第9話 大阪城とおばあちゃんとモフモフ犬 その3
最上階からの眺めを堪能した私たちは一階へと引き返し、お土産売り場に立ち寄った。
「これなんか、可愛らしいわぁ」
「この夏はこれ着て寝るわ。ええ夢見れそうやでっ」
「それは、愉しみですね」
私は普通に相槌を打った。いちいちツッコんでいる気分ではないし、一緒に土産物を選んでいるような余裕もない。
小松さんのことが気になるからだ。
最上階に辿り着いたときくらいから、やはり元気がないようである。それほど苦労することなく階段を上がっていたとはいえ、ご老体なのだから疲れているというだけかもしれない。
しかし、そうではないかもしれない……。
一体、どうしたのだろう?
私が不安に思っていると、翠川さんが言った。
「
「でも、最初に会ったときみたいに、どこか寂しそうで……」
「うむ。俺らがきっちり支えたろう」
「はい……!」
天守閣を出て南へと歩いていく。本丸を抜けて、入ってきた桜門をくぐった。
そのまま白吉のお墓参りに行ければ良かったのだけれど。
しばらく歩いたところで、小松さんが「ふぅ」と溜め息を吐いて立ち止まった。
白吉も足を止めて、下から飼い主の顔を見上げている。
「少し、休もうかしら」
「それが良いですね。一休みしましょう」
私たちは近くのベンチに並んで腰を下ろした。白吉は小松さんの足元に伏せた。
内堀の向こうに建つ天守閣が、傾き始めた太陽の光を受けている。
「今日はとても愉しかったです。お二人とも、ホンマおおきに」
小松さんが微笑みを浮かべて私たちにお辞儀した。
私は努めて明るく返事をした。
「私も愉しめましたよ。大阪城は前から登りたいと思っていましたからね」
「せやけど、だいぶ疲れてもうたでー。今日はぐっすり眠れそうや」
「お城に入る前にすやすや寝てたっていうのに……」
「あれはあれということやなっ」
自然と陽気に振る舞えている翠川さんが羨ましいなぁ。
そう思いながら私は小松さんに尋ねた。
「小松さんも、お疲れですよね?」
「はい……?」
私に向けられたその瞳がまた、ぼんやりと霞んでいるように感じられる。
「さきほどから、少し元気がないように見えたので」
「…………」
小松さんは「そう……」と呟いて、私から目を逸らした。
白吉が顔を上げて、潤んでいる目でご主人を見つめる。
苦しげな感情が蘇るようにして、再び私の心の中でじわじわと広がり出した。私は両手で膝を握り締めなければならなかった。
観光客たちがのんびりと歩いて駅の方面へと歩いていく。
建物や木々の影が少しずつ長くなっている。
小松さんが肩を落として、悲しそうな声で言った。
「すみません……」
唐突に口にされた謝罪の言葉に、私はすぐには反応できなかった。
「なんで謝るんですか?」
翠川さんはじっと黙っている。
「せっかく、お声を掛けて頂いて、白吉のことも教えて下さって、天守閣へ登るのにもご一緒して頂けたのですが……。お二人とも、申し訳ありません」
小松さんは瞼を閉じて、小さな声で告げた。
「御供えは、したくないんです」
◇
「ど、どうしてですかっ?」
私はすぐさま問いただした。もう少しで小松さんの身体を揺さぶってしまいそうだった。
御供えをしたくない。その発言は予想外のものだった。
そのことで悩んでいたらしいということは判る。
でも、なぜ? 白吉のことが大好きなはずなのに。御供えをしたくないなんて……。
「小松さん、どうしてそんなこと?」
「……すみません」
小松さんはそう繰り返しただけで理由は教えてくれず、ただ俯くばかりだった。
白吉は変わらず、飼い主のことをじっと見上げている。
私の疑問に対する答えを教えてくれたのは、居候の探偵だった。
「御供えをしたくない、そう小松さんが言うた理由はなぁ、未涼ちゃん」
翠川さんはベンチから立ち上がって、私たちに背中を向けたままで言った。
「犬に成仏してもらいたないからや」
「……え?」
翠川さんはボサボサ頭を掻いた。
「その気持ちは、まぁ、判らんでもないわなぁ」
私は翠川さんの背中から、小松さんの方へと顔を向けた。
おばあさんは「その通りです」と、か細い声で答えた。
居候の探偵はすぐに、再びベンチに腰を下ろした。
「……どうして立ったんですか?」
「と、特に意味はないで」
理由は判らないけれど、翠川さんは自分で格好を付けておいて照れていた。なにをしているのだろうこの人は……。
いや、そんなことはどうでもいい。
今は小松さんと白吉のことを考えなければならない。
