第4話 Vergangenheit―過去―

※作者からのお願い…この回は、食事をしながら読まないことをおすすめします。



 ゲッツの元主君のブランデンブルク辺境伯へんきょうはくフリードリヒ二世は、選帝侯の一人のブランデンブルク選帝侯せんていこうヨアヒム一世の叔父にあたる人物で、現在のバイエルン州の北西に位置するアンスバッハ領、同じく現バイエルン州北東のクルムバッハ領を統治していた。はるか後にプロイセン王国の国王、さらにドイツ帝国の皇帝となるホーエンツォレルン家のこの当時の長老の立場にあった。


 ゲッツが、ブランデンブルク辺境伯が拠点を置くアンスバッハで騎士見習いとして仕え始めたのは、十七歳の初夏のことである。


 ゲッツと同時期に騎士見習いとなった若者が数人いたが、その同期の仲間の中に、ポーランド人のピオトルという気取った男がおり、ゲッツはそいつが大嫌いだった。


(こいつ、卵くせえ)


 と、思っていたのである。


にわとりの卵を溶いて髪の毛にると、毛がつやつやになるんだぜ」


 ピオトルはそう言い、溶いた卵を朝、昼、晩と一日に三回もべたべたと塗り、鏡で自分の顔を見ては、ウフフ、ウフフと恍惚こうこつとした表情でほほ笑んでいるのだ。気色が悪かった。


 また、ピオトルは、辺境伯の妃ゾフィアの寵愛をかさに着て、他の騎士見習いたちにいばりちらしていたから、余計に憎たらしかった。


 ゾフィアは、ポーランド国王カジミェシュ四世の娘で、本国から自分に従って来た騎士の息子であるピオトルのことを自分が産んだ子どもたちと同じくらいに可愛がっていたのである。だから、喧嘩っ早いゲッツも、ゾフィア妃の後ろ盾があるピオトルにだけは(嫌な奴め)と思いながらも手を出すことができなかった。


 しかし、何しろゲッツはものすごく短気である。いつまでも我慢は続かなかった。事件が起きたのは、ゲッツが十九歳の時だ。


 ある日、ゲッツはいつものように騎士見習いの仲間たちと共に朝食を食べていた。ピオトルのことを毛嫌いしていたゲッツは、毎回、卵の臭いをぷんぷんさせているポーランド野郎とは離れた席に座って食事をすることにしていたのだが、この日のゲッツはまだ寝ぼけていてうっかりピオトルの横に座ってしまったのである。


(チッ……。さっさと食って、こいつから離れよう)


 ゲッツは自分の迂闊うかつさに腹を立てながらガツガツとパンをかじり、呑み込んだ。この頃、ゲッツはずっとイライラしていたのである。


 去年の夏、父のキリアンが病死した。敬愛する父が倒れたという報を聞いたゲッツはすぐにでも故郷のヤークストハウゼンに戻りたいと思ったが、折悪おりあしくローマ王マクシミリアン一世がフランスに侵攻して、その遠征軍にブランデンブルク辺境伯の軍も加わった。


 当然、ゲッツも従軍することになり、父の死に目に会えず、葬儀にも出席できなかったのだ。ゲッツがヤークストハウゼンに一時帰郷することができたのは、フランス遠征が終わった冬のことであった。


(父上は、末っ子の俺のことを宝物のように可愛がってくれた。死ぬ前に俺の顔を見たかっただろうに。天国に行く自分を見送って欲しかっただろうに……。父上がかわいそうだ。何でこんな時に戦争なんて起きたんだ。くそっ! 神様は意地悪だ!)


 ゲッツはそう思い、やり場のない怒りを胸の内に閉じ込め、非常に機嫌が悪かったのであった。


 一番に食事を終えたゲッツは、一刻も早く卵臭いピオトルから離れようと、席を立った。しかし、勢いよく立ち上がったため、ゲッツの上着のそでが、鶏卵けいらんのおかげかつやつやとしているピオトルの髪に触れてしまったのである。


 ゲッツは(げっ)と眉をしかめたが、激しく怒ったのはピオトルのほうだった。


「貴様ぁ! よくも俺様の美しい髪の毛に触れたな!」


 ナルシストのピオトルは、毎日必死に手入れをしている髪の毛を他人に触られるのが大嫌いであった。彼は半ば発狂し、手に持っていた食事用のナイフでゲッツを傷つけようと襲いかかって来た。


「てめえ、馬鹿か!」


 手刀でピオトルの手からナイフを叩き落とすと、ゲッツは吠えた。


(前々からピオトルのでかい態度と卵の臭いには我慢ならなかったが、もう許さねえ。今の俺は最高に不機嫌なんだ。ゾフィア様のお気に入りが何だ! 糞くらえ!)


