吉兆の猫 其ノ貳

 あくる日、女衒にくるわに連れて来られたお春。

 吉原遊廓に入るとき入り口に大きな門があった。大門を呼ばれる、その門は女郎たちが逃げ出さないように、いつも門番が見張っていて、お春が女衒と遊廓の中に入ると後ろで、がちゃーんと門を閉める音が響いた。

 自分は生きて、ここからは出られないのかも知れないとお春は悟った。

 ――ここは苦界なのだ。

 お春が売られた御見世おみせは、吉原でも奥に位置する御店おたなで、吉原遊郭では奥に入るほど格式の高い御見世になる。『嵯峨野屋さがのや』と金文字看板のかかった、豪勢な造り妓楼だった。

 奥から出てきたこの御見世の主は、廓の女将おかみと思えないほど気品のある女だった。


「おや、利口そうな娘だね」

 女衒が連れてきたお春をしげしげと見て、女将がそう云う。

「おまえ、読み書きはできるのかい?」

「はい、できます」

 その返答にうんうんとうなずいて、「うちの御見世では器量良しより、読み書きの出来る利口な娘の方が調法するんだよ」どうやら女将はお春がひと目で気に入ったようだ。

 その後、女衒と女将はお春のことで商談を始めた。お春は御見世の玄関先でぼんやりとその遣り取りを眺めていたが、こんな立派な御店おたなに奉公できて良かったと内心思っていた。

 胸に抱いた小さな風呂敷包みには、お春の身の周りの品と母の形見の懐剣かいけんが入っている。

 母は病気になって、父に見捨てられて自害した。最後まで武士の妻としての誇りを捨てたくなかったのだ。

 父の借金はお春が死ぬまで奉公しても到底払えるような額ではなかった。

 ――二度と娑婆しゃばには戻れない。

この廓の中で、生きていくしかないのだと覚悟を決めていたが……それでも心細くて涙がこぼれそうになった。――誰にも見られないように、お春は慌てて袖で涙をぬぐった。


 その時、しゃなりしゃなりと絹ずれの音が聴こえてきた。

 仄暗い座敷の奥から、目も醒めるような綺麗な着物を着た女郎が出てきた。いわゆる花魁と呼ばれる高級な女郎である。

 あまりの美しさに思わずお春は息を呑んで佇んでいると、その花魁も立ち止まって、お春の方をじっと見ていたが……。

「おまえ、名はなんというかえ?」

 凛とした美しい声で訊ねた。

「春と申します」

 どぎまぎしながら、ぴょこんとお辞儀をするお春だった。

「春っていうんだね……そうかい、お春かい……」

 美しい顔でお春を覗きこんで、花魁がひとり言のように呟く。

「お母さん、その娘はうちの御見世に奉公するんでありんすかぇ?」

 廓では『女将おかみ』のことを女郎たちは『お母さん』と呼ぶ仕来しきたりである。

皐月さつき太夫、そうだよ。利口そうないい娘だろう」

「でありんしたら、あちきの部屋で修業させんす!」

 花魁が急にそんなことをいい出した。

 突然の申し出に驚いた女将だが、「おやまぁー、皐月がこの子の面倒みるのかい?」その真意をはかりかねて、「別に構わないけど……いったい、どういう風の吹き回しだい」あきれ顔で問う。

「あちきがきちんと仕込みんす」

「そうかい、それじゃあ、皐月太夫に任せるよ」

「お母さん、今日からその娘はあちきの妹でありんす!」

 これでお春の嵯峨野屋での身の振り方が決まった。


 お春が修業についた、姉女郎の皐月さつきは、吉原女郎の中でも上臈じょうろう皐月と呼ばれ人気、美貌、聡明さ、共に一目置かれる花魁である。

 馴染み客も大名旗本など幕府の要職についている者ばかりで、歌を詠み、書をたしなみ、馴染み客とも機知に富んだ会話ができなければ、吉原屈指の妓楼、嵯峨野屋の看板花魁は務まらない。

 その皐月太夫が素直で聡明なお春のことが、ことのほか気に入って、特に目をかけて、行儀作法、芸事も一から叩きこんで一人前の遊女に育て上げてくれた。


 ――吉原に来て三年目、今年で十六になるお春の初見世はつみせである。

 女郎がお客を取って初めて寝ることを初見世の御開帳ごかいちょうという。いっぱしの女郎になるための大事な仕来たりなのだ。お春の初見世の準備に姉女郎の皐月は江戸中の呉服屋、仕立て屋を呼んで自ら着物を見立てて準備を整えてくれた。

 それらの着物は目の醒めるような紅緋色の仕掛しかけや絹の寝具など、贅を尽くした品々だった。


 上臈皐月の妹女郎の初見世の御開帳と聞き、初客の申し込みが殺到し相手を選ぶのに姉女郎と女将は頭を悩ませていたが、結局、姉女郎皐月の古い馴染み客である旗本のお殿様が選ばれた。