私は、翠川さんの言ったこと、それからこれまでの小松さんについて頭を巡らせた。現状を整理しよう。
小松さんは、愛犬に成仏してもらいたくないと思っている。
それはつまり、二度目のお別れをしたくないということだ。白吉のことを心から大切に想っていて、そして幽霊の存在を受け入れているからこそ抱ける気持ちである。
私が白吉への御供えを提案し、「安心して成仏できると思うんです」と言ったとき、そういえば小松さんはどこか不安そうだった。
愛犬が傍にいてくれることを知って喜んだ直後に、幽霊となったその存在が消えてしまうことを考えて辛くなってしまったのだろう。
その気持ちは次第に大きくなっていった。だから、贈るための絵を描きながらも「嫌や」と口にしてしまった。成仏されるのが嫌や、と。
天守閣に一緒に登っていることを感じて嬉しくなる反面、二度目の別れを想像してしまい、晴れていたはずの寂しさがまた込み上げてきた。
そうして、「御供えはしたくないんです」と口にしたのだった。
小松さんは頭を下げて再度、私たちに謝った。
「ホンマに、すみません……」
私は首を横に振って、すぐさま言う。
「謝らないで下さいっ。小松さんが申し訳なく思うことなんてないんですから」
目には視えない幽霊だとしても、いつまでも傍で見守っていて欲しい。そう願うのは当然のことだ。謝る必要なんてない。
それに、小松さんが弱々しい声を出すたびに、白吉が心を痛めてしまっているのだ。だから、すみませんとはもう言わないで欲しい。
「ですが、小松さん……」
偉そうに指摘できる立場なんかではないのだけれど、これは言わなければならない。
「成仏されるのが嫌だという理由で、御供え物をしないというのは、良くないと思います」
「…………」
私は、仲介人さんが話してくれたことを思い出す。御供え物への、想い入れ。
この世からのお土産を贈ることは、絶対にやめるべきではないはずだ。
御供えをしないまま、ずっと日々を過ごすことで、小松さんが本当に元気を取り戻せるとも思えない。
小松さんは「はい……」と頷いて。
「それは、承知しています。わたしは……」
なにかを言いかけたのだけれど、しかし、口を閉じてしまった。
躊躇うような態度だ。小松さんの中で、なにかしらの葛藤が生じているのだろうか?
「迷っとるんですね」
翠川さんが、不器用に聞こえる敬語でそう言った。
小松さんの身体がほんの少しだけ、震えたように見えた。
「愛犬にずっと傍におって欲しいと思う。せやけど、心を込めた御供えをして、すっきり成仏して欲しいとも思うてるんと違いますか? そうやないと――」
翠川さんは軽く息を吐いてから、こう続けた。
「成仏して欲しない、別れたくないと考えながらも、しっかり時間を掛けて、贈りもんにする絵を描くことなんてできへんでしょう」
その指摘は的確だなと私は感心した。
御供えを拒否する気持ちが湧き上がってくるのを感じつつ、その感情に抗って絵を描き上げることができたというのは、成仏して欲しい想いも持っているからではないのか。
実は絵を描いていなかったのかもしれないけれど……。
そうではないとすれば?
「小松さん、白吉のことを考え直してみませんか?」
「…………」
やがて小松さんは顔を上げて、今度は謝るのではなく、私たちにお願いをした。
「白吉とここで、この公園で、もうしばらく一緒に過ごさせてもらえませんか?」
◇
翠川さんが閉店間際の売店へ行き、三人分の軽食を買ってきてくれたのだけれど、私も小松さんも食欲が湧かなくて、申し訳ないのだけれど遠慮させてもらった。
翠川さんは「そないかぁ」と残念そうに呟いた。かと思ったらあっという間に全部平らげてしまった。
「うーむ。晩飯もちゃんと食べれるやろか」
「なんの心配をしてるんです……」
日が沈んでいき、辺りが暗くなってきた。
大阪城天守閣は既に閉館しているのだろう。公園内を歩く人たちの姿はまばらだ。
私たちはまだベンチに座っている。
小松さんは居住まいを直したりすることなく、揃えた膝の上に両手を置いている。
その足元に伏せている白吉は、日没になっても家に帰ろうとしない飼い主を見て、困ったような顔をしている。「おばあちゃん、どうしたの?」というように。
白吉の抱いている心苦しさが、絶えず私の心に届いている。
ここから私が離れさえすれば気分は楽になる。天守閣を登ったときや、先日に梅田の書店を巡ったときのように。
でも、今はこの場にいなければならないと思う。
