16.嘘つき女  これがつまり、この世界を走りぬく術なのだ。

 そういえば私を拉致った茶髪のチャラ大学生がその弟について語ってくれた。まじめに聞いていたわけじゃないから断片しか覚えてないけれど、彼は言った。


『あいつにはトラウマみたいなのがあってね。幸せ恐怖症って言うか、大事なものに手を伸ばしたり手に入れたりすることに対して極端に慎重になるんだ。拒絶されるのと失うのが怖いんだよ。だから逃げる。手に入れる前から失うことを考えてしまう。難儀な奴だよ』


 難儀な奴と言うか馬鹿な奴よね。

 どうしてそういう思考になるのか全く理解できないわ。欲しいんなら手を伸ばせばいいじゃない。それを失うかどうかなんて、自分の力量次第よ。よほど自分に自信がないのねかわいそうな奴。


 不幸も幸福も、そのチャンスは全ての人間に平等に与えられてるわ。

 私はもう絶望を味わった。

 だからこの道の先には幸せがあるはずなのよ。

 そう考えなきゃこれからを生きてなんていけない。これまでを、生きてこれなかった。

 けれど幸せを勝ち取るためにはそれに見合う自分を磨かなきゃだめよ。

 前を向きなさい。

 背筋を伸ばしなさい。

 一歩踏み出しなさい。

 まだ見ぬ未来を恐れるくらいなら、精進なさい。

 それが生きる術なのよ。

 未来の見えないこの世界で、ただ走るように生きる術よ。

 光へと。


★ ★ ★


 恋愛は戦いだ。


 こんなじじいのセリフを私は馬鹿にしていたのだけれども、なるほど、少し納得できる部分はあるかもしれない。これって要は情報戦よね。相手の情報を多く持っていればいるほど有利なのよ。そういう意味で、私には敵方についての有能な情報源がついてて運がよかったのかもしれないわ。


「え? もしかして俺利用されてる?」

 そう言った荻原おぎわらまさるに、私は微笑んだ。

「私に利用されるなんて光栄と思いなさい」


 何がむかつくってたかが車の後部座席が今まで私が座った椅子やソファに比べてダントツに心地よかったってことよね。あんたんちには一体車が何台あるのか聞いたら、んー三台? とか言いやがったから笑顔のままで脛に蹴りを入れてやったわよ。本当、世の中って不公平!


 今車は街中を走っていた。夜であるにもかかわらず街や車の光で辺りは明るく、星の光など少しも見えない。窓から覗き込むと空にはぽっかりと穴があいたような月があった。黒い布の中にぽっかりとあいた、光へと通じる穴だ。

「えーと、俺正装って言わなかったっけ?」

「制服も立派な正装ですー」


 上下を立派なスーツに身をかためた荻原勝の隣に座る私は、学校の制服姿だった。

 だって仕方ないじゃない。これ以外には使い古されたカジュアルな洋服しか持ってないんだもの。でもあれよね。衣装によって人の印象って随分変わるわ。

 だって今の荻原勝は、ただのチャラ大学生にはとても見えないもの。なるほど、金持ちの息子って雰囲気。ああ、車の中の私達を知らない人に見られたら、金で買われた女子高生と女子高生を買った男に見えるかもしれない。

 外からは見られないというこの黒っぽい窓に感謝。


「大体ただ御飯食べるだけなのに正装ってのがおかしいの。もし服が汚れたらどうするのよ」

 窓の外を見ながら私はぶつぶつと文句を垂れた。

「正装しなきゃ、目的の料亭には入れねぇからなぁ。こればっかりはどうしようもない」

 そう言って荻原勝は苦笑した。


 あの日曜の後、私は県内の大学を訪れた。

 目的は荻原勝に再度接触を図ること。荻原勝の所属大学は、聡子さとこちゃんに頼んだら調べてくれた。

 うちの高校って、入学時に家族全員の会社とか学校とか書いて提出しなきゃならないのよね。少し調べるだけでわかっちゃうなんて、個人情報の漏洩もいいとこじゃない? まったく、しっかりして欲しいわ。特に私の情報はトップシークレットなんだから。


 驚いたのは、私の訪れたそこが、結構な有名大学だったってことだ。人間の頭脳や財産って、外見じゃ計り知れないものなのね。だってあんな目つきの悪い顔してるくせに頭良くていずれはあの日本家屋を継ぐ人間だなんて、詐欺よ詐欺。


 ともかく、私はその大学の学生課に行き、中年のおっさんに微笑んで荻原勝が今何の授業を受けているかを調べてもらった。妹なんですけど届け物がしたくて、っていうのは我ながら苦しい言い訳だったと思うんだけど、大学って案外ちょろい。


 で、まぁ乗り込んだわけ。


 私は荻原勝に協力を申し込んだ。私があいつを手に入れるために、私の右腕となる事を要請した。私には勝算があった。彼の部屋で実に三十分近くその弟についての話を聞かされていたのだもの、彼がどんなにその弟を可愛がっているかわかるわ。

 そんな彼が、弟が女の子に屈服させられるなんていう面白い見世物を見逃すはずはない。そうじゃない? 案の定荻原勝は二つ返事でオーケーしたわ。それどころか積極的に提案をした。


 それが今日の料亭乗り込み作戦なのよ。

 荻原武士たけしの婚約者とのディナー会。馬鹿らしい。それを聞いた時には怒りが増幅したわ。嫉妬? そうね。これはそう呼ぶべきものなのかも。でもそんなの知らない。大事なのはこの感情の名前じゃなくて、私が今荻原武士を殴りたくて仕方がないってことよ。


