第6話 憧れのハンター

「うっわああぁ! すごい……。これが外の世界なんだ……」


 到底信じられない景色を前にして、プレアはあんぐりと口を開けていた。

 しかし同時に、心の奥底から、言葉にできないほどの圧倒的な感情がこみあげてくる。


 突き出した拳をグッと握りしめ、プレアは喜びを噛み締めた。

 今、プレアの目の前には、幼い頃からずっと夢見てきた「外の世界」の風景が広がっている。


 所狭しと生い茂る、見たこともないくらいに沢山の木々。

 数えても数えても、その数をはかり知ることはできない。

 今まで、この世界に数えきれないほど沢山のものがあるだなんて、思ってもみなかった。

 しかも、目に入る木々のどれもが、街にあるどんなものよりも鮮やかで美しい緑色をしているのだ。


 上を見上げれば、どこまでも高い「空」があった。

 かつて写真で見た綺麗な青色の物とは違い、空は美しいオレンジ色をしていた。

 暖かな光を感じて西の空を見上げると、そこには「太陽」があった。本当にあった。

 「太陽」を直視しようとして、プレアは思わず目を伏せる。

 明るさも、暖かさも、プレアが見知った白色灯とは比べ物にならない。


 そして何より、辺りを見回せど見回せど、あの狭くて冷たい「岩の壁」は存在しない。

 世界はどこまでも広く、自由だった。


 ヒュウと風が吹き、一枚の木の葉が頬にあたる。

 吹き抜ける風は心地よく、照りつける太陽は暖かい。


 意気揚々と、プレアは持ってきたカバンからスケッチブックを取り出した。

 そこには、今まで書いてきた沢山の絵がぎっしりと詰まっている。

 プレアの宝物だ。


 そして今日。その宝物に新たな一ページを、最高の一ページを加えるべく、プレアは近くの木の下に腰かけた。



 ところで、プレアがどのようにして街の外に出てきたのかという話であるが。


 地下都市には、定期的に外の空気を取り入れるための換気口がある。

 道と言うにはあまりに細くて、大人達には到底通ることができないだろう。

 しかし、体の小さなプレアにとっては、そう難しい話ではなかった。


 もっとも、このことに気づいたのは随分と昔の事だったのだが、実践に移したのは今日が初めてだった。


 外の世界へ行くには通常、特別な許可が必要である。ゆえに帰ったら、大人達からかつてないほど叱りを受けるだろう。場合によっては、刑罰を受けるかもしれない。

 しかし、その代わりに自分の夢が叶うのだ。

 そう考えれば、怒られるくらい安いものである。


「思ってたより簡単だったなぁ」


 この時、プレアの脳は冷静さを欠いていた。

 心の奥に、長い間大切にしまっていた夢を無残に踏みにじられ、まともな思考ができないでいたのだ。

 普段の彼ならば、絶対にしない行動。

 そして、絶対に見落とさないであろう出来事。


 彼はすっかり忘れていた。


 凄腕のハンターが、なぜこの街を訪れたのかを。


「夕焼けかあ……綺麗だなあ。赤いなぁ」


 まず始めにプレアが描いたのは、空に広がる夕焼けだった。

 既に太陽の一部は地平線に沈みかけていたが、そんなことは些細なことだ。

 プレアは、生まれて初めて見る鮮やかなオレンジ色の景色に、かつてないほど心を惹かれていた。

 その場で何度もスケッチしたり、ただただうっとりと眺めてみたり。


 その時だった。


 ガサガサと背後から聞こえてきた音で、プレアはようやく思い出した。

 自分が今、どこにいるのかを。

 そこには素晴らしい世界が広がっているにもかかわらず、人々がなぜ外の世界に出ようとしないのかを。

 人類がなぜ、暗くて狭い地下の世界へ追われることになったのかを。


 この世界の覇者が何者であるかを。


「ククク、俺はツイてるなあ」



『ねぇねぇ。おばあちゃん。どうして街の外に出ちゃいけないの?』


 昔からプレアがこんなことを尋ねると、彼の祖母は決まってこう言った。


『それはね。プレア。外には強くて怖ーい化け物が沢山いて、食べられちゃうからなんだよ』

『ばけもの?』

『そうさ。悪い吸血鬼が、パクッ!と一口で』

『ふーん』

『だから、絶対に外へ行こうなんて考えちゃいけない。分かったね?』

『わかった!』

『よしよし。プレアはいい子だねぇ』


 プレアはふと、かつての祖母の言葉を思い出していた。


「あ」


 茂みの中から、人の姿をしたナニカがゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 見た目はプレアの知る人間そのものだった。

