第28話 Standhaftigkeit―不屈―

 死神にとりつかれたような、孤独で不安な闇におおわれた時間がどれほど続いただろう。そろそろ空が白み始めようとする頃、馬のいななく声が、三度、四度とした。


うまやでシュタールが鳴いているのか……?)


 いや、シュタールは何の意味もなく騒ぐような馬鹿ではない。別の馬かも知れない。そう思いながらも、何となく気になったゲッツは、窓から下を見下ろした。


「エッボ……? なんでエッボがここに?」


 獅子亭ししていの庭にある厩の前に、なぜかエッボがいて、周囲をきょろきょろと見回していた。どうやら、馬に騒がれたため、宿の人間が起き出して外に出て来たらどうしようとおびえているらしい。


(やっぱり、さっきのはシュタールが鳴いたんだ。エッボが来たことを俺に教えてくれたんだ)


 そう思ったゲッツは急に元気を出し、部屋を出て忍び足で一階を降り、古くなってきしみやすい宿の扉をきわめて慎重に開け、庭のエッボに小声で呼びかけた。


 ちなみに、この一連の行動をしただけで、ゲッツはすでに息が上がっていた。ほんの数日寝込んだだけで、こんなにも体力が衰えてしまったのかとゲッツは改めて衝撃を受けた。


「殿様! よ、よかったぁ……。殿様の馬がいないか確認しようと思って厩に忍び込んだらシュタールに騒がれて、心臓が止まるかと思いました」


 エッボは、まだ義足に慣れないのか、ぎこちない歩き方でゲッツに近寄って来た。ゲッツは、ランツフートの人間に自分が辺境伯へんきょうはくの陣から忍んで来たエッボと会っているのを見られたらまずいと思い、


「とにかく、厩の中で隠れて話そう。シュタールは賢い馬だから、もう騒がないはずだ」


 そう言い、エッボを連れて厩の中に入った。


「殿様。右手は……」


「ああ。……この通りさ。ちぎれちまった右手は、敵方にいた親友が拾ってくれて、箱に入れて今も持っている。……未練たらしいよな」


「そ、そんなこと、ありません! これまでの人生、ゲッツ様をずっと助けてくれた右手じゃないですか!」


「エッボ。あまり大声を出すと、宿の人間に気づかれちまう」


「す、すみません……」


 エッボはそう言って謝ると、自分がここに来た目的を思い出し、慌ててゲッツにその説明をした。


「軍議で、ミュンヘンへの撤退が決定しました。今夜、敵に追撃されないように夜陰に乗じて全軍が退却します。この地を離れる前に、ランツフート陣営にいる殿様の安否あんぴを確認しておきたいとナイトハルト様がおっしゃり、おいらがその役目をやらせて欲しいと願い出たんです」


「何? そんな危険な仕事を自ら志願したのか? この戦時下でランツフートの市内に潜入しようとして捕まったら、ただじゃ済まないぞ。よくここまで来られたな」


「実は、ループレヒト公から届いた手紙には、殿様はクリストフ・フォン・ギークという騎士の陣にいると書かれていたので、最初、おいらはクリストフ様の陣に侵入しようとしたんです。でも、あっさり捕まっちまって……。けれど、おいらが『自分はゲッツ様の傭兵です』と答えたら、クリストフ様は、ゲッツ様の居場所を教えて下さり、ランツフートの市内にこっそりと入れて下さったんです」


「そうか、クリストフが……。うん? お前、今、『自分はゲッツ様の傭兵』だと言ったか? 傭兵になるのは嫌じゃなかったのか?」


「……おいらなんかが傭兵になっても何の役にも立たないのではと不安で、最初はお断りしましたが、おいらに新しい足を与えてくれた殿様が右手を失ってしまったと聞いて、考えが変わったんです。おいらが、殿様の手になろうと……」


 エッボはそう言うと、布に包んで持っていた鉄製の義手をゲッツに手渡した。


 ベルリヒンゲン家の刀鍛冶ロルフ親方が発明したこの鉄の義手は、指を手動で開閉させて剣を握ることができるように作られている。しかし、義手を固定する場所が切断部の手首のため、まだ傷口が完全に塞がっていない今のゲッツでは装着できないだろう。これを身に着けることができるようになるには、半年ぐらいはかかるかも知れない。


