15.心を読む男 君にかっこういいと言って欲しい。

 週が明けても、多岐たきさんは学校に来なかった。月曜も火曜も水曜も。ずっと彼女は〈家庭の事情〉でお休みしていた。


 今日は金曜日だ。明日から始まる文化祭の準備のため授業はない。けれど有能な文化祭実行委員の相方の不在は、僕を立ち止まる暇もなくすほど忙しくした。

 やることは掃いて捨てるほどある。喫茶店準備の監督、ミスコンの舞台の設営、本部での苦情受付。僕は今までになく校内を走り回っていた。けれど僕は、自分がどちらかというと頭脳派な人間であることをすっかり忘れていた。

 体力ないんだよね。勝にはよく馬鹿にされるけど。


 そして目が覚めたらそこは保健室だったのだ。

 すぐに保健室だとわかったのは、その保健室特有の臭いのせいだ。ツンとする、そして何故か落ち着く。

 僕は額に手をやった。

 どうしてここにいるかは、ぼんやりと記憶があった。おそらく倒れたのだ。教室の飾りつけで足りなかった暗幕を調達しに走っている最中に。


 保健室は明日からの文化祭中、関係者以外立ち入り禁止にされる区域にあるので、そこはまるで先ほどまで僕がいた世界とは別世界のように静かだった。

 あの暴力的なまでに混乱した空間の中で怪我をする人間がいないわけがないのだが、怪我をしたからといっていちいち保健室に来れるほど余裕があるわけでもないのだろう。遠くで怒鳴り声のようなものは聞えるが、それはまったく扉の向こうの出来事だった。


 ベッドを囲んでいた色あせたカーテンがシャッと音をたてて開いた。


「起きたか」

 僕を見下ろして矢尾やお先生が言った。

「睡眠不足と過労。家で何をやってるのか知らんが、学校来たら働かされるのは目に見えてるんだから、家でくらいゆっくり寝な」

 それだけ言うと、彼女はもう僕に興味をなくしたようにこちらに背を向け、椅子に座った。

「……」

 僕はぼーっと保健室の天井を見た。

 保健室のベッドに寝たのは初めてだ。知らなかった。ここの天井には犬みたいな形のシミがあるのだ。


 多岐さんはきっと、知っていただろう。

 彼女はいつも、このベッドに座って矢尾先生と話をしていたに違いない。


「先生」

 天井を見たまま僕は言った。

 犬のシミの隣に、アイスクリームを逆さにしたようなシミがあった。

「先生は、どうやって多岐さんの心を手に入れたんですか?」

「……」


 きぃ、と椅子の動く音がした。気配で先生が椅子を回して僕の方を向いたのだとわかった。

 僕が彼女の方に顔を動かすと、先生は机に頬杖をつき、片眉を上げて僕を見ていた。


「面白い事を聞くな」

「面白いですか?」

 僕は笑った。


 当然の疑問ではないだろうか? あんなにも校内で完璧な演技を見せていた彼女が、どうしてこの保健室でだけああも自分をさらけ出していたのか。僕は不思議で仕方がない。

 先生は、その手に持ったペンをくるりと器用に一回回した。


「……荻原おぎわらは、どうして佳奈かながあんなに金に執着するか知ってるか?」

「貧乏だから?」

 僕は答えた。

 それしか思いつかない。別に多岐さんを馬鹿にしたいわけじゃない。それは事実だ。多岐さんは、毎日夜遅くまでアルバイトをして、なお給食の残りで御飯代を浮かせなければいけないほど貧乏なのだ。

 すると先生は笑った。

 くすり、と笑った。

 僕は驚いた。この先生でも笑うのかと思った。


「半分は正解、半分は不正解、かな」

 また意味深な言い方ですね。

 嫌味を込めてそう言おうかと思ったがやめておいた。この先生に嫌われるのはよろしくない。この先生は多岐さんと親しいし、多岐さんの情報をたくさん持っているだろう。

 そこまで考えて、こんな場面でも打算的に物事を判断する自分が笑えた。しかも僕はまだ、多岐さんの情報を集めようと考えているのか。

 彼女と縁を切ると、決めたのに?


「佳奈は、金があれば全てが手に入ると思ってる」

 先生はまたペンを回した。


「何故なら、あの子が、金のせいで全てを失くしたからだ」


 風が吹く。秋風が。窓の向こうから、生徒達の声が聞こえる。

 まるで異空間のようだ。

 ここと、あそこは。


「佳奈の両親は借金を苦に自殺した。佳奈が学校に行ってる間に首を吊ってね。家に帰って来た佳奈は一人で両親の死体を見た。第三者にあの子の両親の死体が発見されたのは、その次の日の夕方だ。欠席の連絡もなく学校に来なかった佳奈を心配した担任があの子の家を訪ね、両親の死体の間で眠るあの子を見つけた。佳奈は一週間目を覚まさなかった。一週間後に目を覚ました時は、泣きも喚きもしなかった」