 30代前半のごくごく一般的な男の顔。

 髪の毛は綺麗に刈りそろえられ、黒くてヒラヒラとした服装を身に纏っている。

 肌の色が少し白いことを除けば、なにも変わったところは見受けられない。

 しかし、プレアの脳はこれ以上ないほどに危険信号を発していた。


 男と目が合った。頭の中にサイレンが響き渡る。


「うまそうな人間ガキみーっけ」


 その言葉に、一目見た時から感じていた嫌な予感は確信に変わった。

 間違いない。

 あろうことか自分は、吸血鬼に遭遇してしまったのだ。


「あ、あぁ、ああ……」


 口の中から情けない声が漏れる。

 逃げなければならない。

 頭の中ではそうわかっていても、プレアの足はガタガタと震えるだけで、ピクリとも動いてくれなかった。


 ニヤリと笑う男の口元に、ナイフのような牙が現れた。

 続けて、バキバキと骨が変形する音を立てながら、両手の爪が鋭くとがっていく。


「う、うわあああああああっ!」


 それを見たプレアは、ようやく動き出した。

 もはや絶叫に近い叫び声をあげながら、ただひたすらに街の入口めがけて走った。


 否。走ろうとした。


「ッ!?~~~~!!」


 突然、ズシンという衝撃がプレアを襲った。

 直後。何かに押しつぶされたかのように、足元の地面がミシミシと音を立てて陥没した。

 慌てて地面から足を引き抜こうとして、プレアはようやく自分の体に起こった異変に気が付く。


 足が、腕が、頭が、ピクリとも動かないのだ。

 それどころか、動かそうとすればするほど、まるで体が金属の塊になってしまったかのように重くなっていく。

 瞬く間に、プレアの五体は地面にはりつけになった。


「う…あッ……ガッ……」


 体中に、すさまじい痛みが走る。

 骨がきしみ、内臓が押しつぶさせるような感覚が襲う。


重力網グラビティ・バウンド


 吸血鬼は、魔法と呼ばれる特異な力を使う。

 発動時にしばしば赤黒い輝きを伴い、物理法則さえも捻じ曲げてしまう、超常的な力。

 それは、人間には決して扱うことのできないものだ。

 かつての人類は生存競争において、その圧倒的な力を前に敗れ去ったと言われている。


 おそらく、目の前の男が使ったものも魔法の一種だろう。


 つかつかと男が近づいてくるのが見えた。

 しかし蜘蛛の巣に囚われた蝶のように、プレアの体はピクリとも動かない。

 男からは、ゾッとするような赤黒い光が立ち昇っている。

 そしてその周りには、大量の光の欠片が渦巻いているのが見えた。


 既に太陽は落ちはじめ、辺りはうっすらと暗くなっている。

 ふと、こちらを見つめる男と目があった。夕日を受けて、男の牙がきらりと光る。牙には、まだ新しい血の跡があった。


 男はこちらを見て、薄く笑った。


「く、来るなあああッ!!」


 プレアの叫び声に同調して、辺りに渦巻く光の欠片が輝きを増す。

 しかし今のプレアにとって、そんなことはどうでもいい。

 力の限りを振り絞って、足元の小石を投げつける。

 小石は、すさまじい速度で男にめがけて飛んでいくが、命中することはなかった。

 いや、正確には外れたわけではない。男の体をすり抜けたのだ。

 外れた小石が木の幹に命中し、大きな風穴を開ける。


「な、なんで……」

「食い物の分際で、調子に乗るんじゃねえよ。つーか、何だ今の。……いや、そんなわけねえか」


「まぁ、いい。なんにせよ、調子に乗ったクソガキには罰を与えないとな」


 男がプレアに向かって手をかざすと、プカプカとプレアの体が宙に浮いた。

 次の瞬間。


 いつのまにかプレアの体はすさまじい速度で吹き飛ばされ、木の幹に叩きつけられていた。


「あッ…ガッ! ゲホ……」


 衝撃によって、肺からごっそりと空気が抜けていく。肌が裂け、叩きつけられた木の幹に、真っ赤な血の跡が付着した。

 体中が痛い。全身が粉々に砕けてしまいそうだった。


「あぁ。いい! 香ばしい血液の香りだ! やっぱり、人間は生に限るよなぁ!」


 男は笑い声とともに、プレアを右へ左へと振り回した。

 大木に叩きつけられ、肌色の肌から血しぶきが飛び散る度に、男は愉悦の声を上げ、薄暗い森に絶叫が響き渡る。

 時間にして、およそ一分程度だっただろうか。

 男はまるでオモチャで遊ぶかのように、プレアを使って遊んでいた。


 しかしやがて飽きてしまったのだろう。男は最後に思い切りプレアを大木に叩きつけると、まるでゴミでも扱っているかのように、ポイと地面に放り投げた。


「誰か……たす……けて」


 言葉にならないほどの小さな声で助けを呼んでみる。

 無論、助けが来るなんて思っていない。

 そうでもして望みを持たなければ、心がどうにかしてしまいそうだったからだ。


「うぅっ……」


 激痛のあまり目に涙が滲んだ。

 既に、あばら骨の何本かは折れてしまっているだろう。

 先刻、ハンターに叩きつけられた時の事を思い出す。

 あの時は、ここまで痛くはなかった。


「さてと」


 ボフンと音を立てて、男の手の平から鎖が伸びてくる。

