吉兆の猫 其ノ參
陽が暮れ、長屋に
ゆきは不思議な猫でお春が売られてから、ずっと佐吉が面倒をみているのだが、決して佐吉の家には上がってこない。あれから、ずっと空家になっているお春の長屋で寝泊まりしているようだ。
まるでお春の帰りを待っているかのように、あの家から決して離れようとしない。
「おや……?」
ゆきの首紐の色が変わっているのに気がついた。
おかしいなあと解いてみて、佐吉は驚いた。なんと自分宛の手紙がしたためられていた。……信じられない。
これは夢ではないかと自分の頬っぺたを叩くと痛い。紛れもなく、それはお春の筆だった。
「ゆき、お春のところへいったのか?」
うれしかった! まさかこんな形でお春の手紙を受け取るとは……猫のゆきが吉原に行ってお春を見つけ出したに違いない。
そういえば、金目銀目のゆきのことを
「猫の身で飼い主を捜すなんて……おまえは不思議な猫だ」
知らぬ素ぶりでゆきは餌を食べている。
佐吉はお春が吉原のどこの御店に売られていったのか知らなかった。あれから三年、お春の消息を長屋の誰ひとりとして知らない。
お春が売られた半年後にお春の父親が死んだ。賭場でやくざと揉めたらしく腹にどすで何箇所も刺されて深川掘に浮かんでいた。自業自得だと長屋のおかみさんたちは噂した。その時もお春に知らせる
あの日から、一日としてお春のことを佐吉は忘れたことがない。
売られる前の日、抱き合って泣いたお春のことが今でも好きだった。いや、物心ついた頃から佐吉にとってお春は特別な存在だった。絶対に自分が守ってやらなければいけない女なのだ。それなのに三年前……何もしてやれなかった。そんな自分が
絶対にお春を見つけ出して、助けあげたいとそればかりを願っていたのだ。お春に逢いたい、さっそく新しい布に手紙を書いてゆきの首に捲いた。
止まっていた
「ゆき、お春に届けてくれ!」
不夜城吉原の明けの六つ時、大門近くでは遊女が客と別れを惜しんで見送りの儀式を行う。嵯峨野屋の花魁皐月は振袖新造、禿たちを引き連れ総勢八名で昨夜の客、幕府の重職に就くお
皐月の座敷に通って、やっと三度目で寝所に誘って貰えたのである。格上の花魁になると一度や二度くらい通っても、おいそれと寝所を共にしてはくれない。やっと想いが叶って、皐月を抱くことができて男は
――なんと単純な生き物、女と寝たら……その女の全てを手に入れたと勘違いしている。
「あぁー疲れた……」
首をぐるりと回し、ため息まじりに皐月が云う。
「皐月姉さんお疲れさまでした!」
禿たちが大声でねぎらった。
「ほんとにしつこい客でうんざりだよ」
吉原遊郭では、皐月ほど位の高い花魁と遊ぶ時には、一回目では口もきいて貰えない、飲んでいる席に呼んでそれでお仕舞いなのだ。二回目を『裏を返す』という、三回目になったら『
花魁にふられたことを怒るような客は『
しょせん花魁も女郎ゆえ寝所の相手は慣れたことである、しかし朝までの何度も挑まれるとさすがに疲れる。これから先、何年、この身を売って生きていくのだろうか?
「あちきは帰って寝るよ、おまえたちはこれで温かいものでも食べてお帰り」
そういって、皐月は客がくれた祝儀袋を連れの者たちに渡した。祝儀を貰った連れの女たちは、その銭でおしるこでも食べようと大喜びだった。
「皐月姉さん」
さっさっと、御見世に向かって歩いていく皐月の後ろ姿を追いかけた。
「姉さん待って……」
その声にやっと振り向いた皐月。
「お春、みんなと食べに行かなかったのかえ?」
「はい、姉さんがお疲れみたいなので、春も一緒に帰ります」
「そうかい……」
いつもの艶やかな座敷で見る皐月と違って、朝日に照らされて見る皐月は疲れてどこか寂しそうだった。看板花魁の命は短い、昇りつめたら、後は落ちていくだけだ……。
ふと思った、皐月姉さんは心の中で慕う人がいるのだろうか?