 矢尾先生はペンを回した。器用なものだ。

 一回、二回、三回。

「私があの子に初めて会ったのはその病院でだよ。あの子は私の隣のベッドで寝ていたんだ。両親を亡くしたばかりのまだ小学生の女の子が、事情聴取に着た警察に、ひどく無感動にその死体を発見した時の様子を話していたのを覚えてる。半月ほどしてからやっと、あの子は泣いたんだ。自分の中の感情の名前を知って、悲しいと言って、あの子のおじいさんの腕の中で泣いたんだ」


 矢尾先生は僕を見た。

 驚いたことに、先生は微笑んでいた。そして言った。


「荻原。あの子は怒っているんだそうだよ。お前に、激しく怒りを感じているんだそうだ」


★ ★ ★


 結局その日、僕は用事があったし、倒れたということもあっていつもより早く家に帰らせてもらった。用事というのは、ひどくつまらない料亭でのおべっかの言い合いだ。

 三ヶ月に一回くらいのペースで、僕と父、そして立科たてしな家の次女とその父親は会食を開く。その目的は両家の関係の確認と、婚約者である僕と次女の懇親だ。


 しかし前者はともかく、後者がその目的を果たせているとはとうてい思えなかった。何故なら僕も彼女も、その会食中にどんなに打ち解けて話しているように見えても、学校では一言も口を聞かないからだ。顔をあわせても軽く頭を下げる程度。それほど僕らにとって互いは、関心の低い相手だった。

 政略結婚。なるほど、泣けるね。けれど残念ながら僕にとって、結婚はそこまで重要な意味を持たなかった。


 それは手段にしかすぎないのだ。立科という名家の妻を利用して、僕は父への復讐をより効果的にやり遂げることができるだろう。つまりこの結婚は、父にとっても、そして僕にとっても、政略的なものであるわ けだ。

 僕の婚約者だという子に申し訳ないとは思わなかった。彼女もそれだけの家柄に生まれた娘なのだ。覚悟はできているだろうし、もしそうでないなら彼女自身が抵抗すべきだ。僕がどうこうする問題ではない。

 だから僕は毎回その会食には完璧な息子として出席した。


 僕は今、八畳ほどある座敷で、隣に父、正面に婚約者の立科次女、斜め左にその父親、という図式で座っていた。

 目の前の磨き上げられた黒い卓にはすでに料理が並んでいる。先ほどから父と立科当主はにこやかに話をし、たまに僕や立科次女に話をふった。僕の右側には縁側に通じる襖があって、その向こうの庭には ししおどしがある。

 そのカーンという音が、襖を通じて僕の耳にたどりついた。


「しかし、知恵ちえさんはお綺麗になられた。そう思わないか? 武士」

「そうですね。もう立派な大人の女性のようです」

 僕は答えた。

 立科知恵嬢と僕が初めて会ったのは僕が中学生、彼女が小学生の時だ。彼女はまだ幼くて、妻になる人だと言われてもぴんと来なかった。


「いや、まだまだ子供ですよ」

 でっぷりと太った立科当主は豪快に笑った。

 僕の婚約者も笑った。


 彼女が僕に特別好意を抱いていない事は知っていた。それでも彼女は、その好きでもない男を婚約者として、笑っている。

 玉の輿を夢見た多岐さんだから、こんな風に好きでもない男と結婚する覚悟はあったのだろう。彼女が恋をするのは紙に描かれた福沢先生であって、結婚相手本人ではないからだ。

 そう考えるとおかしかった。彼女が望むなら、その夢はきっと果たされるだろう。女神のような笑顔で夫を騙しぬき、その欲しいものを全て手に入れるのだ。


 保健室で、矢尾先生が言った。


 多岐さんは、信じているのだそうだ。

 人生の早い段階で両親という幸せを亡くした自分が、これからの人生でその欲しいものを手に入れられないわけがないと。

 そんなに残酷になれるほど世界というのは酷いものではないはずだと、信じているのだそうだ。


 だから彼女は怒っている。

 彼女は、僕が彼女のものになるのを拒絶したから、怒っているのだ。

 彼女は僕が欲しいのに、僕が彼女のものにならないから。


 笑ってしまう。

 なんて高慢な女だろう。彼女というひとは。

 惚れ直してしまいそうだ。

 多岐さん。

 僕はどうすればいいだろう?

 その決して幸福とは言えない生い立ちさえも乗り越えて輝く君に、見合う男になりたい。

 泣きそうにそう思った。

 ねぇ、どうする僕がかっこういいかな?


「ところで知恵さん。森君はお元気ですか?」


 僕は僕の婚約者に聞いた。

 その時彼女は、数年前に僕らが顔を合わせてから初めて、その笑顔をこわばらせた。僕は笑った。

「おびえることはないですよ。これは僕のためです。だから僕はあなたに謝らなくてはいけない。勝手をしてしまったことを」


 父は眉宇をひそめていぶかしむように、そして嗜めるように僕の名を呼んだ。

武士たけし?」

 あなたが僕の名前を呼ぶのはこういう席でだけだ、父さん。幼い頃僕はそれが嬉しくて、同時にそれを喜んでしまう自分が呪わしかった。


 ねぇ多岐さん。

 僕は君にかっこういいと思って欲しいんだ。

 僕の尊敬する君に、かっこういいと言って欲しいんだよ。

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