 そしてそれは、ボウッと赤黒い光を放ちながら幾重にも別れ、プレアへと襲い掛かった。

 既に満身創痍のプレアに抵抗する力が残っているはずもなく、すぐに両手両足が縛られ、プレアは身動き一つ取れなくなる。

 どれだけ力を込めようとも、鎖はビクともしなかった。


「運動をして腹も減ったことだし、『調理』といくか」


 男が右手を振り上げる。

 ナイフのような爪が夕日を受けて真っ赤に輝いていた。

 必死に動こうとしても、体はピクリとも動かない。

 助けを呼ぼうと動かした口は、壊れかけの送風機のように短く息を吐くだけで、まるで言葉にならなかった。

 恐怖のあまり喉がカラカラになる。目から涙が溢れる。


 死ぬ。死んでしまう。

 あと一分後か、それとも十秒後か。

 あるいはもっと早いかもしれない。

 自分は、この化物に無残に体を貫かれて死ぬ。

 誰も助けに来ないだろう。

 掟を破ってしまった自分に、もはや助かる道などない。


「嫌だっ……死にたくないっ……」


 ナイフが迫る。

 風を切り裂き、みるみるうちにプレアの体に近づいてくる。

 1メートル。50センチ。10センチ。3センチ。


 あと1センチ。


「どけえええっ!」


 突然、脇から何者かの強烈な蹴りが入って、瞬く間にプレアを吹き飛ばした。


 すさまじい衝撃。

 肺から空気が全て抜け、腹部に激痛が走る。

 ビキバキとあばらの骨が何本も折れて、深い森の中を、プレアは弾かれるように何度も転がった。

 大木に激突し、ようやく勢いが相殺される。


対吸血鬼兵器シルバーズ起動ッッ!」

「な、なぜお前が!! くそ!!」


 力なく横たわるプレアの眼が、男の残像をとらえた。


 ボロ雑巾のような鼠色のマントが、吸血鬼に肉薄する。

 銀色に輝く、巨大な刀剣を携えて。


下等生物くいものの分際で!」


 再び、吸血鬼の全身が赤黒い光に包まれる。

 ズゥンという重低音が、地面を走る。

 すさまじい衝撃波とともに、大森林の、木という木が全て根こそぎ持ち上がった。


「俺の食事の、邪魔をするなああああっ!」


 直後、数十本もの大木が、砲弾のような勢いでボロマントを襲った。


「おおおおおおおおっ!」


 銀色の剣閃が、吸血鬼を貫いた。



 ◇ ◇ ◇



「大丈夫か坊主……って、こりゃ全然大丈夫じゃねえな」


 泣きじゃくる少年の肩に、男はそっと手を置いた。

 そしてそのまま、わさわさと乱雑に頭を撫でる。


「悪かったな。思い切り蹴ってしまったもんで、坊主の怪我を増やしちまった」


 男の言葉はどこか暖かく、先刻のようなふてぶてしさは微塵も感じられなかった。

 一向に泣き止まない少年に向かって、困ったように男は尋ねる。


「どうかしたのか、坊主」

「うっ……ヒック。だっで……ヒック……!」


「おじさんの足が……!」


 男には右足が無かった。

 無残に引きちぎれた足の根元からは、今もなおポタポタと血が垂れている。

 おそらくは少年を蹴り飛ばした時であろう。

 少年の代わりに、あのナイフのような腕の攻撃を受けたのだ。


「気にすんな。元々足は悪かったんだ。あとおじさんじゃねえ。俺にはジークって名前がある」


 男は一言そう付け加えると、懐から小さな瓶を取り出した。

 そのまま、流れるようにその場で胡座をかいて、血まみれの足にそれを塗り始める。


 プレアはこの時、目の前の男をひと時でもろくでなしと思ったことを恥じた。

 男は分かっていたのだ。

 外の世界がどれほど危険な場所であるのかを。

 夢見がちな少年が、この世界に飛び出した後に辿るであろう結末を。


 ゆえに、少年は尋ねる。


「ぐずっ……ジークざん。僕は、あなたみたいな立派なハンターになりだいです! ……僕なんかでも、なれまずか?」


 少年の言葉に、男はニヤリと笑った。


「なるのは勝手だが、この先地獄だぜ? 仲間はすぐ死ぬし、常に危険と隣り合わせだ。それでも、坊主はハンターになりたいか?」

「なりだいです!」


 即答だった。

 その姿を見て、男はくっくっと小さく笑った。


「ま、お前次第だ。でもな坊主」

「え……」


「この世に、不可能なんてもんは存在しないのさ。坊主が心の底からなりたい、って思ってるなら、きっとなれる。ま、オススメはしないがな」

「うっ……はぃ……」


 再び、少年の目頭が熱くなった。

 痛いからではない。悲しいからでもない。怖いわけでもない。

 それなのに、涙は止めどなく溢れ、自分でももうどうしていいのか分からなかった。


「坊主、名前は?」


 最後に男は、少年にそう尋ねた。


「ぐすっ。プレア。プレア……バジールでず」


 少年は、男の肩の中で泣いた。泣いて泣いて、泣きじゃくった。

 我慢しようとしても、もはや体は言うことを聞かない。


 真っ赤な夕焼け空が落ちるまで、少年の泣き声が止むことは無かった。

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