「この義手で補えないことは、おいらがやります。これからは、おいらが殿様の手となり、一緒に戦います。……その決意を伝えたくて、おいらは殿様に会いに来たんです」


「……一緒に戦う。片手だけになっちまった俺が、もう一度戦場に立てるのだろうか……」


 ゲッツがそんなことを考えて悩んでいると、エッボはゲッツの左手を握り、「情けないことを言わないでください、殿様」と涙ぐみながら言った。


「『希望を失ったら、残りの人生をあきらめることになる』。殿様は、お父上の言葉をおいらに教えてくれたじゃないですか。人生が絶望だけで終わったら悲しい、残された命と体でできることがきっとある。おいらにそう言ってくれたじゃないですか。おいらにはそう言っておいて、ご自分は諦めるんですか、殿様のこれからの人生を!」


「うっ……くっ……」


 まさか、自分がエッボに希望を与えるために言った言葉が、今こうやって自分に返ってくるとは夢にも思わなかった。


(エッボは、俺の言葉で自分の人生を諦めないと決心したんだ。もしも、俺がここで挫折してしまったら……俺はエッボに対して無責任なことを言ってしまったことになる)


 ゲッツは、ぎゅっと唇を噛みしめた。


 俺だってこれからの人生を諦めたくはない。希望を持ちたい。しかし、残りの人生を右手なしで生きていく自信がなかった。いや、今だってない。それでも――。


「逃げずに生きて行くしかないんだな、俺の人生を……。エッボ、ありがとう。説教してもらわなかったら、俺はこのまま腐っちまうところだった」


「お、おいらのほうこそ、出過ぎたことを言ってしまい、申し訳ありません。殿様が元気を取り戻してくれたみたいで嬉しいです」


 そう言いながら、エッボが照れ臭そうに頭をかいていると、厩の入口から日の光が差し込んできた。


「いけねえ、もう朝だ。宿の人間たちがそろそろ起きる。殿様、おいらはこれで失礼しますが、ナイトハルト様や家来の方たちに伝言はありますか?」


「一つだけ、ある」


 ゲッツは一呼吸置くと、エッボにこう言った。


「クリストフが無事に生きていることをザクセンハイム城のドロテーア殿に伝えてやって欲しい」


 クリストフは、ドロテーアとは結婚できないと言った。しかし、


(だったら、俺がドロテーアと結ばれてもいいのだ)


 とは、ゲッツは思うことができなかったのである。愛しいドロテーアには、彼女が望む男と結婚して幸福になって欲しかった。自分の幸せよりも、ドロテーアの幸せを優先させたいと思っていたのだ。


 なぜクリストフがドロテーアと距離を置こうとするのかは分からないが、二人で手紙のやり取りでもして互いに話し合えば、兄妹のように仲が良かった以前の関係にまた戻れるかも知れない。ゲッツは、自分のようなろくでなしの想いなどはむくわれなくてもいいから、愛する女と親友が幸せになって欲しいと願っていたのである。



            *   *   *



 その日から、ゲッツは、クリストフが付けてくれた下女たちになるべく頼らないようにして、身の回りのことを大変でも自分でやった。左手一本で着替えや食事、便所などをできるように挑戦もしてみた。


 そして、体力も取り戻さなければと考え、クリストフを介してループレヒトにランツフート市内を自由に行き来できる許可をもらい、馬の世話係の下男を供にして愛馬シュタールで市内の大通りや広場を走り回る訓練をした。


 何度か落馬してしまったが、ゲッツはめげずに乗馬で体力作りを続けた。父キリアンは落馬が原因で左足を切断したため、ゲッツは幼少から家臣たちに落馬時の受け身を叩きこまれていて、片手だけでも受け身は上手くできたのである。