ゲッツは短剣を握り、さやを抜かぬままピオトルの頭をぶん殴った。


「ぎゃっ!」


 頭に大きなたんこぶができたピオトルは、悲鳴を上げながら逃げ去った。もちろん、ゾフィア妃に言いつけに行ったのである。


 ゲッツの乱暴をピオトルが訴えると、ゾフィアは大いに怒り、夫の辺境伯に、


「ゲッツを処罰してください。塔のに閉じ込めるのです」


 と、迫った。しかし、詳しく事情を調べさせた辺境伯は、


「どうやら、先に手を出したのはピオトルのようだ。ピオトルを罰せず、ゲッツだけを処罰するのは公平ではない」


 と、言った。ブランデンブルク辺境伯は浪費癖がある以外は健全な判断力と見識を持った君主であったため、ゲッツをかばったのだ。


「公平、不公平の問題ではありません。ポーランドの人間を侮辱した無礼者を罰しなければ、この私の気が済まないのです。あなたが私のことを愛しているのならば……これからも私があなたの良き妻であって欲しいと望むのならば、どうかゲッツに処罰を」


 離婚をほのめかされ、辺境伯は「む、むむ……」とうなった。


 神聖ローマ帝国は、「帝国」と名乗りながらも、諸侯しょこうの連合体で成り立っている。


 彼ら諸侯は、言わば各地に割拠かっきょする「王」であり、皇帝という一人の権力者の下で従順じゅうじゅん尻尾しっぽを振っている犬たちではない。諸侯は我が領土を広めるためならば、他の諸侯に戦争を仕掛けることもある。


 ブランデンブルク辺境伯は、そのような他勢力から領土を守るために、ポーランド国王の娘のゾフィアと結婚したのだ。大きな後ろ盾があれば、近隣の諸侯たちも辺境伯を侮ることはできないし、帝国の君主マクシミリアンも辺境伯に一目置くはずだ。


 だが、もしも、ゾフィアに離婚などされたら?


 ポーランド国王の後ろ盾を失い、辺境伯の権威が大きく失墜しっついすることは確かである。


「夫を脅すのか。何という妻だ。……いいだろう。ゲッツを塔に閉じ込めさせよう」


 辺境伯は、ゾフィアを不愉快そうにねめつけながら、そう言った。


 こうして、ゲッツは大きな塔ベルクフリートと呼ばれる塔の一階に十五分間閉じ込められることになったのである。


 大きな塔ベルクフリートとは、城内に山のごとく高くそびえている特別に堅固な塔のことで、城攻めで追いつめられた兵士たちが最後に立て籠もって戦うことが多い建物である。


 そこにたかが十五分。大した処罰ではないだろうと思うかも知れないが、誇り高き騎士の子がこの塔の一階に閉じ込められるのは非常に屈辱的な罰だったのだ。


 なぜなら、この塔の一階は、たいていの城では、倉庫代わりか、捕虜たちを監禁する土牢つちろうとして使われていたのである。大きな塔ベルクフリートの土牢は光が差し込む窓が一つもなく、地面は地下の水が染み込んでくるため、とてもじめじめとしていて健康に悪かった。それに、用を足すためのトイレもなく、前にここにいた囚人しゅうじんたちのちびった排泄物はいせつぶつが掃除されていないため、土牢には汚物や糞の悪臭がぷんぷんとしていて、ほんの二、三分ここにいるだけでも吐き気をもよおすのだ。


 ゾフィア妃がゲッツに与えたこの処罰は、監禁して反省させることが目的ではなく、この暴れ馬のような若者に恥辱ちじょくと精神的苦痛を与えることが狙いだったのである。


「ゲッツ。そなたがなぜこんな仕打ちを受けないといけないのだ。悪いのはピオトルのほうではないか。母上はひどい」


 ゲッツが兵士たちによって塔に連行されて行く途中で、ブランデンブルク辺境伯の次男ゲオルクが泣き出しそうな顔をして、ゲッツに声をかけた。


 ゲッツの四歳年下であるゲオルクは、城内の若者の中で一番武勇に優れたゲッツに剣術や馬術の稽古をつけてもらっていたため、ゲッツのことを兄のように慕っていたのである。


「土牢はとても寒い。これを羽織ってくれ」


 ゲオルクは、自分が羽織っていた上等な黒テンの毛皮のマントをゲッツに渡そうとした。だが、ゲッツは、


「たった十五分ですよ、ゲオルク様。俺のように屈強な男が土牢に十五分いただけで風邪を引いたりはしませんから、ご心配なく。それに、ゲオルク様のマントを汚物まみれの牢で汚すのは申し訳ない。お気持ちだけ頂いておきます」


