花魁

泡沫恋歌

吉兆の猫 其ノ壹

 お春は十二歳のときに親の借金の形でくるわに売られた。

 当時、お上が遊郭と認めていたのは、吉原、島原、新町の三つだけである。吉原遊郭よしわらゆうかくは大門をくぐって入っていくと仲之町、通りを挟んで左右に江戸町、京町と続く。夜にもなると不夜城ふやじょうは客と女郎たちの嬌声で華やぐ。

 吉原では大門から入って奥にいくほど、妓楼の格式は高くなっていくのである。お春が売られた嵯峨野屋さがのやは吉原でも一、二を競う老舗の妓楼であった。お抱えの遊女たちは花魁太夫と呼ばれ、町人風情では到底抱けない高級女郎なのだ。

 貧しい家の娘とはいえ武家の生まれで読み書きのできるお春は、客筋の良い、この妓楼で奉公することになった。


「あらっ」

 格子窓の向こう側、隣の棟のひさしに白い猫がいる。

 先ほどから、こちらを見ている白猫と目が合った。お春はその猫に釘付けになった。

 まさか……?

 そのまま猫はこちらの窓に飛び移り、格子をするりと抜けて座敷に上がってきた。

「ゆき、おまえはゆきじゃないか!」

 驚いた。その白猫はまぎれもなく、お春が廓に売られるまで飼っていた、ゆきだった。ゆきは両眼の色が違う金眼銀目の珍しい白猫である。

「ゆき、どうして?」

 足元で喉をごろごろ鳴らして、お春に擦り寄ってくる。

「あたしのことを覚えていてくれたんだね」

 吉原に売られてから三年の歳月が経つ、日々の暮らしに追われてゆきのことを思い出すことすらなかったお春だったのに……ゆきは違う。猫は人に懐かない薄情な生き物だというが、お春のことをちゃんと覚えていてくれたのだ。なぜ、ゆきが自分を捜しあてたのか不思議でならない。

 人間にはわからない動物の勘みたいなのがあるのだろうか――。 

「おまえ、あたしに逢いに吉原まできてくれたのかい?」

 手を伸ばすとゆきは大人しく抱っこされた、毛艶もよくずっしりと重い……たぶん誰かに大事に飼われているようだ。

 ゆきは赤い布を首に巻いていた。緩んでいたので締め直そうとはずすと布の内側に、


 ― 深川町 佐吉 ―


 と、墨で書いてある。

 ゆきが迷子になった時のために、飼い主の名を書いてあるのだろう。

『佐吉』それは懐かしい名だった。お春が吉原に売られるまで暮らしていた長屋の幼馴染あの佐吉に違いない。ちゃんとゆきの面倒をみてくれていたのだ。  

「佐吉さん、ありがとう……」

 ゆきを抱きしめて、お春はうれし涙が止まらない。


 お春は深川町の長屋で生まれた。

 父は武士だったが国元の藩が御取り潰しになったがために失職、江戸の知人を頼って支藩の口を探しにきたのだ。母はいいなづけの父に呼ばれ、国元から江戸にきたが所帯を持ってから、ずっと貧乏暮らしだった。

 父は寺子屋をして長屋の子どもたちに読み書きを教え、たまに道場で稽古をつけたりして、幾ばくかの日銭を稼ぎ、母は着物の仕立てと茶屋の賄いで働いていた。そうやって、家族三人身を寄せ合うように暮らしていた。


 それでも貧しい夫婦は家賃が払えず、長屋の大家に追い出されそうになったが……大家の三人の孫に読み書きを教えるという約束で長屋に置いて貰っていた。

 佐吉は大家の孫で総領息子そうりょうむすこ

 たいへん利発な子どもで、大家の爺さんが特に目をかけて可愛がっていた。お春が長屋の悪餓鬼にいじめられると、いつも佐吉が助けてくれた。

「お春をいじめる奴はおいらがゆるさねぇ!」

 そう言って、いじめた相手に突進するのだ。なぜか佐吉はいつもお春には優しかった。そんな佐吉のことをお春も好きだった。


 そんなある日、お春はお堀で捨て猫を拾った。

 それは真っ白な仔猫で見つけた時、今にも死にそうに弱々しく、にゃーにゃーと鳴いていた。このままでは死んでしまう……放って置けずに長屋に連れて帰ったら、たいそう父に叱られた。

「猫など飼う余裕などない、今すぐ捨てて参れ!」

 そう云って、頭ごなしにお春を怒鳴った。

 しかし、涙ぐんでいるお春と白猫を見て母が、「旦那さま、この白猫は金目銀目の猫でございます」という。

 やっと目の明いたくらいの仔猫である。

いにしえより、金目銀目の白猫は吉兆きっちょうの使いと申します……」

 その言葉に支藩の夢が叶わず腐っていた父は、『吉兆』ならば捨てるわけにはいかぬ……と、飼うことを許してくれた。そして猫は『ゆき』と名付けられて、お春の飼い猫になった。