 ミュンヘン陣営の連合軍がゲッツを置き去りにしてランツフートから撤退した翌日には、あの老傭兵ケヒリがゲッツの元を訪ねて来た。


 ケヒリは、ランツフート市外に張っていた陣を引き払うと、かつて戦った宿敵とうり二つな青年のことが気になり、息子のヘルゲを伴って獅子亭に姿を現したのである。


「片手を失って気落ちしているかと思えば、ずいぶんと元気そうではないか」


 片手で愛馬シュタールの世話をしていたゲッツの姿を厩で発見したケヒリは、ゲッツにそう声をかけた。


 右手を失った時、ケヒリは精神的に立ち直るのに三、四か月はかかった。それなのに、ゲッツは一か月も経っていないのに元気そうに動き回っている。この精神力は尋常じんじょうではないと、さすがのケヒリも驚いたのである。


「お前は、やはり、あの男……キリアン・フォン・ベルリヒンゲンの息子か」


「ああ、そうだ。そういうあんたは、俺の父上がかつて戦ったという戦士か」


 ゲッツが、シュタールにエサを食べさせながらケヒリをにらむと、老傭兵は首をわずかに上下させて肯定した。


 ゲッツとケヒリは、しばしの間、黙って睨み合っていたが、ゲッツがその沈黙を破り、「あんたに聞きたいことがある」と言った。


隻腕せきわんになったあんたは、どうやってそこまで強くなれたんだ。俺にあんたの特訓方法を教えてはくれないか。俺は、戦士としてもう一度戦場に立ちたいんだ」


 ゲッツのその問いに対し、ケヒリは沈黙を続けた。


(自分の右手を奪った男の息子になど、そんなことを教える義理はないか……)


 自分と同じ悲劇を経験し、戦士として復活したケヒリの助言が欲しいと思っていたゲッツだが、ケヒリには答える気はないみたいだと思うと、ふぅーとため息をつき、ケヒリから背を向けて馬の世話の続きをしようとした。しかし、


「キリアンの息子よ、包帯が汚いぞ。包帯は一日に何度も取り替えて常に清潔を保ち、傷口から菌が入らないようにしろ。そうしないと、俺のように腕が腐り、残った腕まで切り落とさなければいけなくなる」


 ずっとゲッツの包帯を見つめていたケヒリは、ゲッツの背中にそう語りかけたのである。


 驚いたゲッツは、振り返り、ケヒリの顔を見た。感情というものが一切感じ取れない無表情な顔からはケヒリが何を考えているのか読み取れず、ゲッツになぜそんな助言をしてくれたのかも分からない。ただ、因縁ある男の息子だからと敵意を持っている様子ではなかった。


(父上がおのれの左足を奪った敵であるケヒリを許し、彼が今どこで何をしているのか気にかけていたように、ケヒリも父上のことをすでに許しているのだろうか?)


 ケヒリの真意は分からないが、生まれつきのお人好しであるゲッツはそう好意的に解釈することにした。


 一方、ケヒリの息子のヘルゲも、


(他人にほとんど関心を示すことがない父が、いったいどうしたのだろう?)


 と、驚いて父の横顔を見つめていたのであった。


「分かった。これからは、頻繁ひんぱんに新しい包帯に巻き直すことにする」


 ゲッツが素直にそう言うと、ケヒリはうなずき、ゲッツの最初の問いに答えてくれた。


「とにかく、実際に戦ってみろ。他人に教わるのではなく、実戦を経験しながら自分に合った戦い方を模索もさくするんだ。他人の猿真似をしても、お前がその戦い方に馴染なじめなかったら意味がない」


 そう言い、ゲッツに格闘技や木剣の稽古けいこをやるようにすすめたのである。


「俺のせがれのヘルゲを稽古の相手に使え。俺が稽古に付き合ってやってもいいが、お前はこれから両手のある敵たちと片手で戦うことになる。義手をはめたとしても、以前のように思い通りに右腕を振るうことはできない。それならば、隻腕の俺と戦うより、五体満足なヘルゲと試合をしたほうがいいだろう」


 ケヒリが「こいつが俺の息子だ」とゲッツに紹介すると、ヘルゲは、


「俺が、この男の稽古に付き合うのですか?」


 などと、嫌がったりはせず、ゲッツの前に進み出て、「ヘルゲです。ゲッツ殿、よろしくお願いします」と頭を下げた。


 ヘルゲにとって、父の言葉は絶対である。父に「今ここで死ね」と言われたら、何の躊躇ちゅうちょもなく自らの首を剣でねる覚悟を持っている。だから、ケヒリの命令には決して逆らわないのだ。


