17.心を読む男 真実はただ、宇宙にただよっている。
「彼に……
僕の婚約者は唇を震わせて、小さく、しかし張りのある声で問うた。
彼女の僕を見る目はまるで憎い仇を見るような目だ。僕は笑ってしまった。なるほど、彼女にとって僕は、自分を政略結婚の道具としか見ていない屑共の一人だったのかもしれない。
「彼はきっともうすぐここに来るよ。君を奪いに来るんだ」
僕は言った。
その言葉の意味をゆっくりと認識して、彼女は困惑したように眉宇をひそめた。そんなはずがないと、声が聞えてくるようだ。
うーん。森君、信用ないなぁ。まぁ委員会の時もどっちかというとあまり発言しないタイプの子だしね。僕が
けれどそれでも彼は来るだろうと僕は思った。何故なら彼は一瞬だけ、怒りのような表情を見せたからだ。そして同時に来て欲しいとも思った。そして救い出してくれればいい。きっと僕や勝と同じように、色々なものに縛られて鬱屈した感情を閉じ込めているはずの、目の前の少女を。
たとえ形だけであったとはいえ、僕の婚約者であった彼女を。
「き、君! 一体何を……」
「
動揺した立科の声を遮るように、父の怒号が響いた。
まるで鶴の一声だ。
ぴりりと場が緊張した。この男の声には何かそういう力があるのだ。ここまでのし上がった彼には、それだけの実力がある。
「お前、何を考えている!!」
「わかりませんか? 父さん」
僕は不思議だった。どうして自分がここまで静かな気持ちでいられるのか。あの、絶対とも言える父に今まさにはむかおうとしているのに、僕は今までになく落ち着いている。冷静だ。
だって僕は、
泣きそうだ。
今、僕は。
だってさっきから聞えるのだ。
彼女の声が。
彼女の心の声が。
近い。側にいる。
それがわかる。
それは僕に対する怒りや、嫉妬や、そう、確かに恋情と呼べるような激情や。それらがない交ぜになって坩堝のようだった。
君がいる。
そのことが僕を強くし、高みに上げる。もし今君の存在を感じることができなければ、僕はこの一言を紡ぐのでさえ、難しかったかもしれない。
けれど僕には感じられた。
君の気配が。感情が。
嬉しかった。それだけだった。
「僕はあなたに、もう従わない。もうあなたの駒にはならない」
僕は立ち上がった。
心臓が高鳴る。これは、緊張しているからだろうか。それとも君の気配を感じて高揚しているからだろうか。きっとどちらもだ。
「……言いたいことはそれだけか?」
父は静かに、目を細めて僕を見上げていた。彼は特に驚きを感じてはいないようだった。気付いていたのかもしれない。いや、気付いていないはずがなかったのだ。
僕の、この反乱に。
たった一人でのし上がってきたこの男には、こんな成人もしていないような子供の心を読むことなど、特殊な能力を必要とするまでもなく可能なのかもしれない。
僕は笑った。
ならば躊躇いなどなかった。
「さようなら。僕にはもう、手を取るべき人がいるんだ」
その時だった。
スパーン!
ものすごく気持ちのいい音と共に、庭側の襖が開け放たれた。
立科親子も父も驚いたように僕の後ろ、その襖の方を見たが、僕には見るまでもなくそこにいる人間がわかっていた。
相変わらず、嵐のようだ。
ゆっくりと振り向くと、そこには腰に手をあてた制服姿の女子高生と、どこか怯えたような少年がいた。少年の方は僕の婚約者を目にとめると、ぱっと顔を輝かせた。
「知恵!」
名前を呼ばれた彼女は信じられないとでも言うふうに目を見開いた。何かを言いたげに口を開いたが声にならない。
それからの彼女の変化は劇的だった。花がほころぶような、というのはこのことだ。僕の元婚約者の彼女は、今までに僕が見たことのないような顔で少年に駆け寄った。少年も両手を挙げて彼女を迎え入れる。
それはまるで安っぽいドラマのようで見ごたえがあったかもしれないけれど、それよりも僕は僕の多岐さんに釘付けだった。
だってどこからどう見ても女子高生にしか見えない多岐さんは、まるで傲慢な女王さまのように僕に言ったのだ。
「あんたは私に言うことがあるわよね?」
にっこりと微笑んだ多岐さんは、今まで僕が見たどんな彼女よりも誇り高くて綺麗だと思った。黒髪は星の見えない夜よりも黒く流れて、細められた瞳は生きた宝石のように輝いている。
僕は笑った。
だめだよ。
君はかっこうよすぎる。僕じゃとても敵いそうにない。
「ごめん」
僕は言った。
「この間言ったことは全部嘘だよ」
全部嘘だ。僕が君を拒絶するなんて、ありえない。それこそ天地がひっくり返ったって、ありえないんだ。