苦しくとも白吉の気持ちを受け止めて、私がその想いを代わりに伝えなければならない。
「未涼ちゃん、あれ見てみぃや」
「はい?」
翠川さんに言われて、指し示された方へ目を向けた私は、「わっ」と驚いた。
闇の中に、眩い白色に染まった大阪城が浮かび上がっている。
天守閣が盛大にライトアップされているのだ。
「日が沈んでから、大阪城天守閣に照明が当てられるねん。有名な話やな」
「そういえば聞いたことがあるような」
夜の大阪城を目当てにしてやってきたのか、写真を撮っている人や、手を繋いで歩くカップルの姿などがぽつぽつと見られる。
私は小松さんに声を掛けた。
「綺麗ですね。いつまでも眺めていられるような気がします」
小松さんは少しずつ首を動かして頭を上げ、天守閣を見据えた。
「ホンマに、立派なお城やねぇ……」
そう応えてくれたが、微笑む気力もないらしく、表情は儚げだ。
白吉がもぞもぞと動いて、身体が重なってしまうくらい飼い主に寄り掛かった。
私は目を閉じてなるべく心を落ち着かせてから、瞼を持ち上げた。
「白吉が、今も小松さんの傍にいます」
「そう……」
「辛そうにしている小松さんを見て、ずっと胸を痛めています」
「…………」
小松さんは口を閉ざし、また下を向いてしまった。
私は、素直に感じたままのことを伝える。
「飼い主として、白吉をこれ以上悲しませるべきではないと思うんです」
「……ええ、判っています」
小松さんは頷いた。でも、その返事は形だけのものだろう。
自分がどうするべきなのか迷っている。
答えを出すのはもちろん私たちではなく、小松さん自身だ。
時間が経てばいずれ解決するのだろうか……?
夜が更けて、辺りにはほとんど人の姿が見受けられなくなった。
そんな折に、翠川さんが質問した。
「小松さんは、この公園でよぅ散歩しとったんですよね?」
尋ねられた小松さんは、ぼんやりとした表情で答える。
「ええ、白吉を連れて……」
「思い出の場所ですか?」
「そうですね。はい」
私は翠川さんの横顔を見やる。なに訊こうとしているのだろう。白吉と一緒に散歩していたという話の確認……?
そんな風に疑問を抱いていると、居候の探偵は次にこう問い掛けた。
「小松さんと白吉だけやないですよね?」
私の口から「え?」と声が漏れた。
だけれど、すぐにどういうことなのか理解する。
小松さんはなにも言わずに、膝の上で両手を握り合わせた。
「写真にも写っとった、旦那さんとの思い出の場所でもあるんでしょう」
翠川さんはライトアップされた大阪城を眺めながら、続けて言う。
「当然、小松さんの中には白吉だけやなくて、旦那さんへの想いもあるはずです」
翠川さんの言葉を聞いて、私はハッとさせられた。
そうだ。その通りだ。うっかりしていた。今まで、白吉と小松さんのことしか考えていなかった。
大阪城公園は、小松さんと旦那さん、そして白吉が一緒に散歩をしていた場所。
でも……。私はさらに疑問を抱いてしまう。
「どうして今、亡くなった旦那さんの話を……?」
尋ねると、翠川さんは小さく笑った。
「小松さんは、こう考えてるんちゃうかな。白吉との別れを自分は寂しがっとる。せやけど、あの世に旅立った旦那さんも、白吉とまた会いたいと願って、寂しがっとるはずやって」
小松さんは目を丸くして、翠川さんを見た。
「ホンマはもう、自分がどうすべきか判ってはるんやと、俺は思ってます。向こうが寂しがっとるのに、自分のことを優先するんは罪悪感があるんでしょう。せやから、長いこと悩んでたんや。視えへんけど、白吉の存在を感じながら」
翠川さんが言い終えると、小松さんはそっと目元を拭った。
白吉が立ち上がり、飼い主の顔を正面から見上げる。
熱い感情が伝わってくる。彼がどんなことを実際に考えているのか、正確には判るはずもないけれど。白吉はなにかを待っているようだ。
それはおそらく、飼い主からの言葉だろう。小松さんの言うことなら、どんなことでも受け入れるという強い意思があるのだろう。
「どうして欲しいのか、小松さんから伝えてあげて下さい」
私は白吉の様子を伝えた。
小松さんは、白吉のフワフワの顔を両手で包み込むようにしてから言った。
「白吉、お父ちゃんによろしくね」
◇
大阪城公園を出たその日は流石に夜遅かったので、翌日になってから白吉のお墓のあるペット専用の霊園を訪れて、三人で御供えをした。
