第13話 Qual―苦悩―

 ゲオルクからの手紙が届いたその日の夕方、ゲッツは居館の広間でドロテーアに別れのあいさつをしていた。


 ゲッツは、どんなに急ぎの用事があっても直接ドロテーアの部屋を訪れることは決してしない。会う用事がある時は、ドロテーアにわざわざ広間まで来てもらい、城主の妹君に謁見えっけんするというかたちを必ずとった。そうすれば、謁見中、ドロテーアのそばにはいつも護衛の家来や侍女たちが数人控えていて、ゲッツとドロテーアが二人っきりになることはない。


 なぜそんなことをするのかといえば、行方不明中とはいえ許嫁がいるドロテーアに対する気遣いもあったが、二人っきりになってしまったら自分の気持ちを抑えられる自信がゲッツにはなかったのである。


「そうですか。ゲッツ殿も戦へ……。実は、つい先ほど、ヴェルテンベルク公からの使者が来て、兄上にも出陣の要請がありました」


 ドロテーアは、寂しげにそう言った。


 ラインハルトは、ゲッツとタラカーが初めて手を組んで私闘フェーデを挑んだ相手であるヴェルテンベルク公ウルリヒと主従の契約を結んでいて、辺境伯へんきょうはくと同じくミュンヘン公の陣営につくウルリヒに従軍しなければいけなかった。


 ということは、ドロテーアは、ラインハルトもゲッツもいない城で一人寂しく戦争が終わるのを待っていなければいけないのだ。


「なぁに。こんな戦、すぐに終わるさ。大手柄を上げて、さっさと戻って来るから、小さな子どもみたいに寂しがるなって。おっぱいは成長する一方なのに、中身はまだまだお子ちゃまだなぁ」


 ゲッツはそう口走った後、


(しまった! ドロテーアに何と言って励まそうと悩んでいたら、また下品なことを言っちまった!)


 と、後悔した。家来のトーマスに猥談わいだんは女に嫌われると常日頃から注意されているのに、ドロテーアの魅力的な胸のふくらみを目の前にすると、ゲッツは二言目には「おっぱい」と言ってしまうのである。この癖だけ(というより、もはや病気)はどうしてもなおらないのだ。


 ドロテーアのそばに控える侍女二人がギロッとゲッツを睨み、ゲッツは冷や汗をかいた。ドロテーアの侍女たちは、主人に性格が似ていて、勝気な女たちが多い。姫様の前でいつも下品な言葉をつかうゲッツは、侍女たちに嫌われていて、女にはめっぽう弱いこの荒くれ騎士は彼女たちに汚物を見るような目で睨まれるたびにたじたじとなるのだ。


 ドロテーアも、ゲッツをじとりと睨んだ。しかし、


「ゲッツ殿は、いつもおっぱい、おっぱいと少しうるさいです。トーマスから聞きましたよ。ゲッツ殿は、母上がとても大きな胸だから巨乳好きになったらしいじゃないですか。そんなにも大きいおっぱいが好きなら、ヤークストハウゼンに帰って、母上のお乳を吸ったらどうなんです?」


 と、こちらはこちらで年頃の娘とは思えないはしたない言葉を吐き、侍女たちを驚かせた。


 ドロテーアは純粋すぎるところがあるので、身近な人間の影響を強く受けやすい。元々思ったことをすぐに口に出す強気な娘だったドロテーアは、この数か月でゲッツの奔放かつ乱暴な性格の悪影響(?)を受けてしまい、ゲッツでさえたまにびっくりするような切り返しをして、ゲッツを慌てさせることがある。


「えっ、い、いや、この歳で母親のおっぱいを吸ったら変態じゃねぇか……」


「ゲッツ殿は、十分、変態です」


 ゲッツが泣きそうな顔をして「ひ、ひでぇ……!」と言うと、ドロテーアはプッと吹き出し、アハハハと童女のような無邪気さで笑った。


「冗談ですよ、ゲッツ殿。あなたが私をからかったから、やり返しただけです。……どうか、ご無事で」


「あ、ああ……」


 柔らかに微笑むドロテーアを見て、ドキリとしたゲッツは、


(ちょっとは笑ってくれるようになったな……)


 と、喜んだ。だが、すぐに、この笑顔は、友のクリストフのためにあるべきものなのに、彼女に微笑んでもらえて俺は何を嬉しがっているんだと罪悪感を抱くのであった。


「では、これで……。ドロテーア殿、達者でいてくだされ」


 ゲッツは急によそよそしい言葉遣いになってドロテーアにそう言い、広間から退出した。自分を見つめるドロテーアの視線を背中に感じたような気がしたが、振り返らなかった。


(もしかしたら、ドロテーアは俺のことを少しは好意的に見てくれているのでは……。いや、そんな都合のいい妄想なんて、絶対にしたら駄目だ。俺みたいな無頼ぶらいやからは、女を幸福にしてやることなんてできねぇ。不幸にするだけだ。それに、親友のクリストフを裏切るような真似はしたくない。もしも、俺がドロテーアを自分のものにしてしまったら、友であるクリストフを奈落の底に落としたクンツと同類じゃないか)


 ゲッツは、廊下を一人歩きながら、そう自分に言い聞かせ、胸の内にうずく恋心を必死に抑えようとするのであった。


 その頃、ゲッツがいなくなった広間では、ドロテーアが黄昏迫った春の田園の風景を窓から見下ろし、寂しげに目を細めてポツリと呟いていた。


「ゲッツ殿がそばにいて励ましてくれていたから、私は元気を取り戻せた。でも……私はゲッツ殿を苦しめているのかも知れない。離れていたほうが、お互いのためなのかも……。だて、私はクリストフ様が帰って来るのを待たないといけないから……」



