吉兆の猫 其ノ伍

 その時、背後で襖の開く音がした。

「春日太夫、お客様の到着です」

 禿かむろが伝えにきた、今夜の客を玄関まで出迎えにいかねばならない。

 小さな髪飾りを花魁髷おいらんまげの中にそっと隠すように挿した、そして……お春は遊女の顔になった。


 嵯峨野屋さがのやの花魁、春日のお座敷ではうたげもたけなわで、美しい着物で飾った振袖新造ふりそでしんぞうたちが舞い、可愛いらしい禿かむろたちが笛や太鼓で賑やかに盛り上げていた。

 上座にはお客の武士と春日太夫が鎮座ちんざしている、並んで座っていても花魁はお酌をしない、お付きの新造たちがお酌や料理のお相伴しょうばんをする。

 花魁は雛段のお人形のように、ただ美しくその場を華やかに彩る。

 お春はそっと今宵の客を見た、その男は幕閣の重鎮で旗本のお殿様と聞いている。三十路みそじを少し越えたくらいか、武士にしては柔和の顔つきで品の良い人物である。

 皐月さつき姉さんの座敷でも何度か見掛けたことがあるし、決して嫌な客ではない。なぜ、この男が自分の御開帳の相手に名乗りでたのかは分からないが、皐月姉さんとは繋がりが深いように思っていただけに……不思議だった。


 今宵こよい、この男によって自分は女になる。

 なんだか他人事のように思えてならない。佐吉のことが胸の中でくすぶっていて、まだ心の準備が出来ていないのだ。この後に及んで、往生際おうじょうぎわの悪い自分に腹が立つ。本来、男に身を売るために吉原に売られきたというのに、それが理不尽に思えてならない。

 そんな考えを打ち消すように、お春は長煙管ながきせるを客に振舞い艶っぽく微笑んだ。

「おひとつ、どうぞ」

「かたじけない」

 長煙管を受け取り旨そうに吸う男。遊女、春日はもうお春ではない。

 これだけの支度をしてくれた御見世や皐月姉さんの恩に報いるためにも、しっかりと自分の役目を果たさなけばならないのだ。感情は捨てるのだ、わたしは客に身を売る女郎なのだから……そう思いながらも佐吉の面影が払い除けることが出来ないお春だった。

「佐吉さん、許して……」


 いよいよ宴もお開きとなり、お春は客と寝所に入った。

 仕掛けを脱いで、襦袢姿じゅばんすがたになって男の傍らに横になった。

 そっと優しく抱きしめて、「怖くないから、楽にしておればよい」と、云ってくれる。――なんと優しい男だ。

 皐月姉さんの特にお気に入りの客だと知っている、なのになぜ……? 姉さんはわたしをこの男に抱かせるのだろう?


 男が身体を愛撫する、首から胸に舌が這っていく……乳首の先を口に含んで吸う、未通女おぼこのお春は気持ちが良いとかそんな感じがよく分からないが……。

 ただ、一生懸命お客に合わせて、気持ち良さげな声を漏らすだけ― ―。

 早く終わって欲しい……願うのはそれだけ、心の中では佐吉のことを想っていた。男がお春の秘所に指を入れた。

「あっ」

 思わずのけぞる。

「大丈夫……」

「あい……」

 いよいよ、男のものがお春の中に挿し込もうとして、足を開かせて秘所にあてがった。

 佐吉さん! 心の中でお春は佐吉の名を叫んできつく目を瞑ったが、次の瞬間、満身まんしんの力で男の身体を退け床から逃げ出した。


「なにをいたす!」

 いきなり撥ね退けられて男は驚いた。

「どうか、お許しください!」

 緋色の襦袢姿のお春は畳に額を擦り付け謝る、とんでもないことを自分は仕出かした!

 このままでは恥をかかせた武士の客にも、御見世にも、大事に育ててくれた皐月姉さんにも申し訳が立たない。合わせる顔がない! 

 どうしよう? もう自分は生きていられない。

「……あちきをお手討てうちにしてくんなましませ」

 お春も武士の娘だ、死ぬ覚悟は出来ている。きれいな身体のままで死んで逝きたい。

「刀は見世に預けて持っておらぬ!」

 遊郭ではどこでも座敷で刃傷沙汰にんじょうざたにならないように、武士の腰の大小を預かる仕来たりなのだ。

「どうか……」

 御開帳の大事なお客に大恥をかかせてしまった、もう自分は死ぬしかない……。母の形見の懐剣を護身用に寝所の手文庫に入れていたのを思い出した、お春は立ち上がり手文庫から懐剣を持ちだすと喉に刃をあてて――。

「どうかお許しくんなましませ、死んでお詫びいたしんす!」

「おい、おい! 早まるでない、待て!」

 あまりの成り行きに男は訳も分からず、うろたえていた。


「佐吉さん、先に逝っています!」

 目を瞑り懐剣を突き刺そうと力を入れた瞬間、手に鋭い痛みが走った!

「あうっ!」

 思わず懐剣が手から落ちてしまった。暗闇に金眼銀目が光っている!

「ゆき!」

 そこには白猫のゆきが居た。

 ふーと毛を総立てて、お春に向かって威嚇いかくするように鳴いた。手から血が滴り落ちる、ゆきの鋭い爪で引っ掻かれたようだ。

「ゆき……なんで?」

「その猫はそちの猫か?」

 男が間のびした声で訊ねた。

 そのせいで緊張感が切れて……しらけて脱力してしまった。

「……はい、ゆきと申します」

「その猫は、そちに死んでは成らぬと申しておるぞ」

 いつの間にか、ゆきはお春の膝に乗っていた。

「金眼銀目の猫か珍らしいのう、拙者は猫殿ねことのと家臣に呼ばれるほどの猫好きじゃー」

 そう云って、男は楽しそうに笑った。

 おいでおいでをすると、ゆきも猫好きなのを分かってか、すんなりと武士の膝へ乗った。

「命を粗末にするでない、拙者は嫌がる女子おなごに無理強いはいたさぬ」

 ゆきをだっこして、満足そうな顔でこともなげに男がいう。

「しかしながら……こなたのまんまでは御見世と皐月姉さんに申し訳がたちんせん」

「拙者は元より皐月におかれでなぁー、他の女子などにその気はない……そちのことは可愛い妹女郎を女にしてくれと皐月に頼まれてのことじゃー」

「姉さんに頼まれて……で、ございんすかぇ?」

「あはははっ」

 照れたように笑う武士は、お春を抱くのは本意ではなかったらしい。やはり、皐月姉さんが好きだったのかとお春は嬉しくなった。

「なにか事情があるなら話してみよ……」

 ゆきもその武士が気に入ったのか、撫でられて気持ち良さそうに目を細めて喉をごろごろ鳴らせている。

 この人なら、なんでも聞いて貰えそうだとお春は佐吉のことを話した。


「そうか、それできよい身体のままで死にたかったのか……」

「……あい」

「それほどまでにその男をしたっておるのか?」

「現世で一緒になれなくとも来世で結ばれとうございんす」

 そう云って、お春の瞳からぽろりと涙が零れた。

「そうか、そうか、そちの気持ちはよーく分かった」

 後から後から涙が流れる、しゃくりをあげてお春は泣いた。

「泣くでない、泣くでない、拙者がなんとかしてやろう」

「お殿さま……」

「他ならぬ皐月の妹女郎の願いじゃ、拙者がひと肌脱ごう!」

 そう云い放つと男は愉快そうに笑った、その夜は朝まで寝所で猫の話をした、なんとも不思議なお客であった。

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