そのときになって判明したことがある。実は、公園で描いた絵は白吉へ御供えする物でもあり、あの世に旅立った旦那さんへ向けた物でもあったという。
「白吉が向こうへ逝ってから、お父ちゃんと再会できて、絵を渡してもらうことができたらええなぁ、と思ったんです」
「そういうことだったんですか」
御供え物は幽霊同士で受け渡しすることが可能である。以前に食べ物をお裾分けしている場面を見たことがあるので間違いない。あの世での常識がどうなっているかなんて知る由もないけれど、おそらく大丈夫だろう。きっと、届けられるはずだ。
確実に受け取ってもらいたいなら、旦那さんのお墓に御供えすればいいのではと、そういう考え方もあるが……。
愛犬に届けてもらう方が、繋がりを感じられて素敵なのではと思う私である。
◇
翠川さんが頼むわ頼むわとうるさいので、今日はたこ焼きパーティを開催することになった。と言っても、参加者は私と翠川さんの二人だけなのだが……。
とにかく、おみおくり商店にはちゃんとたこ焼き器があった。
ポコポコと丸い窪みのあるその独特の鉄板を熱して、生地を流し込み、タコを入れて、紅しょうがと天かすとネギを振り掛ける。
料理を普段からまったくしない翠川さんだけれど、大阪人なのだからたこ焼きを回すくらいできるんじゃないかな。という期待は見事に裏切られた。
翠川さんは本当に下手だった。ピックを何度も何度も容赦なく生地に突き刺すだけで、一向に転がすことができないでいる。
「なんでやっ、なんで回らんっ……!」
「翠川さん、もうやめて下さいよ。それ、小型のもんじゃみたいになってますから」
「そうか、判ったで。こいつだけ関東出身なんや!」
「いやいや全部同郷ですって」
結局、全てのたこ焼きを私が焼くことになり、翠川さんはせっせと食べるばかり。私は焼けていく生地をころころと転がしながら、自分の分のたこ焼きを確保するために忙しなく手を動かさなければならなかった。
食事がなんとか落ち着いてから、私は翠川さんに訊いた。
「大阪城公園で小松さんと最初に会ったときのことなんですけど」
「うん? なんや?」
「どうして、幽霊が視えてると打ち明けても大丈夫だって、すぐに判断できたんです?」
仲介人さんに案内してもらって、落ち込んだ様子でベンチに座っている小松さんを見つけたときのことだ。密かにずっと気になっていた。翠川さんはあのとき、判断材料があるとか云々と言っていたが、私はちゃんと根拠を理解していない。
「あー、あれな」
翠川さんは余った細切りのタコを食べつつ、説明した。
「あのおばあちゃんがなんとなく信心深そうやと思ったことと、ほんで、暑い中でわざわざ公園まで一人で出掛けてたことやな。小松さんは、白吉に会えたらええなぁと思ってたんやろ。一緒によぅ散歩しとった場所なら、うろうろ彷徨っとるかもしれんと考えて」
「幽霊でも構わないから、ということですか?」
「うむ」
翠川さんは頷いた。
「ホンマに大切な相手やったら、幽霊になってでも出てきて欲しい、会いに来て欲しい、ひと目だけでも会いたい、そう願ってもおかしくはないやろ」
思っていたよりも真面目な調子で答えられたので、私はちょっと戸惑ってしまった。
無意識に見つめていたらしい。「なんやねん?」と言われてしまった。
「いえ、なんでもっ」
「ふぅん。ところで未涼ちゃん」
「え、なんです?」
「たこ焼きの生地って、もう残ってないんかなぁ?」
出会ってからまだ二ヶ月半ほどしか経っていないのに、私はすっかり翠川さんとの生活に慣れてしまっていた。二人でたこ焼きを取り合いするような日常を、いつもの風景として受け入れている。それも、自分でも驚くくらいにすんなりと。
幽霊の存在を当たり前のものとして一緒に働くてくれるこの人を、私はもうだいぶ信頼しているのだろうと思う。性格はズボラだし、着ている服はヨレヨレだし、基本的に発言が適当なのだけれど……。まぁ、やるときはやる男なんだよなぁ。
翠川さんが窓の外を見つめてポツリと言った。
「もうすぐ六月も終わりか……」
「どうしたんです?」
その横顔が切なげで、私はほんの少し緊張してしまった。
居候の探偵は髪の毛を触りながらぼやいた。
「梅雨明け、まだかいなぁ」
「……ふぅ」
私は苦笑いした。
梅雨が明けたら、仕事ではなく観光目的でどこかへ連れて行ってくれるだろうか?
この世の土産さがしもの帖/森川秀樹 富士見L文庫 @lbunko
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