 母が病弱で兄弟のいないお春にとって牝猫のゆきは妹のような存在だった。

 見目の良いゆきは気品の漂う美しい白猫で、両目の色が違うせいか神秘的な……霊力のようなものを感じさせた。

 ゆきが来て半年ほどたった頃、母が病にかかった。

 時折、こんこんと力なく咳をするようになった。どうやら労咳ろうがいのようだ……父は母が労咳だと知って、家に寄り付かなくなってしまった。

 支藩が叶わぬ浪人の父は、最近ではやくざの用心棒のようなことまでやっていて、賭場や遊郭など……悪い遊びを覚えたようだ。

 何日も父は家に帰らない――。

 心配した大家の孫の佐吉が、わずかだが食べ物を届けてくれた。母は日々痩せて衰弱していく、父を探しに吉原界隈まで行ったこともあるが、結局、父は見つからなかった。


「お春、おいで……」

 寝床から起き上がり母が呼ぶ、呼ばれたお春に、「お堀の近くに真っ赤な曼珠沙華まんじゅしゃげが咲いているだろうか?」と訊く。

「はい、母上」

 こんこんと咳をしながら、「曼珠沙華の花が見たい、おまえ摘んできておくれ」

 珍しく母がそんなことをお春に頼んだ。「たった今摘んで参ります」と、お春は家を飛び出した。

  

 秋の夕日に染まった深川堀の周辺には、真っ赤な曼珠沙華が毒々しいほどに咲き乱れていた。球根には毒があり、彼岸花ひがんばな死人花しびとのはなとも呼ばれる。こんな不吉な花をなぜ見たいと母がいい出したのか不思議に思いながらも、十輪ほど手折って急いで家に持って帰った。


 長屋の前では、ゆきがお春を待っていたように、にゃーにゃーと鳴いていた。

「ゆき、おまえ閉め出されたの」

 そう言いながら戸口を開けて、お春が見たものは……。

 真っ赤な曼珠沙華の中で眠る母の姿だった。だが、その赤いものは母の流した血で、懐剣を喉に突き刺し、武士の妻は自害していたのだ。

 お春は上がりかまちにへなへなとへたり込んで、母の死体を凝視していた……。あまりのことに、これが現実なのか夢なのか判らない。

 嘘? これは夢……? 母上、曼珠沙華を摘んで参りました。ほらっ、こんなに赤い……赤い……。

 にゃーにゃーとしきりに鳴くゆきの声に正気を取り戻し、お春は張り裂けんばかりに絶叫した。

 その声に長屋の住人たちが飛び出してきた。お春はそのまま倒れて気を失った。その足元には真っ赤な曼珠沙華が散らばって、秋の夕暮れを彩っていた。


 いつ書いたのか、『旦那様、申し訳ありません、お春をお願いします』と書かれた、母の遺書が残されていた。

 しめやかな葬儀を長屋の人達がとりおこなってくれた。妻が死んだことを長屋の者が吉原で遊んでいる父に伝えに行ったが、それでも父は帰ってこなかった――。

 葬儀を終えて三、四日経った頃、父の代わりに女衒ぜげんが長屋にやってきた。父の博打の借金の形に、娘のお春が売られたのだ。


 お春が売られたと聞いて、佐吉が目を真っ赤にして泣いた。

「おいらがもっと大人だったら、お春をどこにもやらねぇー」

「佐吉さん……」

「すまねぇ、おいらはお春に何にもしてやれない……」

 そういって、佐吉は肩を震わせて泣いた。

 どの道、父も帰らず行くあてのないお春にとって、今さら売られたとて落胆するほどのことでもない。どうにでもなれという自棄やけっぱちな気持ちだったが……。

 ただひとつ、飼い猫のゆきのことだけが心残りだった。

「佐吉さん、ゆきをどうかお願いします」

 そう頼むと、ゆきをお春だと思って大事に面倒みるからと佐吉が約束してくれた。

「お春、おいらが大人になって稼げるようになったら、きっと迎えにいくから……」

「佐吉さん……」

「絶対に、お春を迎えいくから待っていろよ」

 佐吉は着物の袖で何度も涙をぬぐっていた。

「うん、きっと……待っているから……」

「きっと、きっと、おいらが迎えにいく……」

「きっと、きっと、佐吉さんを待ってる」

 お春の目からも大粒の涙がぽろぽろ零れ落ちて、まだ幼いふたりは抱き合って泣いていた。


 ――その姿をゆきが足もとで静かに見ていた。

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