるお春に、被るように皐月がしゃべる。

「お殿さまから、昨夜の顛末を聞いているさ」

「……皐月姉さん」

「少し前から、そわそわとおまえの様子がおかしかったから何かあるとは思ってたよ」

「お殿さまにお話しました」

「それで拙者がひと肌脱ぐと言ったでありんしょう? 殿さまは前から、あちきにおか惚れなんでありんすぇ。 それで身請みうけのお金を用意してくれてありんすんけれど、そのお金でお春、おまえが身請けして貰いんす」

「そ、そ、そんな滅相めっそうもない……出来ません!」

 突然の話にお春は目を丸くして驚いた。

「いいんだよ、あちきは嵯峨野屋に恩があるから、まだ女郎をやめらりんせん」

「そんな……姉さんを差し置いて……姉さんだって、ここから出たいはずなのに……」

 お春がそう云うと皐月は遠い目で話し始めた。


「前におまえとそっくりな妹がいたと話をしたでありんしょう? あちきには三歳年下の妹がいたのさ、両親が商売に失敗して死んでしまいんしたので、妹とふたり借金のかたに吉原に売られちまった、それも別々の御見世にさ……」

 姉の皐月は嵯峨野屋で女将さんが良い人だったので、とんとん拍子に良い境遇になったが、妹の春が売られた御見世はあこぎな妓楼だった。ろくに寝かせても貰えずに一晩に何人ものお客の相手をさせられるし、食べ物も粗末でひどい境遇だった。

「妹は身体を壊してさ……気がふれちまったんだよ。何度も逃げ出そうとして……ひどい折檻を受けたみたいなんだ。よっぽど辛かったんでありんしょう」

「そんな……」

「噂を聴いて、あちきは心配で放って置けず……嵯峨野屋の女将さんに頼みこんで妹の身請けをして貰う手はずで……」

 皐月はひと息ついて、遠い目をした。

「駕籠を用意して病気の妹を、いそいで迎えに行ったのに……」

「…………」

「病気の妹は……妹は……」

 そこまで話すと当時を思いだして、感極かんきわまって皐月はわっと泣き出した。


「妹は妓楼の座敷牢で両手両足を荒縄で縛られて、素っ裸で食事も与えられず……虫の息で死にかけていたんでありんすぇ。 すぐに助け出して連れて帰ったが、途中で息絶えて死んじまった、まるで犬っころみたいな惨めなおしまいでありんした……」

 ――やっとそこまで話し終えると、しばらく皐月は嗚咽おえつを漏らして泣きじゃくった。

 お春もその話を聞いて一緒に泣いた。


「お春、おまえは死んだ妹のお春の代わりに幸せになるんだよ!」

「皐月姉さん……」

「きっと、きっと……お春は幸せになるんだ!」

「姉さん……」

「おまえは生きて、こなたの吉原から出ていくんだ……分かったね!」

 そう云って、泣いている妹女郎の肩を強く抱きしめた。

 助けてやれなかった妹の代わりに何としても、このお春だけは幸せにしてやりたい、それが皐月の願いだった。

 その言葉にお春の涙は止まらない。

 この身は汚れた廓の女なのに……生娘みたいに心の美しい女郎もいる。どんな境遇にあっても、心まで汚さずに生きていこうとする。  

 ――花魁皐月はそんな女であった。

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