吉兆の猫 其ノ肆

 いよいよ、お春にとって初めての花魁道中おいらんどうちゅうの日がやってきた。

 嵯峨野屋の次期、看板花魁と目されいる、お春こと春日(かすが)太夫の道中は豪勢なしつらえだった。嵯峨野屋と屋号の入った箱提灯を持った男衆おとこしゅうを先頭に、振袖新造ふりそでしんぞう禿かむろと総勢十人ほどお供を従えた花魁道中。

 大門から入った吉原仲之町界隈は初見世の春日太夫を一目見ようと、多くの見物客が集まってきて、ものすごいにぎわいである。

春日太夫かすがたゆうのお通りぃー」

 男衆の声と共に、わぁーと見物客から歓声が上がる。

 真新しい紅緋色の仕掛けには金糸銀糸で妖艶な胡蝶こちょうの図柄がえがきだされている。純白の半だらの帯には極彩色の糸で大輪牡丹が刺繍され、髪には十八本の櫛や簪、男衆の肩に手を置き、高下駄を履いて、作法の足捌あしさばきで外八文字そとはちもんじを踏み、しゃなりしゃなりと歩む、花魁春日。

 その美しさはこの世のものとは思えないくらいで、まるで桃源郷とうげんきょうに住まう仙女のように気高く艶やかだった。

 見物客からも、おぉーと感歎かんたんのため息が漏れる。


 花魁道中の見物人の人垣の中で佐吉はお春を見ていた。

 今まで吉原など足を踏み入れたことのない初心うぶな佐吉だったが、お春に逢いたい一心で、飾り職人の親方に頼んで、ここまで連れてきて貰ったのだ。佐吉の腕には白猫のゆきが抱かれている、日頃はあまり人に懐かないゆきだったが……今日だけは大人しくだっこされてお春を見ている。

 艶やかな花魁春日は佐吉の知っているお春とはまるで別人のようだった。あまりに気高く美しい……。

 もう、おいらの手の届かない人になっちまった……。

 お春が売られたあの日から、ずっと想い続けた佐吉だったが……今日、お春の花魁道中を見て、あまりに住む世界が違うことに驚いた。お春を身請けしたくとも、百両二百両の銭では無理に決まっている。千両はいるだろうか、一生働いても、そんな額の銭はおいらには稼げない。

 悔しさで胸が張り裂けそうな佐吉の前を、春日太夫がしゃなりしゃなりと通り過ぎてゆく。

 ――お春、おまえをもうあきらめるしかないのか……。

 

 お春は花魁道中の見物人たちの中に佐吉を見つけて嬉しくてどきどきした。

 腕に白い猫を抱いた男は、まぎれもない幼馴染の佐吉さんに違いない。背丈は伸びて若衆風わかしゅうできりっとした顔立ち、柔和にゅうわで優しい目でこっちを見ていた。

 佐吉さんは、こんな自分をどう思っているのだろうか?

 すっかり吉原の水に染まった自分のことを幻滅しているかも知れない……だけど、心はあの日のまんま何も変わっていないんだよ。――ずっと佐吉さんを想っていた。

 前を通り過ぎる時、佐吉さんと目が合った、じっと凝視する熱い眼差しを肌に感じて……こんな高下駄や重たい仕掛しかけを脱ぎ捨てて、佐吉さんの元へ走っていきたい衝動しょうどうにかられた。

 今日、佐吉の姿を見てはっきりと分かった、春は佐吉さんが好きだ!

 ……なのに、自分はもうすぐ他の男に抱かれて破瓜はかの血を流して女になる。こんな豪勢な花魁道中なのに、花魁春日太夫は心の中で泣いていた。


 深川の家に帰って、佐吉はお春に文を書いた。


 ― お春、今日の花魁道中はきれいだった。

   おいらの知っているお春とは別人みたいだ。

   お春を身請けしたいがおいらの稼ぎではとても無理だ。

   一生嫁はもらわない、お春を嫁だと思って生きていく、

   来世でおいらの嫁になってくれ 佐吉 ―


 ……おいらはお春を諦めた訳じゃないんだ。

 年取って死んだら来世らいせできっと、きっと……お春と一緒になるんだ。そう呟きながら佐吉の頬には涙が伝っていく、震える手で、ゆきの首に薄水色の布を捲いた。


 花魁道中を終えて、嵯峨野屋に帰ったお春は美しく設えた自分の座敷にいた。先ほど、御見世に使いがあって今夜の御開帳ごかいちょうの客は到着が遅れるらしい。

 それまで客待ちのお春は新造や禿たちをいったん座敷から下がらせて、ひとり所在なく……佐吉のことを想っていた。見違えるように立派な若衆になった幼馴染の佐吉は、こんな自分のことをどう思ったのだろうか?

 もう一度、佐吉さんに逢いたい……今夜、御開帳で男に挿されて破瓜の血を流す前に……。きれいな身体の内に、もう一度だけ逢いたい。佐吉のことを想うにつれ、幼い頃から佐吉が好きだったんだと、今さらながら自分の気持ちに気付いたお春だった。


 格子窓にこつんと何かがぶつかる音がした。

 見れば小さな石つぶてが落ちている。お春の座敷は二階なので、そっと立ち上がって外を覗くと軒下の暗闇に人が立っているではないか、男が抱いていた白猫の金眼銀目が光っている。

「ゆき……佐吉さん?」

 まさか、先ほどまで胸の中で燻り続けていた佐吉がそこに立っているなんて……。

「佐吉さん……」

 うれしさと驚きに胸が震える。


 いったんは家に帰りお春に文を書いた佐吉だったが……。

 ゆきに届けさせようと薄水色の布を首に捲いてみたが、自分の気持ちを書いたこの文をお春が手にとって読んでくれるのを確かめたくて、ゆきと一緒に吉原の嵯峨野屋まで来てしまった。

 逢えなくてもいいから、お春の暮らす妓楼を一度見て置きたかったのだ。なるほど豪勢な造りの御見世だと圧倒されつつ、建物の裏手に回って見上げていると、ほんのりと灯りの燈る二階の格子窓の前に来ると、突然ゆきが落ち着きなく、にゃーにゃーと鳴きだした。

「ゆき、ここがお春の座敷なのか?」

 にゃーにゃーと頷くようにゆきが鳴く。

 佐吉は足元の小石を拾うと、試しに小さな石つぶてを投げ込んてでみた、果たして立ち上がって覗いた人影は――。

「お春……」だった。

 漆黒しっこくの闇を通して見つめ合うふたり。


 いきなり白猫が佐吉の腕を蹴って、二階の格子窓をくぐり抜けお春の座敷まで上がってきた。

 ゆきの口にはきらきら光るものがくわえられていた、小さな髪飾りで佐吉がこしらえたものだ。ゆきの首に捲いた薄水色の布を開いて読んだ、そこに書かれた佐吉の想いが……。

 お春を泣かせる、《現世では身体を売っても心だけは誰にも売らない。慕う男は佐吉さんだけ……。きっと、きっと……死んだら来世で佐吉さんの女房になるから待ってておくれよ》そう心の中で誓う。

 泣いてはいけない、泣いてはいけない、化粧が流れる……と、思いつつ涙をおさえきれないお春だった。

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