他の御見世の花魁の中には
皐月姉さんは好きな人はいないのかな? いったい誰が心の支えなんだろう? そんなことを考えながら、皐月の後をついて歩くお春だった。
嵯峨野屋に帰ると、御見世の玄関の前にゆきが座って待っていた。にゃーにゃー、お春を見つけてうれしそうに鳴いた。
「ゆき……」
「おや、きれいな白猫だね」
目を細めて皐月もゆきを見ている。
「昔、飼っていた猫が逢いに来てくれたんです」
「おや珍しい! 金目銀目の猫じゃないか、きっと
「ゆきはとっても不思議な猫なんです!」
「厨房の
皐月も猫好きらしい、そういい置いて御見世の中に入っていった。
「皐月姉さん、よく寝られるように後で生姜湯を持ってあがります!」
中央の階段を上がって自分の座敷に戻ろうとする皐月の背中に、お春は声をかけた。その声に皐月は手を振って応えた。
ゆきの首紐の色が変わっていた、佐吉さんはあたしの文を読んでくれたんだ!
なんだか心が
― お春達者だったか、おいらも達者で暮らしている。どこの御店で
奉公している、お春にあいたい。 佐吉 ―
若草色の布に書かれた文字を目で追いながら、お春の目頭が熱くなった。佐吉さんが、今でも自分のことを想っていてくれたことがうれしい。
お春は父が死んだことを知っていた――。御見世の男衆が知り合いのやくざから賭場で父を殺めた話を聞いてきて、こっそり教えてくれた。母が亡くなった時と違って、それほど悲しくはなかった……。
たぶん、自分は母のことで父をひどく憎んでいたのだろう。
廓の外で自分のことを覚えていてくれているのは佐吉さんしかいない。その佐吉さんとあたしをゆきが取り持ってくれているんだ。吉原の大門から出られないお春の代わりに文を運んでくれている吉兆の猫、なんと不思議な運命だろう。
お春も佐吉に逢いたくて仕方がない、もうすぐ初見世の御開帳だというのに……こんな浮ついた気持ちを、どうすればよいのかお春には分からない。
厨房の片隅で魚のあらを夢中で食べている、ゆき眺めて。
「ゆき、どうしたらいいんだろう?」
ぽつりと呟いて、佐吉へ書く手紙の文面を考えていた。
――佐吉はお春から届いた返事の文を読んでいた。
ゆきの首に捲かれた、薄桃色の布には細く折った紙が挟んであり、お春の筆で詳しい事情が書いてあった。奉公している御見世のこと、もうすぐ初見世があること、吉原で
佐吉は、お春が売られた翌年から、飾り職人の親方の元に弟子入りしていた。
深川界隈では顔の利く長屋の家主の爺さまに頼んで、吉原遊郭の遊女たちの
親方は還暦近い年寄りで、昔堅気な職人気質なので弟子は取らないというのを、無理無理に頼みこんで通いの弟子になった。
最初は、いつでも辞めちまえ! と、つっけんどんな態度だったが、佐吉の熱心さと真面目な素直さに、序々に
今では孫ほど年の違う佐吉に、「わしが生きてる内に、おめぇに技を叩き込む!」そういって、親身になって教えてくれるようになった。
「
親方にお春が奉公している妓楼ことを聞いてみた。
「幼馴染の娘がそこに奉公しているんだ」
「あの
「…………」
「わしも、一度だけ出入りの小間物屋と商いで覗いたことがあるが……そりゃー豪勢な造りの店だったなぁー」
「そうですか……」
その話を聞いて、お春が立派な妓楼に奉公しているのが分かって安心したが、半面……そんな御店の女郎には、おいそれと逢うことができないことも同時に理解できた。
お春、おまえがどこに居たって、おいらは絶対に諦めないぜぇー。
恋しい想いは募るばかりだった――。
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