 お春には何も分からないまま初見世の準備は刻々進んでいく。そして豪勢な花魁道中も予定されていた。吉原で権力を持つ姉女郎の後ろ盾がついた、お春の初見世を羨ましがらぬ女郎は吉原中に誰一人としていなかった。

 いよいよ後、ひと月でお春は御開帳で“女”になるのだ。


 金箔張りの襖を開くと、清々しい青畳の匂いが立ちのぼる。

 初見世からひとり立ちして、振袖新造ふりそでしんぞうから花魁、春日かすが太夫になる。そんなお春のために嵯峨野屋の女将が座敷をあてがってくれた。

 座敷は襖も畳も新しく入れ替えられて、豪華な調度品も運び込まれていた。後は主人あるじである、お春が座に就くだけの状態なのだ。

 この部屋で、これからお客の接待をし、自分の元に付く新造や禿かむろたちの面倒を見ていかなければいけない。嵯峨野屋の花魁春日になったからにはしっかりとやらねばならないのだ、身が引き締まるお春だった。


 振袖新造のお春は皐月の座敷で舞いや三味線、お客にお酌をすることはあるが、まだ生娘である。

 女郎がお客と寝所ですることは頭では分かっている、だが経験がない、不安だらけなのだ。これだけの支度をして貰って、ちゃんとやっていけるのか……実は重圧感で逃げ出したいお春だった。

 そんな気持ちで格子窓の外を眺めているところに、白い猫と目が合ったのだ。

 ……まさか飼い猫のゆきだったとは!


「ゆき、おまえと逢えてうれしいよ、佐吉さんは元気にしているの?」

 お春の膝の上でゆきは気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らす。

 ふわふわとした真っ白なゆきの毛並みを撫でながら、売られる前の日、佐吉と泣きながら抱き合って別れを惜しんだ、あの日の自分を思いだしていた。

 ふと思いついて、ゆきの赤い首紐を外すと、


 ― 佐吉さん、ゆきをありがとう 春 ―


 青い布に筆で書いて、ゆきの首にしっかりと結んだ。


「春姉さん、皐月姉さんが呼んでいます」

 座敷にいると、禿かむろがお春を呼びにきた。その声に反応するように、ゆきはむくっと立ち上がり、来た道からさっと外へ出ていった。

「あっ、ゆき!」

 その後ろ姿を目で追いながらも、今の自分はそんな感傷に浸っている時期ではないのだと、現実に立ち戻ろうとするお春だった。


「お春、どこへいってたんだい?」

 襦袢姿で花魁髷おいらんまげを髪結いに結って貰いながら、皐月が怪訝けげんそうな顔で訊く。

「座敷にいっておりました……」

「そうかい、いよいよだね」

 うれしそうに姉女郎はいう、自分が育てた妹女郎がひとり立ちするのは一入ひとしお感慨かんがいだろう。

「なんだかここのとこ、おまえ元気なくて……心配していたんだよ」

「こんな立派な支度をお母さんや姉さんにしていただいて、ちゃんと、やれるかと心配で……」

 そういって俯くお春に、「心配ないさ、お春、おまえならやれるよ!」温かく励ます皐月の優しさにお春の胸は熱くなり、涙がぽろりと零れた。

「お春は生娘でありんすから ……御開帳ごかいちょうが怖いのかえ?」

「……はい」

 こくりと、こうべを垂れた。

「おまえの御開帳の相手をしてくださる、お殿様はいいお方だよ、決して無茶はしないから、安心おしよ!」

「…………」

 皐月の言葉に、何故かお春の胸に佐吉の面影が浮き上がった。

 そんなお春の心の動きを皐月は見逃さない、「……おまえ、まさか好きな男でもいるのかい?」と訊いた。

「いいえ、そんなんじゃないんです……」

「女郎は好きな男がいても、お客に抱かれなければならない因果な商売さ」

「はい……」

「けれど ……お客に抱かれるときは、好きな男に抱かれてありんすと思って相手をすればいいんだよ 」

「はい、姉さん」

 皐月はお春のことを実の妹のように目をかけてくれる。

 嵯峨野屋にきてから、お春は皐月太夫のお気に入りの妹女郎というだけで、決して苛められたり、粗末に扱われたことがない。まるで身内のように、いつも自分のことを見守ってくれている。

 その温情に感謝しながらも疑問に思っていた。


 一度、皐月に訊いたことがある、

(どうして、こんなに可愛がってくれるんですか?)

 おまえは死んだあちきの妹に顔も性格もそっくりでね、おまけに名前まで同じ『 お春 』っいうんだよ。それで運命を感じてさ、放って置けありんせん、早死にした妹の分までおまえを幸せにしてやりたい。

 そういって、気丈な皐月が珍しく袖で涙をぬぐっていた。

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