 と、弟のように可愛がっているゲオルクに強がってそう言い、「さあ、さっさと俺を塔に連れて行け!」と兵士たちに怒鳴った。


 しかし、ゲオルクの前ではかっこうをつけていたゲッツだが、塔の土牢にいざ放り込まれると、


「うげっ……! おえぇぇぇ……おえぇぇぇぇぇ……!」


 一分ももたずに自分の吐瀉物としゃぶつを牢の地面にまき散らしていた。つい先日までここにいた囚人が牢内で下痢になり、しかも、自分の糞の臭いに気持ちが悪くなって吐きまくり、この世のものとは思えない悪臭が牢内には漂っていたのである。


 十五分の間、ゲッツは吐き、吐き、そのい臭いのせいでさらに吐き、気が狂いそうになりながら、ゲオルク様のマントを借りなくて本当に良かったと心の底から思った。自分のゲロで汚れたマントを若様にどんな顔をして返せばいいというのだ。


 ゲッツが「げえ、げえ」言っている間に、ゲッツの膝を毒蜘蛛がっていた。吐き過ぎて気が遠のきそうなゲッツは無意識にその蜘蛛を手で払いのけた。運が悪かったら、噛まれて死んでいただろう。


 十五分後、ゲッツを気の毒に思った騎士見習いの仲間たちが駆けつけ、意識が朦朧もうろうとしているゲッツを塔から助け出してくれた。


 ちなみに、土牢となっている一階は外部からの侵入を防ぐために入口がなく、梯子はしごなどを使って二階に入る。一階には、二階から梯子か縄で降りることになる。


 ゲッツの親友クリストフ・フォン・ギークは、悪臭漂う一階に梯子で降り、吐き過ぎてふらふらになっているゲッツが二階に昇るのに手を貸してやった。クリストフも危うく吐きそうになったが、根性で何とかこらえた。


 ようやく土牢の悪臭地獄から解放されたゲッツは、「ぐへぇ……」とうなりながらぶっ倒れた。


「おい! しっかりしろ、ゲッツ! 大丈夫か? ……うん? お前、手に何を持っているんだ?」


 クリストフが、ゲッツが何やら液状の物が入った皮袋かわぶくろを右手に持っていることに気づき、そうたずねた。ゲッツは、真っ青な顔でフヒヒと笑った。


「土牢帰りのお土産みやげだ。……ピオトルの野郎はどこにいる?」


「あいつが髪の毛の手入れをする時刻だから、鶏小屋だと思うぞ」


 クリストフがそう答えると、ゲッツは「そうか!」と言い、急に元気を出してガバッと立ち上がった。そして、塔から降りて猛然と走り出し、鶏小屋へと向かったのである。


 クリストフが言った通り、鶏小屋の中には、鼻歌を歌って上機嫌なピオトルがいて、鶏の卵で自慢の髪の毛をつやつやにしていた。


「ピオトル! お前、よくも俺を塔に放り込んでくれたな! 土牢の土産だ! これでお前の髪の毛を綺麗にしてやる! くらえーっ!」


 ゲッツが襲いかかると、驚いたピオトルは逃げようとしたが、ここは狭い鶏小屋の中だ。逃げる場所などはない。


「うぎゃーーーっ!」


 ピオトルは、皮袋を頭にかぶせられて絶叫した。ゲッツが塔の中で拾った皮袋の中には、ゲッツが吐いたゲロが入れられていたのである。ゲッツは、


「ほぉら、綺麗にしましょうねぇーーー!」


 と、ゲラゲラ笑いながら、自分のゲロがピオトルの頭髪にしっかり染み込むように髪の毛を両手でわしゃわしゃー! とかき回してやった。ピオトルは、


「やめろ! やめてくれぇー! お、俺の美しい髪がぁぁぁ!」


 と泣き叫んでいたが、最終的に口から泡を吹いて気絶してしまった。


 この日以降、ゲッツとピオトルは顔を合わせるたびに大喧嘩するようになり、腕っ節の強いゲッツに手痛い目に遭わされるたび、ピオトルはゾフィア妃に泣きついたのである。


 そして、ゾフィアがゲッツに激怒すると、将来は勇猛な戦士に成長するであろうゲッツを手放したくないブランデンブルク辺境伯がゲッツを毎回かばい、また、ゲッツを慕うゲオルクやクリストフたち騎士見習いの仲間もゲッツの味方をした。


 そのため、辺境伯の夫婦関係やゾフィアとゲオルクの親子関係が微妙になってしまったのである。


(何だか、俺のせいで城内の空気が悪くなっちまったな……)


 ゲッツは血の気が多い暴れ者だが、馬鹿ではない。自分とピオトルのいさかいが原因で主君に迷惑をかけてしまっていることや城内の人々の和を乱してしまったことを早々に気づいた。


 とはいえ、ゲッツは喧嘩をやめられない。「あの野郎、我慢ならねえ」と思ったら、そいつをぶん殴らなければ気が済まないのだ。


(恩を受けた殿様と若様の悩みの種になるぐらいなら、出奔しゅっぽんしよう)


 ゲッツは悩んだ末、翌年、辺境伯の元を去ったのである。

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