「あ、店についたらあんまり心ん中で叫んだりするなよな」

 荻原勝が言った。私は片眉を上げた。

「は? なんで?」

「タケに聞えるから」

「は?」

「つまんないだろ? 事前にばれちゃあよ。だからなるべく平静に。わかった?」


 なに言ってんだろうこいつ。私は怪訝そうな様子を隠そうともせずに荻原勝を見た。一方荻原勝と言えば、私の返事も聞かずに窓の外に視線を移した。

 なによ。わけわかんない。

 私は唇を尖らせた。


 車は、周囲を木の柵で囲った情緒溢れる料亭の前で停まった。街の中心からは少しはずれた所にあって、辺りは静かで明かりも少ない。料亭の入り口に飾ってある提灯のぼんやりとした灯りが道を照らしていた。


 それに気付いたのは私が先だった。

 私達が降りると車が行ってしまって、荻原勝はまるで自分の家に入るような気安さでそのいかにも高級そうなお店に入って行った。私もそれに続こうとして、ふと視界の端で影が動いたのを感じたのだ。


「……おい」

 十メートルほど先に行って、私がついて来ていないことに気付いた荻原勝は振り向いて言った。

「……」

 私は返事をせずに木の柵の外側にそっと近づいた。


 旅館の明かりも提灯の灯りも届かないその場所で、確かに何かが動いた気がしたのだ。おばけとか幽霊とかは、別に怖くない。何故ならそれらのものに危害を加えられたことがないからだ。

 そんないるのかいないのかわからないような連中よりも、生きてる人間の方が怖いことを私は十分に知っている。あとそれ以上にそこにいるのは何かしらの生き物だろうという予測があった。だって幽霊がびびって影に隠れるなんて話、聞いたことないもの。


「ねぇ」

 私の声に、影がびくりと動いた。

 目が慣れてきたのか、影の形が見えるようになってきた。人だ。これはあきらかに。

 私は目を細めた。

「何やってるの?」


 なるべく怯えさせないように私は言った。その声に敵意がないことを認識したのか、影は躊躇いながらも顔を上げた。

 私はさらに目を細めた。知った顔に見えたからだ。

 まだ疑念を抱きながらも、私は小さい声で聞いた。


「……もり君?」


 すると向こうも驚いたように目を見開いた。

多岐たき先輩……」

 おいおいおい。

 なんでこんな所にうちの生徒がいんのよ。

 実は金持ち多いんじゃないの? うちの高校って。


★ ★ ★


 幸いというかなんと言うか、文化祭実行委員の後輩である森大祐だいすけ君は、普通の家庭に生まれた男子高校生だった。お金持ちだったのは彼の恋人だ。そして偶然にもというか必然的にというか、彼の恋人とはつまり、荻原武士の婚約者だったのだ。


「で? 夕食会に乗り込んで、婚約をぶち壊してやろうとか思ったの?」

「はぁ……まぁ」

 料亭から少し離れた道の、電灯の下に私達はいた。しゃがんだ森君に視線を合わせて私もしゃがみこみ、荻原勝は電灯に寄っかかって腕を組んでいる。


「僕、ずっと彼女と何ていうか、身分の差って奴を感じてて。彼女は良家のお嬢様だし。僕は団地に住むそこら辺にいるような高校生だし。だから彼女から婚約者がいるって聞かされてても、何も言えなくて……。でも、荻原先輩に言われて、僕……」


 森君は、委員会でも自分で発言することのなかなかない子だった。

 荻原武士の婚約者の子って、少ししか見れなかったけど、中々可愛い子だった気がする。どうしてあんな子がこんなうじうじ男の恋人をやってるのか、全くわからないわ。人間の好みって本当に人それぞれって奴ね。

 私は目をすがめて言った。


「奪いに来たんだ」


「うばっ」

 森君は弱い電灯の明かりの下でもわかるほど顔を赤くさせた。

「そんな、奪うだなんて!」

 私は胸を張った。

「そうでしょ? ここまで来て恋人を奪ってやらなくて何が男よ。そんなわざわざ森君に自分が婚約者であることを名乗って今日の夕食会のことまで言うような人を小馬鹿にした男なんか、殴ってやればいいのよ」


 森君はまるで叱られた子犬のような目で私を上目遣いに見た。

「……多岐先輩、なんだかいつもと違いますね。雰囲気が」

 私はにっこりと笑った。

「女は夜に変わるものよ」


 ここで荻原勝が割り込んできた。

「しかし、これでタケの考えてることもわかるってもんだな」

「そうね。その行動は遅いくらいだけどね」

「あいつは元々慎重派なんだぜ? そのあいつがここでいきなり行動を起こし始めたのは、何よりあんたを思ってだってことを、察してやって欲しいね」

「あら、決めたのはあいつよ」


 私は立ち上がった。気分が高揚していた。

「そしてあいつが決めたのなら、私にも覚悟ができてるってことよ。私はあいつにわからせに来たんだから。私がただ守られるような弱い女じゃないってこと、そして私がすぐに壊れてしまうような脆い女じゃないってことをね」

「違いねぇ」

 荻原勝はにやりと笑った。


「あの……」

 森君は不安気に立ち上がった。

「多岐先輩は、一体……」

 私はにっこりと微笑んだ。


「私もね、君と同じよ。奪いにきたの。お姫様をね」

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