だって僕はこんなにも君にメロメロなんだよ。
君を目の前にしただけで心臓が跳ね上がり、心の深い所では安堵さえ感じてしまうほどに。
なんだか目頭が熱かった。
「本当は君に側にいて欲しい」
そう思ってた。
「ずっと、側にいて欲しかったんだ」
壊れてしまうのではないかと心配する必要などないのだ。
だって彼女は、戦うひとだから。
これまでずっと戦ってきたひとだから。
彼女はきっと、僕の背中を守ってさえくれるだろう。
多岐さんはにやりと口の端を上げた。
「オッケー、じゃあ、躊躇いはないわね」
躊躇い? そんなもの。
「さっきも言ったよ。僕にはもう、手を取るべき人は決まってるんだ」
僕は多岐さんの手を取った。それは暖かくて、昔のあのひとのように僕をもう振り払うものではないのだと思えた。大丈夫。そう、彼女の声が聞えたような気がした。
「父さん」
僕は振り向いた。彼は怪訝そうに突然現れた少女と僕を見ていた。
「僕はあなたの敵になります」
頭を下げた。
「……今までありがとうございました」
これは決別だった。もう二度と父などとは呼ばない。もう二度と戻らない。
「最低のおじさま」
多岐さんはやはり笑っていた。
「私はあなたに感謝するわ」
彼女の声はよく響く。
辺りは静かで、空には星が瞬いていた。
「だって、あなたがいなければ私のこの男は生まれてさえこれなかったのだもの。ありがとう」
誇らしかった。
最高の夜だと思った。
★ ★ ★
次の日、文化祭は無事始まった。
文化祭実行委員であった僕と多岐さんは目の回るような忙しさで、たとえ廊下ですれ違っても言葉も交わせないような惨状だった。
僕がようやく一息つけたのは、ミスコンが終わった後の昼休みだ。時刻はもう三時で、その時僕はようやく昼食をとることを許され、学校の屋上に向かった。
そこには彼女がいた。
屋上へと続く扉を開けて現れた僕を振り向いて、彼女は目を見開いていた。
「どうしてわかったの?」
君がここにいることが?
僕は笑った。
「聞えたから」
君の声が。
あまりの忙しさにうんざりした彼女は、こっそりと仕事を抜け出してこの屋上で自主休憩を取っていたのだ。屋上は、文化祭中は立ち入り禁止になっている。仕事をさぼるには絶好の場所だというわけだ。
「お昼。まだでしょ?」
僕は途中で買って来た焼きそばを差し出した。
彼女は驚いたような顔をした。
「ちょうど焼きそば食べたいなぁって思ってた所だったのよ」
うん。
聞えてたよ。
「多岐さん」
僕は決心していた。
彼女に話そうと。
僕のこの力。
「僕はね、人の心を読む事ができるんだ」
思えば。
僕のこの能力がなければ、僕と君はただのクラスメートで終わっていたのかもしれない。僕は君の本性を知ることもなく、僕と君が取り引きをすることもなく。昔は嫌悪したことさえもあった能力だったけれど、君と出会うためのものだったのだと、今では思える。
多岐さんは怪訝そうな顔をした。
「はぁ?」
何言ってるの? って顔だ。
予想通りの反応すぎて笑ってしまう。
「何でもいいよ。心の中で思ってみてよ。僕はそれをあててあげるからさ」
「なにそれ? あんた馬鹿?」
「いいから」
彼女は片方の眉を上げて馬鹿にするように笑った。
人を見下すように笑うこの顔だって、本当の彼女を知らなければ見ることはできなかったのだ。
彼女の心の声が聞えた。
僕は笑ってしまった。
うわー。もう。相変わらずえげつない思考回路。
君は本当に世界に一人だけのひとだね。だっていないよ普通。そんなこと命令する人。
僕はゆっくりと、彼女の前まで歩いた。
一年前までは遠かった君が、今ではこんなに近い。それが嬉しい。
僕はその場に跪いて、彼女の命令のままに言った。
「……うん。多岐さん。僕は君に忠誠を誓うよ」
《跪いて、忠誠を誓いなさい》
そう僕に命令をした彼女は、その命令の通りにした僕に、目を白黒させた。
★ ★ ★
この、嘘や欺瞞に満ちた世界で、真実なんてまるで霞がかったように見えない。
けれどそれは確かに存在しているのだ。
その真実を見つけた者こそが、勝者となれる。
いくらでも嘘をついていいよ。
だって僕は真実をもう知っているから。
迷うことなんてない。
だって、
たとえこの世の全てが嘘でも、真実は宇宙にただよっている。
嘘つき女と心を読む男/山咲黒 ビーズログ文庫 @bslog
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