「こちらこそ、よろしく頼む」


 ゲッツは、誠実そうなつら構えのヘルゲを一目見て気に入り、この男特有の愛嬌ある笑みをヘルゲに見せ、左手で握手を求めた。ヘルゲはコクリと頷き、ゲッツと握手を交わしたのである。


 そんな二人の様子をケヒリは黙って見つめ、


(この男がキリアンの息子ならば、早く戦士として復活してもらわなければな。そして、俺は、この男に……)


 などと、心の中で呟いていた。



            *   *   *



 その翌日。


 見舞いに訪れたクリストフは、獅子亭の庭でゲッツがヘルゲとレスリングをして、何度もボコボコにされながらもくじけずに挑みかかっているのを見ると、「おい! 大丈夫なのか、ゲッツ!」と心配して声をかけた。


「重傷を負って間もないというのに、もうそんな荒事をしているのか。まだ寝ていたほうがいいのに……」


「今は、自分ができることを精一杯やりたいんだ。寝てなんかいられるかよ。……それに、右手を失ってできなくなったことを数えて泣いていても、何の役にも立たねえし、前向きに生きたいんだ」


「……そうか。相変わらず猪突猛進な奴だな、お前は。……よし。ならば、俺も稽古に付き合おう」


「ああ、頼む。騎士見習い時代は、晩ご飯のおかずをかけて、よく勝負をしたもんだ。懐かしいぜ」


 そう言うと、ゲッツは、上着を脱いで上半身裸になったクリストフにぶつかって行った。あっ気なく返り討ちにあってしまったが、


(まだまだ!)


 自分をふるい立たせて立ち上がり、また立ち向かって行くのだった。





 そして、そんなゲッツのことを獅子亭の隣に建つ商人の家の二階の窓から見下ろして観察している者がいたのである。


 ランツフート陣営の大将ループレヒトだった。ループレヒトのそばには、ケヒリもいた。


「あれが、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンか」


「はい。あなた様が、おのれの名誉のために利用した男です」


 ケヒリが口調は丁寧ながらも刺すような目つきでそう答えると、ループレヒトは老傭兵の憎たらしい顔をチラリと見て舌打ちし、後ろめたそうに視線を外した。


 ミュンヘン陣営の中で猛将として知られるゲッツをループレヒトは助けた。それは、騎士道精神にのっとって敵の騎士に救いの手を差し伸べたのではなく、ループレヒトの名声を高めるためにゲッツを利用したのである。


「ループレヒトは、ローマ王マクシミリアンに反逆した謀反人むほんにんである」


 という悪評が帝国内で広まっている中、右手を切断して重傷を負った敵将ゲッツを保護したのはまさに天の助けと言えた。


 瀕死ひんしの敵将を殺さず、丁重に扱って保護し、看病をしたという噂が広まれば、ループレヒトは君主としてのうつわが大きい人物だと人々の評価も高まるだろう。


 ループレヒトは、それらのことを側近に助言され、ゲッツの命を救った。しかし、後になって、


(俺は、ゲッツという男の不幸を自分の名誉のために利用したのだ。それが、誇り高い貴族のすることだろうか)


 と、悩むようになっていた。


 敵に情けをかけたことが悪いというのではない。心から敵将であるゲッツを助けようと思ったのならば、立派な行ないだ。だが、ループレヒトはおのれの名誉と利益を第一に考えて、ゲッツを保護した。同じ善行でも、心に邪悪を抱え込んだ善行はただの偽善である。偽善は、騎士として最も恥ずべき行ないではないか。


(俺はおのれの才を信じている。自身の誇りを汚すことなき生き方をしたい。だから、姑息なことはしたくないのだ。……あの男のように、真っ直ぐに生きたい)


 ループレヒトは、何度倒れても片手だけで再び立ち上がろうと歯を食いしばっている、ゲッツという男の燃え盛らんばかりの闘志を目の当たりにして、そう思うのであった。

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