            *   *   *



「どうしたんだよ、幽霊みたいな暗い顔をして」


 ゲッツが、ラインハルトからあてがわれている居館の客室に戻ると、タラカーが窓辺に腰掛けながら葡萄酒ぶどうしゅをちびちびと飲んでいた。粗悪な味の葡萄酒らしく、タラカーは渋い顔をしている。


「別に暗い顔なんかしていないさ。……タラカーの親父こそ、そんなに顔をゆがめちまって、その酒はそれほどまずいのか?」


「ああ。安物の酒だからな。どうやら、水を混ぜているみたいだ。なあ、ゲッツ。蜂蜜を持っていないか? こういう粗悪品の葡萄酒は、蜂蜜を入れてやると、いくぶんかはマシな味になるんだ」


「あいにくだが、持っていないよ。それより、あんたに頼みがあるんだ。今度のいくさのことなんだが……。今回はタラカーの親父たちにはこの城にとどまって、ドロテーアを守ってやって欲しいんだよ」


「は? 何だ、そりゃ。おいおい、泣く子も黙る盗賊騎士のタラカー様に、お嬢様の子守りをしていろと言うのか?」


 タラカーが不満そうに言うと、ゲッツは「頼む!」と頭を下げた。


「戦の間、この城の守りは手薄になる。主人が留守中の城を襲うクンツみたいな卑怯者の盗賊騎士はたくさんいるんだ。俺は、ドロテーアのことが心配で、このままでは戦に集中できそうにないんだよ。だから、信頼できるタラカー一味にこの城を守ってもらいたいんだ」


「ゲッツ……。お前、そこまであの娘のことを……」


 タラカーは、しばらく黙り込んでゲッツをまじまじと見つめていたが、やがて、ため息をつき、「やれやれ、仕方ねぇな」と言いながら首筋をぼりぼりとかいた。


「分かった。お前さんの代わりに、ドロテーア殿は俺たちが守ってやるよ。……ただし、二つの条件がある」


「条件? 何だ? 言ってくれ」


「まず一つは、戦にハッセルシュヴェルトを連れて行くこと。お前さんの補佐役が若造のトーマス一人では心許こころもとないからな」


「分かった。あいつは冷静沈着で頭が切れるから、俺に色々と助言してくれるはずだ。それで、あともう一つの条件は何だ?」


 ゲッツがそう問うと、タラカーはスッと腕を伸ばして、ゲッツの左胸に手を置き、こう言った。


「迷いをいったん忘れろ。ドロテーア殿のこと、クリストフのこと、クンツのこと。全ての迷いを、だ。最近のお前さんは、心に多くの迷いを抱えて、以前より弱くなっている。戦場では、迷いは禁物だ。迷いは、戦場でのとっさの判断を鈍らせ、剣を振る手の動きを鈍らせる。ハッセルシュヴェルトは、お前さんの命知らずな猪武者ぶりを心配しているが、俺は今の迷いにとらわれたゲッツのほうが心配なんだよ。俺たちがドロテーア殿を守ってやるから、戦場では彼女の心配はするな。行方不明のクリストフやクンツの野郎のことも、戦っている間は忘れろ。さもないと、戦場で思わぬ不覚を取るぞ」


 前よりも弱くなっていると言われて、負けず嫌いなゲッツはムッとした表情をしたが、


(でも、タラカーの親父の言う通りかも知れねぇ……)


 と思い直し、「分かったよ」と答えた。


「猪が猪らしく猪突猛進して戦死するのなら俺らしい死に方と言えるだろうが、全力を出せずに無様ぶざまな死に方をしたら、恥ずかしくて天国の父上に合わす顔がないからな」


「……お前さんの父上のキリアン殿は、たしか若い頃に戦場で重傷を負い、体が不自由になったらしいな」


「ああ。敵側にいたケヒリという凄腕すごうでの剣士にやられたそうだ。父上の戦友……何という名前だったかな。……ええと、あっ、そうだ。ハンス・フォン・マッセンバッハだ。そのハンスという友人がケヒリに殺されそうになって、父上は親友を助けるためにケヒリと戦ったのだが、死闘の末、落馬しちまったんだ。その落馬が原因で左足を切断して、その後すぐに病にもかかり、すっかり体が弱ったんだよ。戦った相手のケヒリも右手を失ったらしいが……」


「……そうかい。お前さんのお人好しは、キリアン殿に似たんだな。お前さんの父上が多大な犠牲を払ってまで助けたそのハンスという男は、今頃、五体満足でのうのうとどこかで生きているだろうにさ」


「父上は別に後悔していないと言っていたぜ。大切な友を救えて、悔いなどあるはずがない。それよりも、あいつが罪悪感で苦しんでいないか心配だと、逆に友だちの心配をしていたぐらいだ」


 ゲッツがそう言うと、タラカーはまずい葡萄酒が入ったさかずきをぐいっと飲み干し、「なんて馬鹿な野郎だ! お人好しにも程があるぜ!」とゲラゲラと笑い、


「だが、そういう男は嫌いじゃねえ。俺が心の汚い人間だからか、お前さんたち親子みたいにどこまでも真っ直ぐな野郎に憧れのような想いを抱いてしまう。俺は、キリアン殿が生きていたら、友だちになりたかったよ」


 と、ゲッツに微笑むのだった。


「おい、粗悪品の葡萄酒で酔っ払っているのか。顔が真っ赤だぜ」


「酔っ払ってなんかいねぇさ。ゲッツ、お前さんも飲め。しばしの別れだ。今夜は飲み明かそう。この糞まずい葡萄酒で!」


「やれやれ。年寄のくせして、飲兵衛のんべえだから困る」


 ゲッツは苦笑しながらも、夜明け近くまでタラカーと水っぽい葡萄酒を飲み交わすのであった。

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